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犠牲と昇変  作者: ちうめい
第4章 契約の帰結

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 数日後、休み時間の学園。

 ハリエットさんと一緒に廊下を歩いていると、曲がり角の向こうから、バタバタと激しい足音がこちらへ近づいてきた。


「ちょっと! アンタたち!!!」


 耳をつんざくような喚き声とともに現れたのは、男爵令嬢プリシラだった。

 スカートを翻し、肩で息をしながら、今にもこちらへ食ってかからんばかりの目で睨みつけてくる。


「悪役令嬢のくせに、なんでいじめてこないのよ! アンタがちゃんと動かないせいで、せっかく攻略キーをクリアして、スチルまで回収したのに! 殿下との仲が全然進展しないじゃない!」


 開口一番怒鳴り込んできた内容が、あまりにも支離滅裂すぎて、私とハリエットさんは思わずその場に立ち尽くした。


(……いやいや。攻略キー、まったくクリアしていないからね?)


 心の中で即座にツッコミを入れる。

 先日、殿下に手酷く叩きのめされた挙げ句、ひとりで勝手に勝利宣言だけして去っていったのは、一体誰だっただろうか。殿下からすれば、あれは恋愛イベントなどではなく、普通にホラーである。それなのに、よくもまあ「クリアした」などと言えたものだ。

 しかし、それ以上に気になる聞き慣れない単語があった。


(スチル……? スチルってなんだろう?)


 私は扇子で口元を隠し、ハリエットさんにだけ聞こえるような小声で尋ねた。


「あの……ハリエットさん。スチルって何でしょうか?」


 ハリエットさんもまた、困惑と呆れが混ざり合った何とも言えない遠い目をしながら、そっと小声で耳打ちしてくれた。


「……ゲーム内で、重要な場面に表示される特別な一枚絵のことですわ」

「一枚絵?」

「ええ。ですが……フラグも折れ、対局でも殿下に返り討ちに遭ったプリシラ様が、そのスチルとやらを回収できるはずがありませんの」

「ですよね。そもそも、イベントをクリアしたからといって、この現実世界で写真や絵のようなものが宙に現れるわけでもありませんし……一体何をもって、スチルを回収したなどと言っているのでしょうか」

 

 首を傾げる私に、ハリエットさんはふう、とひどく深いため息をついた。


「恐らく……あの対局の際、ひとりで勝手に駒を動かし、勝利宣言をした時に見た殿下のお顔を、都合よくイベントCG——いわゆるスチルだと思い込んでいるのでしょう……」

「殿下の表情……」


 脳裏に浮かぶのは、あくまで想像ではあるけれど、ドン引きして青ざめ、引きつった顔でプリシラ様を見ている殿下の姿だった。


(これを……? この本物の不審者を見る目を、胸キュンなスチルとして脳内変換してしまっているの……!?)


 自己都合フィルターが強すぎる。さすがにそれをポジティブのひと言で片づけるのは、いろいろな意味で失礼ではないだろうか。


「なるほど……。人間の脳って、見たいものしか見ないようにできているんですね」

「ええ……呆れを通り越して、もはや恐ろしさすら覚えますわね」


 理不尽すぎる言いがかりと、都合がよすぎる脳内変換を前に、私とハリエットさんはただ呆れ果てるしかなかった。

 そんなふうに小声で言葉を交わしていた、その時だった。


「ちょっと! 何コソコソ話してんのよ! 無視してんじゃないわよ! 聞いてんの!? アンタは悪役令嬢なんだから、原作通りあたしをいじめろって言ってんの! 何度言わせるのよ! 馬鹿なの!?」


 プリシラは、さらにヒステリックに声を荒らげた。

 甲高い声が廊下に響き渡り、通りかかった生徒たちが遠巻きにこちらを窺い始める。


(……はぁ。プリシラにだけは、馬鹿だなんて絶対に言われたくないなぁ……)


 心の中で深くため息をつきながら、私は自分の感情がすうっと冷えていくのを自覚していた。

 周囲の目も、殿下の心も、チェスのルールすら見ようとせず、ただ原作通りいじめろと喚くだけのこの少女。これ以上放っておけば、殿下やコンラートさんの胃がもたない。学園の平和も、私の平穏なお茶会も、まとめて台無しだ。


(よし。……腹を括ろう)


