3
本日、2回目の更新です。
「具体的に申しますと、ゲーム原作におけるエルヴェ殿下ルート最大の重要イベント――それは、チェスで殿下に勝利することですの」
「えっ……? チェスで、ですか?」
私は思わず目を丸くした。
あのチェス馬鹿……もとい、超理系思考で無駄な手を一切嫌う完璧主義者のエルヴェ殿下だ。
日夜チェス盤に向き合い、その腕前はもはや並の名手どころではない。あのレジェンドであるエッカルト先生すら上回る実力をお持ちの殿下に、素人同然のプリシラが勝てるはずがない。
(いやいや……。そもそも殿下にチェスで勝つなんて、普通に考えて無理だよね?)
「本来であれば、図書室でチェスに関する貴重な古書を見つけたり、殿下との親愛度を上げたりと、いくつものフラグを積み重ねて、ようやく発生するイベントですの。ですが、今のプリシラ様は焦っていらっしゃいますから、そうした前準備をすべて飛ばして、強引に勝負を挑んでくる可能性がありますわ」
「なるほど……。フラグも何も無視して、いきなり勝負を吹っかけてくるかもしれないのですね」
「そういうことですの。ですから、こちらとしても万全の準備をしておくに越したことはありませんわ」
そう言うと、ハリエットさんは制服のポケットから、丁寧に折りたたまれた一枚のメモ用紙を取り出した。
「アデライダ様。こちらを、エルヴェ殿下にお渡しいただけますでしょうか」
「これは……?」
受け取って広げてみると、アルファベットと数字が紙面いっぱいに並んでいる。
(これって……チェスの棋譜?)
「はい。チェスの対局手順を記した棋譜ですわ」
「棋譜……。ですが、ハリエットさん」
私は手元のメモとハリエットさんの顔を見比べ、そっと首を傾げた。
「殿下のチェスの腕前は本物です。いくらプリシラ様が勝負を挑んできたとしても、殿下が負けるなどあり得ないと思うのですが……。どうしてこの棋譜をお渡しする必要があるのですか?」
何か裏があるのだろうか。
不思議そうに尋ねる私に、原作者であるハリエットさんは、苦々しいものを噛みしめるように、小さくため息をついた。
「……実は、それこそが原作ゲームにおける最大の穴なのですわ」
首を傾げる私へ、ハリエットさんはメモを示しながら、さらに声を潜めて説明を続けた。
「ゲーム原作におけるチェス対局イベントでは、エルヴェ殿下が指してくる手——つまり、プログラム上の思考パターンが毎回完全固定でしたの」
「完全固定……」
「ええ。たとえゲーム中で一度負けてしまっても、再戦した時に殿下が指してくる手順は初戦とまったく同じですの。何度やり直しても、第一手から最後まで、殿下の指す手は一卵性双生児のように寸分違わず同じ動きをしますわ」
「なんと……」
私は思わず目を丸くした。
現実のチェスであれば、相手の出方や盤面の変化に応じて、常に何百、何千という選択肢が生まれる。
だが乙女ゲームの中では、プログラムとして組み込まれた挙動には、あらかじめ決められた答えがひとつしか用意されていなかったのだ。
「つまりですわ、アデライダ様。その固定された殿下の手に対して、絶対に勝ちへ持ち込める必勝の手順さえ知られてしまえば……」
「チェスのルールをまったく知らない素人であっても、メモの通りに駒を動かすだけで、殿下に勝ててしまうということですね」
「まさにその通りですわ!」
ハリエットさんはパチンと指を鳴らした。
(ああ……なるほど! 要するに、クイズ大会で出される問題が一種類しかなくて、その答えさえあらかじめ暗記していれば、勉強したことのない素人でも満点を取れちゃう……みたいなものか!)
プリシラが前世でこのゲームのヘビープレイヤーだったのだとすれば、その必勝の棋譜を記憶している可能性は極めて高い。
ルールも戦術も知らないまま、ただ覚えた手順通りに駒を動かす。そして、あたしの勝ち、これで運命のイベント達成とでも言いたげに得意げな顔をする姿が、あまりにも容易に目に浮かんでしまった。
(うわぁ……。いかにもあのプリシラが飛びつきそうな、ズルい手だなぁ……)
「プリシラ様が前世の知識を使って、その必勝パターンを叩き込んでいるとしたら、殿下がゲームの仕様によってあっさり負かされてしまう危険がありますわ」
ハリエットさんは悔しそうに拳を握りしめた。
「だからこそ、このメモが重要なのですね」
「はい。殿下に相手が狙ってくる手順を事前にお伝えしておけば、万が一の事態にも備えられますわ。……ですが、ひとつだけ懸念されることがありますの」
そう言って、ハリエットさんはわずかに表情を曇らせた。
「懸念?」
「ええ。もしこの世界に働くゲームの強制力が暴走して、殿下の指す手が無理やりその固定パターンへ縛られてしまった場合ですわ。そうなれば、殿下はご自身の意思で駒を動かせなくなります。そうなっては、打つ手なしです」
「う……ゲームの強制力、ですか」
一瞬、背筋がひやりとした。
かつて生徒会への就任を促そうと働いていた、あの見えない世界の法則を思い出したのだ。
しかし、ハリエットさんはすぐに首を振る。
「ですが、おそらくその心配は要りませんわ。これまでの観察から見ても、前提となるフラグがことごとく折れている今の状況で、そこまで強力な強制力が働くとは思えませんもの」
「たしかに……。護衛騎士の件も、生徒会に入られなかった件も、殿下はご自身の意思でフラグをへし折ってこられましたものね」
「その通りですわ! ですから、たとえプリシラ様がその手順で勝負を挑んできたとしても、殿下が普段通り実力で指されれば、まず負けることはありません。……ただ」
そこでハリエットさんは、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ただ、普通に勝つだけでは少し面白くありませんでしょう?」
「ハリエットさん……?」
「このメモに書かれた必勝の棋譜――それを逆手に取るのですわ。相手が意図している手順をあえて途中で崩し、丸ごと無効化してしまう手を指すのです」
ハリエットさんの瞳が、キラリと楽しげに光る。
「それこそが、身勝手なゲームの法則に対する最大級の否定であり、もっとも強力なカウンターになりますもの!」
(おお……! 原作者様、言ってることがめちゃくちゃ頼もしい!)
ただ勝つだけではない。
相手の姑息なシナリオごと粉砕してみせる。
その発想に、私も思わず大きく頷いた。
「素晴らしいアイデアです、ハリエットさん! 殿下にこのメモをお渡しする際は、その旨もしっかりお伝えしておきますね」
「ええ、よろしくお願いしますわ。殿下ならきっと、面白がって完璧に罠を潰してくださるはずですもの!」
「本当にそうですね」
話がまとまった、ちょうどその時だった。
中庭の向こうから、バタバタと聞き覚えのある悲痛な足音が近づいてくる。
「ア、アデライダ様————っ!!」
髪を振り乱し、必死の形相でこちらへ駆けてくるのは、コンラートさんだった。
どうやら今日も今日とて、プリシラ様が殿下のもとへ突撃し、またしても超絶不機嫌にしてしまったらしい。
(コンラートさん、今日も本当にお疲れ様です……)
私はハリエットさんから託された大切なメモをしっかり握りしめ、席を立った。
「ではハリエットさん、さっそくこの防衛策を殿下に届けてまいりますね」
「はい。行ってらっしゃいませ、アデライダ様。ご武運を!」
頼もしい友人の見送りに背中を押され、私は今日もまた、胃痛に耐えるコンラートさんのもとへと歩み寄った。




