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図書室でプリシラを論破し、そのまま嵐のような彼女を殿下のもとへ送り出してから、二時間ほどが経った頃だった。
この日最後の授業が終わり、そろそろ帰り支度をしようとしていた私の教室へ、バタバタと尋常ではない足音が近づいてくる。
「アデライダ様……! お願いです、助けてください……!」
勢いよく扉が開いたかと思うと、そこに立っていたのは、息を荒らげ、血相を変えたコンラートさんだった。
いつも落ち着いていて穏やかなあの側近様が、髪を乱し、今にも泣き出しそうな顔をしている。
クラスメイトたちが何事かとどよめく中、コンラートさんは私の机まで滑り込むように駆け寄ってきた。
「コンラートさん? 一体どうなさったのですか?」
私が驚いて尋ねると、コンラートさんは私の両手を取らんばかりの勢いで身を乗り出し、深々と頭を下げた。
「このまま私と一緒に王宮へ来ていただけないでしょうか! 馬車は手配してあります! どうか……どうか殿下のお相手をお願いします!」
「えっ……王宮へ?」
「はい! 詳しいことは移動中にご説明します! とにかく今、殿下のご機嫌が過去最高レベルに悪くて……私ひとりでは、もう胃が持ちそうにないのです……!」
必死すぎる悲痛な叫びだった。
だが、コンラートさんの青ざめた顔と、胃が持ちそうにないという切実な訴えを聞いた瞬間、私はひとつの可能性に思い当たった。
(あ、あちゃー……。プリシラ、本当に殿下のところへ突撃しちゃったんだ……)
図書室で完璧に論破したうえ、仮婚約なら今すぐ突撃した方が好都合ではないかと、半ば背中を押すようなことまで言ってしまった。
その結果、被害がそのまま殿下とコンラートさんへ向かってしまったのだ。
(うっ……完全に私のせいじゃん。これは申し訳なさすぎる……)
罪悪感に背中を冷やしながらも、私は力強く頷いた。
「分かりました。すぐにお伺いします。準備をいたしますね」
「あ、ありがとうございます……! アデライダ様……!」
拝むように感謝するコンラートさんに案内され、私はそのまま急ぎ、王宮へ向かう馬車へ乗り込んだ。
◇
王宮の対局室に足を踏み入れた瞬間、肌を刺すような重苦しい空気が漂っていた。
部屋の中央、いつものチェス卓の席についている殿下は、まとっている気配だけで室温を氷点下まで下げかねないほど、超絶不機嫌でいらっしゃる。
綺麗な顔は極限まで引きつり、紫水晶の瞳には凄まじい苛立ちが宿っていた。
「……来たか、アデライダ」
「はい。殿下、お呼び立てと聞いて伺いました」
私が挨拶をすると、殿下はドンと重い音を立てて黒のキングの駒を盤上に置く。
「訳の分からんクソ女に絡まれた」
吐き捨てるような一言だった。
殿下の口からそんな単語が飛び出す時点で、受けた被害の甚大さは推して知るべしである。
(思った通り、殿下はプリシラを冷たくあしらったようだけど……この様子だと、プリシラにはまったく効いてなさそう。結局、殿下の不機嫌が倍増しただけになっちゃったな……)
「そう……だったのですね。それは災難でございました」
私は心の中で「本当に申し訳ありません、私がけしかけたようなものです」と平謝りしながら、そっと対面の席に着いた。
殿下はそれ以上何も語らず、鋭い手つきでチェスの駒を並べ始める。
まるで「口にしたくもないが、この苛立ちは盤の上でどうにか消化したい」とでも言いたげな、無言の圧力だった。
(よし……ここは私が責任を持って、殿下のストレス解消にお付き合いしよう!)