 私は静かに、けれど確かな覚悟をもって、プリシラ様へ向き直った。

 スッと背筋を伸ばし、扇子を優雅に閉じる。

 私は彼女の目を正面から見つめ、感情を削ぎ落とした冷ややかな笑みを浮かべた。


「……なるほど。誰かにいじめられでもしなければ進展しないようなお二人のご関係というのも、いかがなものかと思いますが」


 そこで一度だけ、言葉を切る。


「——要するに、プリシラ様は私に悪役令嬢になってほしいのですね?」


 予想外に静かな反応と、どこか冷ややかな圧に毒気を抜かれたのか、プリシラは一瞬、怯えたように目を丸くした。

 だがすぐに調子を取り戻したように、ニヤニヤと浅薄な笑みを浮かべる。


「な、なんだアンタ、分かってんじゃない! そうよ、さっさとあたしをいじめなさいよ!」

「分かりました。では、お望み通り、悪役令嬢になって差し上げましょう」

「えっ……アデライダ様!?」


 隣でハリエットさんが悲鳴に近い声を上げたが、私はそれを手で制し、さらに一歩プリシラへと踏み込んだ。


「ただし、条件があります。どのような方法であなたをいじめるか——その具体的な手法については、すべて私が決めます」


 扇子を閉じたまま、私は静かに微笑む。


「どのような趣向になるのかは、当日までどうぞ楽しみになさっていてください」

「は? 何よそれ……まあいいわ! アンタが本気でいじめてくれるなら、何でもいいわよ!」

「そして期限ですが……ゲームの原作通り、殿下の卒業式の日ということでよろしいですね?」

「オッケー! オッケー! 話が早くて助かるわー! そんじゃ、頼んだわよ!」


 自分の思い通りに筋書きが進むと確信したのだろう。

 プリシラは鼻歌交じりに、すっかりご機嫌な様子で去っていった。

 その背中が角の向こうへ消えた途端、ハリエットさんが青ざめた顔で私の肩を掴む。


「ア、アデライダ様! 一体どうされたのですか!? あんな理不尽なお申し出を引き受けてしまうなんて……! 貴女がそんな悪役の真似事をなさる必要など、どこにもありませんのよ!?」


 ハリエットさんの本気の心配が伝わってきて、張り詰めていた胸の奥がふっと軽くなる。

 私は先ほどまでの冷徹な表情を緩め、いつものように穏やかに笑顔でハリエットさんに向き直った。


「ハリエットさん、心配してくださってありがとうございます。ですが……大丈夫ですよ。少し、考えがあるのです」

「考え……ですか?」

「はい。おそらくこれで、期限の卒業式まで何もないままゲームは終了します」


 私はにんまりと微笑んだ。


 ◇


 翌日、案内された王宮の対局室には、久しぶりに静かで穏やかな時間が流れていた。

 盤上には、コツ、コツと木製の駒が規則正しく打ち鳴らされる音だけが響く。

 先日の悪夢のような一人相撲の対局から少し時間が経ち、殿下もようやく本来の冴えを取り戻したようだ。あれほど露わだった不機嫌な苛立ちも薄れ、今はただ真剣な眼差しで盤面を見つめている。


「……アデライダ」


 駒を一つ進めたところで、殿下がぽつりと呟くように私を呼んだ。


「はい、何でしょうか?」

「あのクソ女の……悪役令嬢になれという、わけの分からん要望を受けたそうだな」


 不意に投げかけられた言葉に、私は手を止めて目を丸くした。


(あれ。昨日の今日なのに、もう殿下の耳に入っている……?)


「……大丈夫なのか?」


 低く落ち着いた声だった。

 けれど、その奥には本気の心配が滲んでいる。


「殿下、なぜその件をご存じなのですか?」

「……学園でハリエット嬢から連絡が入った。コンラート経由で、至急だ」


 殿下はそこで一度言葉を切った。


「アデライダが無茶な約束を引き受けてしまった、と聞いた」


(ハリエットさん……。心配して、殿下に報告までしてくださったんだ)


 見えないところで気にかけてくれていたのだと思うと、胸の奥がじんとした。

 ハリエットさんには、あとでちゃんとお礼を言わなくては。


「ご心配をおかけして申し訳ありません。ですが、どうぞご安心ください。あの方の暴走を止めるための、ちょっとした作戦のようなものですから」

「作戦……? だが相手は、まともな会話すら成立しないようなヤツだぞ。どんな手を使ってくるかも分からない相手に、わざわざ関わりに行く必要などないだろ」


 殿下は眉間にしわを寄せ、ひとつため息をついた。


「……まあ、無理はするなよ。何かあれば、すぐ俺に報告しろ」


 素っ気なくて、ぶっきらぼうな言葉だった。

 それでも、殿下が私を本気で案じ、守ろうとしてくださっているのが分かる。

 その気持ちが、ただただ嬉しかった。


「はい。ありがとうございます、殿下。何かあれば、すぐにご報告いたします」


 私は感謝を込めて、にっこりと微笑んだ。

 すると——


「…………っ」


 私の笑顔を見た瞬間、殿下は息を呑んだ。

 次の瞬間、片手でガバリと顔を覆い、そのまま天を仰いで固まってしまう。

 耳の先が、心なしかほんのり赤い。


「で、殿下……?」


 突然の行動に首を傾げていると、ふと部屋の壁際に控えていたコンラートさんが目に入った。

 コンラートさんは、まるで悟りを開いた高僧のような遠い目で、静かに天井の一点を見つめている。


(ふふっ。殿下たちのこの謎の行動も久しぶりだなぁ)


 昔から時々起こる、殿下の突然のフリーズとコンラートさんの遠い目である。

 一体何が起きているのかは相変わらずさっぱり分からない。

 でも、こういう光景を前みたいにまた見られるようになったのだと思うと、私は少しだけ可笑しくなった。


「殿下? お顔を覆われたままだと、次の手が指せませんよ?」

「……黙れ。今、考え中だ」


 指の隙間から、くぐもった声が漏れてくる。

 理由はさっぱり分からないけれど、こんなやり取りが戻ってきたことが、少し嬉しかった。

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