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放課後、帰宅の支度を整えていた私の教室に、今日も今日とて聞き覚えのある足音が近づいてきた。
しかし、いつもとは何かが違う。
普段なら廊下の向こうから、バタバタと悲鳴のような足音を響かせ、血相を変えて飛び込んでくるコンラートさん。
だが今日の足音は、ひどく重く、妙に力がなかった。
「アデライダ様……」
扉を開けて入ってきたコンラートさんは、胃を押さえて息を切らしているわけでも、焦り狂っているわけでもない。
ただ、どこか遠くを見るような虚ろな目で、何とも言えない浮かない表情を浮かべていた。
「コンラートさん……? 本日もプリシラ様が……?」
私がそう尋ねると、隣にいたハリエットさんも心配そうに身を乗り出した。
「はい。いつも通り男爵令嬢が突撃して来られたのですが……本日は殿下に、チェスの対戦を申し込まれたのです」
「チェスを……?」
ついに来たか、と私とハリエットさんは密かに視線を交わした。
事前に分析していた通り、痺れを切らしたプリシラが、ついにゲームの攻略イベントを強行しようと動き出したのだ。
だが、コンラートさんの表情は、「殿下が激怒して大変です」と訴えに来た時のいつもの苦労顔とは、どこか決定的に違っていた。
「殿下は渋々その勝負をお受けになったのですが……その、何と言いますか……非常に気味の悪いことが起きまして」
「気味が悪いこと……?」
ハリエットさんが怪訝そうに首を傾げる。
コンラートさんは、ひどく弱り切った顔で静かに首を振った。
「私からうまく説明できる自信がありません。詳しいことは王宮でお話しいたしますので……アデライダ様、どうかお越しいただけませんでしょうか」
「わかりました。すぐに向かいます」
私は頷き、不安そうな顔で見送ってくれるハリエットさんに「行ってきますね」と声をかけてから、コンラートさんとともに馬車へ乗り込んだ。
胸の奥に、言いようのないざわめきだけを残したまま。
◇
王宮へ向かう馬車に揺られながら、私の胸の内では嫌な予感がぐるぐると渦巻いていた。
(気味が悪いことって、一体何……?)
ふと、ハリエットさんと事前に懸念していた最悪のシナリオが脳裏をよぎる。
(まさか……本当にゲームの強制力が暴走した?)
もし世界の法則によってその強制力が働き、殿下がご自身の意思とは無関係に、あの決められた固定手順しか指せなくなってしまっていたとしたら——
殿下ほどの棋士にとって、自分の意思を奪われ、敗北へと誘導されることほど、気味が悪く、屈辱的な恐怖はないはずだ。
(あの作戦メモは間に合わなかったの? それとも、強制力の前では無力だったの?)
考えれば考えるほど胸の奥がざわつき、冷たい汗が背中を伝っていく。
そんな不安を抱えたまま王宮へ辿り着いた私は、対局室の扉の前でひとつ息を呑んだ。
扉を開けると、そこにいたのは、いつもの気難しく威厳に満ちた王太子殿下ではなかった。
ソファーに深く身を沈め、額に手を当てたまま、どこか虚空を見つめている男。
まるで魂が半分ほど抜け落ちてしまったかのような、精神的に限界寸前のエルヴェ殿下だった。
「……アデライダ、来たか」
殿下は弱々しく、視線だけで私を迎えた。
いつもの不機嫌な圧迫感は影も形もなく、ただ疲れ切った気配だけがそこにある。
「殿下……大丈夫ですか? コンラートさんから、チェスの対局で不気味なことが起きたと伺ったのですが……」
私がそう尋ねると、殿下は深く重いため息をつき、隣に立つコンラートさんへ顎をしゃくった。
「コンラート……お前から説明してくれ。俺はもう、思い出すだけで頭が痛い……」
「はい、かしこまりました……」
コンラートさんも戸惑いながら、ことの経緯を語り始めてくれた。
「本日、男爵令嬢が殿下に強い態度でチェスの対戦を迫って参りまして。殿下は鬱陶しがりながらも、手っ取り早く追い払うために対局をお受けになられたのです。……ですが、対局が始まってほどなく、殿下は盤上の異様さにお気づきになりました」
「異様さ……ですか?」
「ああ」
ここで、殿下が弱々しく口を挟んだ。
「あのクソ女が指してくる手が……先日、お前と一緒に研究した、あのメモの棋譜と——寸分違わず同じだったんだ」
(やっぱり……! プリシラは、あの固定棋譜通りに指してきたんだ!)