私は小さく気合を入れると、無言で盤上に向き合う殿下を見やり、静かに白の駒を動かした。
ブリザードのような不機嫌さをまき散らす王太子殿下。
胃痛に耐えながら壁際に控える側近。
そして、自分の招いた事態に冷や汗をかきつつ、盤上で殿下の癒やしとストレス発散に奮闘する私。
重苦しいのにどこかシュールな対局室で、静かなチェスバトルが始まった。
カツ、カツ、と駒を指す音だけが規則正しく響く。
盤上の戦いが進むにつれて、殿下を包んでいた刺々しい空気は、少しずつ、けれど確実に和らいでいった。
最初は力任せだった手つきも、やがていつもの冷静で精密なものへ戻っていく。
私が意図的に少し捻った手を指すと、殿下は苛立ちを忘れたように、ふむ……と顎に手を当て、盤上の思考へ深く沈み込んでいった。
(よしよし、いつもの集中モードに入ったぞ……)
そんな殿下の変化にいちばん敏感に反応したのは、壁際に控えていたコンラートさんだった。
先ほどまで死にそうな顔で胃を押さえていた彼が、ふうっと深く息を吐き、心底ほっとしたように胸を撫で下ろしている。
やがて私のキングが詰まされ、そこで殿下はふっと小さく息を漏らした。
「……ふう。少し、頭が冷えた」
そう言ってこちらを見る紫水晶の瞳からは、先ほどまでの鋭い棘がすっかり消えていた。
「それは良かったです。ずっと集中しておられましたが、お疲れにはなってませんか?」
私が微笑みながら尋ねると、殿下はどこか気まずそうに視線を逸らし、耳の先をわずかに赤くした。
「いや……すまなかったな。急に呼び出したりして。あんなふうに不快なことを口にしたうえ、見苦しいところまで見せた」
「いいえ。お気になさらないでください。誰しも、理不尽な目に遭えば腹も立ちますよ」
(本当、あの理不尽な突撃のきっかけを作ってしまったのは私だしね……!)
心の中で冷や汗をかきつつフォローを入れると、殿下は「お前は本当に……心が広いな」と感心したように呟き、コンラートさんへ小さく合図を送った。
するとコンラートさんが、恭しい手つきで美しいリボンの掛かった豪華な小箱を捧げ持ってくる。
「急に呼び出した詫びだ。王室専属のパティシエが今日作ったばかりの、新作の焼き菓子らしい。持っていくといい」
「えっ! 専属パティシエ特製の新作ですか!?」
箱を受け取った瞬間、香ばしいバターと甘い香りがふわりと漂ってきて、私の気分は一気に跳ね上がった。
(わーい!! パティシエ特製のお菓子だー! やっほー!!)
心の中の私は小躍りしながら大歓声を上げた。
あまりの嬉しさに顔がほころびそうになるのを必死で抑えつつ、私は丁寧に言葉を紡ぐ。
「お気遣いいただき、ありがとうございます。お呼び立てくだされば、いつでも参りますので、どうぞご遠慮なくおっしゃってくださいね」
私が満面の笑みでそう告げると、殿下はいつものように片手で顔を覆い、天を仰ぐ謎のポーズを取った。
そして、絞り出すように呟いた。
「……ああ、感謝する」
◇
——しかし。
この日を境に、穏やかだったはずの日常は、とんでもない方向へ転がり始めた。
学園でプリシラが殿下に突撃する。
殿下が馴れ馴れしい態度に激怒し、超絶不機嫌になる。
限界を迎えたコンラートさんが、必死の形相で私を王宮へ緊急召喚する。
私が対局室でチェスのお相手をして殿下の機嫌を直し、そのお詫びとして高級なお菓子をいただいて帰る。
そんな「不機嫌な殿下、胃痛の側近、緊急召喚、チェス、そして高級お菓子」という謎の一連の流れが、週に何度も何度も繰り返されるようになったのだ。
(プリシラ、また殿下の教室に突撃したのかぁ……)
図書室でハリエットさんと読書をしている時も、中庭でのんびりお茶を飲んでいる時も、ただ廊下を歩いている時でさえ、コンラートさんは「アデライダ様ーっ!」と悲壮感たっぷりに駆けつけてくる。
なぜ毎回、コンラートさんは私の居場所が分かるのだろうか。
……まぁ、それはともかく。
そのたびに王宮へ連行され、対局室で殿下のチェスのお相手を務め、お土産として高級お菓子をいただいて帰る。
毎回違う種類の焼き菓子をいただけるのは、私としてはかなり嬉しかった。
