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ガタゴトと規則正しく揺れる馬車の中で、私はハリエットさんから預かった一枚のメモをじっと見つめていた。
そこに記されているのは、プリシラが前世の記憶を頼りに使ってくるであろう、チェスの必勝棋譜。
(さて……これを、どうやって殿下に渡そうかな?)
窓の外へ目を向けながら、私は小さく息をついた。
当然ながら「これは前世が乙女ゲームのヘビープレイヤーだった男爵令嬢が使ってくる必勝法です」などと馬鹿正直に説明できるわけがない。そんなことを言えば、さすがの殿下も「アデライダの頭がおかしくなった」と本気で心配するだろう。
(理由を曖昧にしたまま渡すのも怪しいし……。何か良い渡し方はないかなぁ)
考え込んでいるうちに、私はふと、ひとつの案を思いついた。
(そうだ、「この棋譜を崩す方法を、一緒に考えましょう」って持ちかければいいんだ!)
殿下にメモを見せて、その手順を無効化する一手を二人で研究する。
あの天才的な記憶力と分析力を持つ殿下なら、一度盤上で再現し、しっかり考察さえすれば、その棋譜は完璧に脳裏へ刻み込まれるはずだ。
そうしておけば、いざプリシラがその通りに駒を動かしてきた時にも、すぐに気づいて対処できる。
(うん、我ながら完璧な作戦! これなら変に怪しまれることもないよね)
よし、と心の中で深く頷いたちょうどその時、馬車は王宮の車寄せへとなめらかに滑り込んだ。
◇
案内された王宮の対局室では、相変わらず眉間に深々と皺を刻んだ殿下が待っていた。
壁際で胃を押さえているコンラートさんが「どうか頼みます……!」と言わんばかりの切実な視線をこちらへ送ってくる。
私は苦笑をこらえながら、いつものように殿下の向かいの席へ腰を下ろした。
「殿下。本日も召喚に応じ、参上いたしました」
「……急に呼び出してすまないな、アデライダ。あのクソ女の顔を思い出すだけで頭が痛い」
心底不愉快そうに吐き捨てる殿下に、相当なストレスが溜まっていることがありありと伝わってくる。
私はそっとポケットから折りたたんだメモを取り出し、チェス卓の上へ静かに広げてみせた。
「殿下。本日の対局を始める前に、少し興味深い棋譜をお持ちしたのですが、ご覧になっていただけますか?」
「棋譜……? お前がそういうものを持ってくるとは珍しいな」
殿下はあからさまに怪しむでもなく、わずかに眉を上げて、そのメモへ視線を落とした。
「はい。これは、とある対局で白が勝利した際の手順を記録したものなのです」
「ふぅん……どれ」
「ですが殿下。この棋譜の通りに進んだ場合、逆に黒が——この白を完膚なきまでに叩きのめし、完全勝利を収めるには、どうお指しになりますか?」
私がそう問いかけた瞬間、殿下の紫水晶の瞳が鋭く光った。
「……へぇ。完膚なきまでに叩きのめす、か」
つい先ほどまで不機嫌そうだったその顔に、チェスプレイヤー特有の不敵な笑みが浮かぶ。
狙い通り、殿下の好奇心に火がついたらしい。
(よし! 作戦成功!)
私は密かに心の中でガッツポーズを作った。
「……まずは、実際にこのメモの通りに駒を並べてみましょうか」
「ああ、そうだな」
私と殿下は、卓上のチェス盤へメモに記された棋譜通りに駒を進めていった。
コツ、コツ、と木製の盤に駒が触れる音が続き、数十手ほど再現したところで、殿下の手がピタリと止まる。
盤面を上から見下ろした殿下は眉間に皺を寄せ、心底納得がいかないとでも言いたげな呆れ顔を浮かべた。
「……なんだこれは。あまりにも酷いな」
「酷い……?」
「ああ。白の手筋もせいぜい並程度だが、それ以上に黒の手が酷すぎる。なぜここでこんな悪手を連発する? 初級者でも、もう少しまともに指すぞ」
殿下は心底呆れたように、深々とため息をついた。
(そりゃそうだよね……。元は乙女ゲームのミニゲーム用の棋譜なんだから、殿下ほどの指し手から見れば、ツッコミどころ満載の穴だらけな手順に見えるよね)
「普通に指していれば、黒が勝つこと自体は造作もない。だが……お前が言う『完膚なきまでに叩きのめす』となると、話は別だな」
殿下は紫水晶の瞳を細め、腕を組んだまま盤上へ鋭い視線を落とした。
「この悪手の山の中から、最短かつ最も惨烈に白を粉砕する一手……か」
私もまた、盤面を見つめながら思考を巡らせた。
普通に勝つだけなら、殿下の圧倒的な実力で途中から捻り潰してしまえばいい。
けれど、目指すべきはそこではない。
前世のゲーム知識という必勝パターンをそのままなぞり、勝ち誇った顔をするであろうプリシラの狙いを、最も絶望的な形で崩壊させることだ。
沈黙が、対局室を静かに包み込む。
コツン、と殿下が白の七手目の駒を進め、その直後の盤面をじっと見据えた。
その瞬間——殿下の目が、カッと大きく見開かれる。
「……見つけたぞ」
「えっ? 本当ですか!?」
「ああ。白の七手目……この直後だ。黒がここで、クイーンサクリファイスを仕掛ける」
「クイーンサクリファイス……!?」
私は思わず息を呑んだ。
チェスにおける最大の切り札であり、最強の駒でもあるクイーンを、あえて相手へ差し出す手——。
「そうだ。ここで黒がクイーンを差し出せば、白はほぼ確実に食いつく。だが、その瞬間に白の防御陣形には決定的な綻びが生まれる」
殿下の指先が、盤上の一点を静かに示す。
「そこへ続く黒のたった一手。ポーンを進めてチェックをかける。それだけで、白のキングはどこへ逃げようと詰みだ」
「ポーンで……チェックメイト……!」
(凄すぎる……! 一番弱いポーンのひと突きで、必勝を確信していた相手の王を詰ませちゃうなんて、まさに完膚なきまでに叩きのめす一手じゃん!)