胸の内で、私はハッと息を呑んだ。
ハリエットさんの予想通り、プリシラはゲーム内の必勝パターンをそのままなぞって、殿下を攻略しようとしたのだ。
「だが、お前とあのクイーンサクリファイスからの対策を完璧に練っていたからな。俺は白の七手目の直後、迷わず黒のクイーンを差し出し、続くポーンの一手でチェックをかけた。あっという間だった。黒の——つまり俺の完全勝利で、盤上はその場で決着した」
「流石です、殿下!」
私は思わず胸を撫で下ろした。
ゲームの強制力で殿下の手が縛られることもなく、殿下はご自身の意思と実力で、見事にあのハメ手を打ち砕いたのだ。
……しかし、コンラートさんの顔は浮かないままで、次の言葉を続けた。
「……問題は、その後なのです、アデライダ様。殿下がチェックメイトを告げ、勝負はついたとお示しになったのですが……男爵令嬢は、それを理解していないご様子でした」
「……えっ?」
「盤上の結果など一切目に入っていないように、ご自分の手元ばかり見つめて、ひとりで勝手に駒を指し進め始めたのです。ご自分のキングがすでに詰んでいる盤面で、ご自分にだけ別の盤面が見えているかのように」
コンラートさんは、そこで疲れ切ったようにひとつ息をついた。
「そして何手か駒を動かしたかと思うと……突然、したり顔でこうおっしゃったのです。『あたしの勝ちね!』と」
「………………は?」
私は思わず素の声を漏らしてしまった。
「な……なにそれ……?」
隣で殿下が、身の毛もよだつ恐怖体験でも思い出したかのように、ぶるりと肩を震わせる。
「本気で意味が分からなくて怖かったぞ……。勝負はとっくに終わっているのに、人の話も聞かず、ひとりでカツカツと駒を動かして『勝った!』だからな。完全に目が据わっていたし、会話も成立しない。不気味すぎるだろ、ホラーかよ……」
力なく吐き捨てられたその言葉に、私は必死に思考を巡らせた。
(なんで、勝負がついたのに無視して指し続けたんだろう……?)
まず、プリシラはあのメモの棋譜通りに指してきた。
カチリ、と一つ目のピースが嵌まる。
そして殿下は、クイーンを取れる局面なら相手は当然そこへ食いつくと読んで、白の七手目の直後にクイーンサクリファイスを仕掛けた。
カチリ、と二つ目のピースが嵌まる。
そして、白の八手目で生じた綻びをついて、殿下は盤面をひっくり返し、チェックメイトを決めた。
カチリ、と三つ目のピースが嵌まる。
それにもかかわらず、彼女はそれに気づかないまま最後まで駒を動かし続けた。
カチリ、と四つ目のピースが嵌まる。
……そこから導き出される結論は、もうひとつしかなかった。
(プリシラ……!! もしかしてチェスのルールも分からないまま、ただ『この通りに指せば勝てる』という手順だけを丸暗記して挑んできたの……!?)
パズルのピースが次々と噛み合い、真実があまりにも綺麗に完成する。
プリシラは、チェスの基本的な勝敗のルールすら知らなかったのだ。
だから、自分のキングがすでに詰んでいることにも気づけなかった。
殿下が途中で盤面をひっくり返したことも理解できないまま、ただ頭の中に叩き込んできた手順だけを最後までなぞり、ひとりで勝利宣言を叫んだのである。
(だから途中で負けても気づけずに、最後まで独り芝居を続けちゃったんだ……!)
真相が分かってしまえば、あまりにもお粗末な一人相撲だった。
(勝ち負けすら分からないのに、チェスで勝負を挑むなんて……! 度胸があるのか、ただの馬鹿なのか、どっちなの……!?)
心の中では呆れとツッコミが止まらなかった。
……が、そこまで考えて、私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(……待って。ちょっと待って……?)
思考を一旦、巻き戻す。
当然、殿下は「相手がルールを知っているプレイヤー」前提で指していた。だから、白の七手目の直後に黒のクイーンを差し出せば、相手は当然そこへ応じて綻びが生まれると踏んで、サクリファイスを仕掛けたのだ。
だが、プリシラはルールなんて知らない。相手の指し手など見てもいない。ただメモ通りの八手目を指しただけだ。
もしも——もしも、あの必勝棋譜の『白の八手目』が、差し出されたクイーンを無視するまったく別の手だったら……?