しかし……。
回数を重ねるごとに、不機嫌なオーラをまき散らしながらも、必死に公務とチェスに向き合う殿下の姿を見るたび、私の胸はじわじわと痛むようになっていった。
(毎回美味しいお菓子がもらえるのは本当に嬉しいけど……殿下のストレス、そろそろ限界突破しちゃいそうだよ……)
怒りを押し殺しながらチェス盤に向かう殿下の顔を思い浮かべ、私は手元のお菓子箱へ視線を落とした。
そろそろ本格的な対策を立てなければならないかもしれない。
◇
「不機嫌な殿下、胃痛の側近、緊急召喚、チェス、そして高級お菓子」というループがすっかり定着していく中で、学園内では思わぬ副産物まで生まれていた。
放課後になるたび、あの完璧な側近であるコンラートさんが、青ざめた顔で私のもとへ駆け込んできては、「アデライダ様、どうか王宮へ……!」と必死に迎えに来る。
そんな光景が何度も目撃された結果、生徒たちの間では、ある認識がすっかり定着してしまった。
『仮婚約とは言いつつも、エルヴェ殿下とアデライダ様の絆は非常に深い』
『殿下はアデライダ様がいらっしゃらないと駄目なのだ』
……という、何とも言いがたい誤解である。
いや、前者はまだしも、後者は殿下への認識としてどうなのだろう。
さすがに少々不敬ではないだろうか。
だが、そのおかげで、私に対する周囲の態度は劇的に変わった。
かつて私を理不尽に不吉な魔女などと忌み嫌い、いまだに遠巻きに陰口を叩いていたような生徒たちが、学園からほとんど姿を消していた。
(周囲からの悪意ある視線や陰口がなくなったのは、素直にありがたいんだけど……)
中庭のベンチで風に吹かれながら、私は小さく息を吐いた。
私の周囲が平和になった一方で、殿下のストレス値は日ごとに限界へ近づいている。
いくら美味しい高級お菓子がいただけるからといって、このまま殿下が「あの女」では済まさず、「クソ女」とまで吐き捨てるほどの精神的ダメージを受け続けるのを、見過ごすわけにはいかなかった。
「……ハリエットさん。プリシラ様の件で、少しご相談があるのですが」
私は向かいに座るハリエットさんへ、静かにそう切り出した。
「プリシラ様、ですか」
ハリエットさんは「ああ、やはりその話ですわね」と言いたげに、納得したように頷く。
彼女は原作者としての責任感と、ほどよい野次馬根性も手伝って、プリシラの学園での動向をひそかに観察し続けてくれていたのだ。
「はい。実は最近、プリシラ様が殿下へ突撃なさるたびに、殿下がものすごく不機嫌になってしまわれて……。私、殿下のことが本気で心配になってきたのです」
私が困ったように打ち明けると、ハリエットさんは眉をひそめ、深々とため息をついた。
「やはり、相当暴れ回っていらっしゃるのですね……。私も遠目から見ておりますけれど、あの方の猪突猛進ぶりは日に日に増すばかりですわ」
「そうなのですね……。ハリエットさんからご覧になって、最近のプリシラ様のご様子はいかがでしょう。何か対策の糸口になりそうなことはありませんか?」
「そうですね……」
ハリエットさんは紅茶のカップを置き、人差し指を顎に当てて考え込んだ。
「プリシラ様は、イベントが起きないのは周りのせいだと思い込んで、どんどん焦っていらっしゃるのですわ。ですから、エルヴェ殿下への突撃の回数も日に日に増えております。ただ……」
そこでハリエットさんは少し声を潜め、密談でもするように私の方へ顔を寄せた。
「あの猪突猛進なお方ですもの。進展がないと焦れば焦るほど、近いうちにきっと、もっと強引な手段に出る可能性があります」
その言い方が妙に真に迫っていて、私は嫌な予感にそっと目を逸らしたくなった。
猪突猛進がさらに強引になる未来など、碌なことになる気がしない。
「強引な手段ですか?」
「ええ。ゲームの知識を笠に着て、無理やりにでもイベントを発生させようと画策している節がありますの」
(ええぇ……。これ以上暴走されたら、殿下の胃とコンラートさんの胃に穴が空いちゃうよ……!)
私は内心でげんなりしつつ、ハリエットさんの話の続きを促した。
本日はもう1話続きを更新します。