その鮮やかすぎる手順の美しさに、思わず鳥肌が立った。
……しかし次の瞬間、私の脳裏を強烈な既視感が駆け抜ける。
(待って……。クイーンサクリファイスからの、ポーンでのチェック……?)
思わず目を見開いた私を見て、殿下はどこか懐かしむように、そして少し誇らしげに微笑んだ。
「ふっ……覚えているか、アデライダ。俺たちが初めて顔を合わせたあの日、お前が俺に初勝利を収めた時の戦術だ」
「あ……!」
そうだ。
あの顔合わせの日。王宮の東屋で指した三戦目。
私が殿下から奇跡のような初勝利をもぎ取った時の決め手こそ、まさにこのクイーンサクリファイスだったのだ。
「あの一戦があったからこそ、この悪手だらけの盤面から、一筋の勝ち筋を見つけ出すことができた。お前とのあの対局がなければ、気づけなかっただろうな」
殿下はそう言って、満足そうに頷いた。
(えっ……ええぇーっ!?)
私の心の中は、もはや大混乱である。
(なにそれ!? ハリエットさんが用意してくれたメモの裏をかく手が、巡り巡って、かつて私が殿下に勝ちたくて必死に掴んだ戦術へと繋がるなんて……!)
これは、いったい何なのだろう。
ゲームの強制力が歪んだ形で作用した結果なのか。
それとも、ただの偶然が起こした奇跡なのか。
(……ううん、理由なんてどうでもいい!)
頭を抱えそうになりながらも、私はすぐに思考を切り替えた。
(ゲームの法則だろうと、ただの偶然だろうと、これでプリシラの必勝手順をぐうの音も出ないほど完璧に粉砕できる準備が整ったんだから、結果オーライだよね!)
「素晴らしいです、殿下! まさに完璧な一手ですね」
私が心からそう称賛すると、殿下はふん、と満足げに鼻を鳴らした。
「当然だ」
そうしてようやく、この日一番の晴れやかな笑顔を見せてくれた。
壁際では、控えていたコンラートさんが、胃を押さえたまま静かに目を閉じていた。
あれはきっと、安堵のあまり心の中で泣いている顔だ。
こうして、プリシラの必勝棋譜を打ち砕くための備えは整った。
◇
翌日、昼休みの学園の中庭。
爽やかな風がそよぐ木陰のベンチで、私はハリエットさんに昨日の研究成果を報告していた。
「——というわけで、白の七手目の直後に黒がクイーンサクリファイスを仕掛け、続けてポーンでチェックをかければ、あの必勝棋譜は完全に無効化できることがわかりました!」
私の報告を聞いたハリエットさんは、パチリと目を見開いたあと、「まあ……!」と感嘆の声を漏らした。
「クイーンサクリファイスからの、ポーンでのチェック……! それは思いつきもしませんでしたわ。さすがは殿下ですわね」
「はい。殿下はあの悪手だらけの盤面を追ううちに、その大逆転の勝ち筋を見抜いてしまわれたんです。本当にお見事でした」
「ふふ、なるほど……。対局といっても、元々はゲーム内のミニゲームですものね。プレイヤーがクリアしやすいよう、難易度はかなり低めに調整されていたのでしょう」
ハリエットさんは納得したように頷くと、クスリと楽しげに笑った。
「実は、チェスの監修をしてくださったのは私とは別の方でしたの。ですから、私自身は細かな棋譜の手順までは設定しておりませんでしたの。ですが、私が書いた原案シナリオの中では、エルヴェ殿下は誰にも負けないチェスの絶対王者という設定でしたのよ。それなのに、ゲーム内ではヒロインを持ち上げるために悪手を指させられていたなんて……なんだか殿下が少しお気の毒になってしまいますわね」
「ふふっ。確かに、本来の殿下の実力からすれば屈辱的な手順ですよね」
「ええ。ですが、これでどのような形で勝負を挑まれても、殿下が裏技の必勝棋譜に陥る心配はなくなりましたわ。対抗策が見つかって、本当に良かったです」
ハリエットさんは、心から安心したように胸を撫で下ろした。
ゲーム内の「ヒロイン勝利」という固定イベントを、作中のキャラクター自身の知恵と実力によって完全に崩し去る準備は整った。
フラグはすでに折れ、必勝棋譜すらも無力化されている。
プリシラがどのような罠を仕掛けてこようとも、今の私たちなら、冷静に、そして完璧に迎え撃てるはずだ。
「ハリエットさん、本当にありがとうございました。ハリエットさんがあのメモを残してくださったおかげです」
「いいえ、私の方こそ。アデライダ様が殿下とうまく連携を取ってくださったおかげですわ。……さあ、これで準備は完璧ですわね」
ハリエットさんは力強く頷き、遠く校舎の方へ視線を向けた。
その瞳には、迫り来る波乱を前にしても揺るがない、確かな決意が宿っている。
静かな中庭に、放課後を告げる鐘の音が遠く響いた。
嵐の前の静けさは、もう間もなく終わりを告げるのだろう。