殿下は最強の駒であるクイーンをただ無駄に失い、盤面は泥沼化していたかもしれない。
(白の八手目が、たまたま差し出されたクイーンを取る手になっていたから成立した……!? 誘導に乗ったんじゃなくて、必勝棋譜をなぞったプリシラが奇跡的に殿下の罠へ自爆特攻してきただけ……!?)
ゾッと鳥肌が立った。
あらかじめ二人で対策を練っていたとはいえ、一歩間違えればクイーンサクリファイスは殿下の悪手になっていてもおかしくなかったのだ。
(偶然とはいえ、サクリファイスが効いて良かった……)
——だが。ふと視線を戻した先にある光景を見て、そんな安堵はスッと引いていく。
ソファーに深く沈み込み、青白い顔で額を押さえたまま動かない殿下。
その隣で、まるで本当に幽霊でも見たかのような顔で硬直しているコンラートさん。
どう見ても二人とも、このホラー体験でごっそり精神力を削られていた。
(……いや、良くない。ちっとも良くない)
プリシラの間の抜けた失態は、同時に、殿下たちにとっては理由も分からず、会話も通じない恐怖そのものだったのだ。
自分の都合だけで周囲を混乱に陥れ、他人の精神をここまで削っておきながら、当の本人だけは何かを成し遂げたかのように満足げでいる。
その身勝手さに、私の中で呆れを超えた、冷ややかで静かな怒りがじわじわと鎌首をもたげた。
「殿下……少し、気分転換に指されますか?」
努めて穏やかな声でそう提案すると、殿下は力なく顔を上げた。
「……ああ。そうだな。この忌々しい記憶を上書きしたい」
そう言って殿下は盤に向かったけれど、その手つきはいつもの精密さを欠いていた。
当然だ。不気味な一人相撲を見せつけられた直後に、集中できるはずがない。
結局、その日の対局は、殿下が珍しく悪手を重ね、私の勝ちで終わった。
「……すまん。今日は、どうも駄目だな」
殿下は悔しげに眉をひそめ、駒を片付ける手にわずかに力を込めた。
「いいえ、お気になさらないでください」
ゲーム攻略の鍵となるイベントは、殿下がご自身の力であの必勝の筋書きを打ち砕いた。そこに多少の幸運が重なっていたとしても、その事実に変わりはない。
それ自体は間違いなく良かったはずなのに、殿下のあまりの困憊ぶりを前にすると、私の胸はチクリと痛んだ。
攻略の鍵を壊したからといって、プリシラがこのままあっさり諦めるとは思えない。
チェスのルールすら知らないのに突撃してくるような相手だ。
次はもっと支離滅裂で、周囲を傷つけるような行動に出る可能性だってある。
(私には、何が出来るだろう……)
恒例となった高級菓子のお土産を受け取り、王宮を後にする馬車の中でも、私の思考はプリシラへの対策だけに向いていた。
殿下の平和を守るために。
私の平和なお菓子ライフを守るために。
そして何より、周囲の迷惑も、殿下ご自身の意思すら見ようとせず、自分の都合のよい筋書きだけを押しつけようとするプリシラに、これ以上好き勝手させるわけにはいかない。
冷ややかな怒りとともに、私の中で確かな覚悟が静かに固まっていった。
◇
翌日、昼休みの学園の中庭。
「——ひとりで指し続けて勝利宣言ですか!?」
「はい。殿下が対策を講じてチェックメイトを決めたのに、プリシラ様はそれをまるで認識できず、暗記した手順を最後までなぞって『あたしの勝ち!』と……」
「まあ……! なんという……なんという度胸のある馬鹿なのでしょう……!」
昨日の出来事を報告すると、ハリエットさんは、昨日の私とほとんど同じ勢いで盛大なツッコミを入れた。
ただひとつ違ったのは、私が度胸があるのか馬鹿なのかと悩んだところを、ハリエットさんは迷いなく両方だと言い切ったことだ。
私は「なるほど、それが正解か……」と妙に納得してしまった。
第3章はここまでです。
次は第4章。いよいよ最終章に突入します。




