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プリシラと約束を交わしてからというもの、学園では何事もない穏やかな日々が続いていた。
授業を受け、休み時間にはハリエットさんと中庭でお茶を楽しみ、放課後は王宮で殿下とチェスを指す。プリシラが突撃してくることもなく、実に平和で快適な毎日である。
(まあ、そりゃそうだよね。私は何ひとつ手を出してないんだもん)
私としては、このまま卒業式の日まで平和に時が過ぎてくれれば万々歳だ。
……が、そんな放置に耐えかねたらしい人物が、ついに痺れを切らしてやってきた。
学園の廊下を歩いていると、曲がり角から髪を振り乱したプリシラが勢いよく飛び出してきた。
「ちょっと! どういうことなのよ!!」
怒気をはらんだ声で叫びながら、私の目の前に仁王立ちする。
「あたしをいじめるって言ったじゃない! あれから何日経ったと思ってんのよ! 何ひとつ嫌がらせが起きてないじゃないの!」
眉を吊り上げ、ギャンギャンと食ってかかってくるプリシラ。
だが私は、その勢いに少しも動じることなく、スッと背筋を伸ばして立ち止まった。
扇子で口元を隠したまま、クスリと静かに笑う。
「あら……何を仰っているのですか、プリシラ様?」
「は? 何って、いじめのことよ!」
「ええ、分かってます。ですが……私は今もなお、あなたをいじめていますよ」
「……え?」
プリシラ様の怒鳴り声が、ピタリと止まった。
私は扇子をそっと下ろし、彼女の目を覗き込むように、にんまりと笑みを深める。
わざと少し声を落とし、含みを持たせて囁くように告げた。
「……お分かりにならないのですか?」
「え……あ、え……?」
「ふふ。実に残念ですね。まさか、自分に仕掛けられている嫌がらせにすら、気づいていらっしゃらないなんて」
余裕たっぷりの私の態度に、プリシラ様の顔からみるみるうちに威勢のよさが消えていく。
彼女は困惑したように目を泳がせ、自分の制服や足元、果ては周囲の廊下まで怯えた視線で見回し始めた。
「え……っ、そ、そうなの……!? あたしが気づかないうちに、何か……何か恐ろしいいじめが仕掛けられてるの……!?」
(よし。いい具合に混乱してる!)
「さあ? どうでしょうね。ふふふ……」
何も言わず、ただ意味深に笑みを深めてみせる。
するとプリシラ様は、ズリズリと後ずさった。
「そ、そうなのね……っ! だ、だったらいいわよ! ちゃんとやってるなら文句はないわ!」
自分に仕掛けられていると信じ込んだ未知の恐怖にびくつきながら、プリシラは捨て台詞を残し、逃げるように走り去っていった。
◇
――それから数日後。
学園の中庭近くの回廊を歩いていた時のことだ。
茂みの陰から、カサカサと妙な音がした。
現れたのは、またしてもプリシラである。
しかも、なぜか両手に木の枝を構えたまま、ひどく怪しげな動きでじりじりと姿を現した。
前回と違って明らかに目の下に隈を作り、周囲をキョロキョロと警戒しながら、忍び足でこちらへ近づいてくる。
(何その枝。いじめてくる本人に会うのに、枝で身を隠す意味あるの? それにしても……本気で警戒してるなぁ。絶対、この数日、なんでもない日常の出来事まで、全部嫌がらせだと脳内変換して怯えてたでしょ)
心の中で呆れつつ、私は足を止めて優雅に微笑みかけた。
するとプリシラは、びくっと体を跳ねさせる。
腰の引けたまま、強がるように声を張り上げてきた。
「な、なによその余裕な顔は! あ、あの後いろいろ注意して生活してみたけど……やっぱり物理的には何も起きてないじゃないのよっ! な、何も起きてないんだけどっ!?」
声が少し裏返っている。
本当は怖くてたまらないのに、イベントが進んでいないのではないかという焦りから、必死に食ってかかってきているのが丸分かりだった。
私は小首をこてんと傾げ、心底不思議そうに目を丸くしてみせる。
「あら? ……まだ、お分かりにならないのですか?」
「ひっ……!」
その一言だけで、プリシラは短い悲鳴を上げて肩をすくませた。
私は扇子で口元を隠したまま、静かに彼女を見つめる。
そして追い打ちをかけるように、低い声でそっと囁いた。
「自分に向けられた仕掛けにすら気づけないだなんて……そんなお粗末な観察眼で、殿下の卒業式は大丈夫なのですか?」
「そ、卒業式……!?」
「ええ。あの運命の卒業式で、私という悪役令嬢を完膚なきまでに糾弾なさるおつもりなのでしょう? それなのに、足元に仕掛けられた策にすら気づけないようでは……返り討ちに遭ってしま破れませんか?」
「ひ、ひえぇ……っ!!」
私の言葉に、プリシラは見る見るうちに顔面蒼白になった。
(よしよし、卒業式というキーワードを出したことで、ゲームの筋書きに縛られた彼女の脳内補正が、いい具合に暴走し始めたぞ)
プリシラは「卒業式に向けた重大なトラップがすでに仕掛けられている」と思い込み、脳内では恐怖のシナリオが無限に膨れ上がっているはずだ。
「ち、ちゃんと……っ! ちゃんとあたしをいじめて……嫌がらせをしてるなら、それでいいわよっ!!」
プリシラは涙目になりながら叫ぶと、自分の影にすら怯えるような腰の引けた足取りで、逃げるように走って去っていったのだった。
◇
それからさらに数日後、放課後の図書室前の静かな廊下でのことだ。
本を返しに行こうとしていた私の前に、ついに精神的な限界を迎えたらしいプリシラが、なりふり構わず飛び出してきた。
「ね、ねぇ! 一体どうなってるのよ!!」
髪は少し乱れ、目は涙目である。
必死に恐怖を隠そうと声を張り上げているものの、足元は小刻みに震えていた。
(そんなにビビリ散らかしてるなら、わざわざ律儀に突っかかってこなきゃいいのに……)
「あたし、何の嫌がらせをされてるの?! 全然分かんないんだけどっ?! こんな分かりにくいいじめじゃなくて、もっとこう……教科書を破るとか! バケツで水をぶっかけるとか! 階段から突き落とすとか! もっと分かり易くいじめてよ!!!」
必死すぎる顔で、分かりやすいいじめを懇願してくるプリシラ。
(……いやいやいや)
私は彼女の並べ立てた嫌がらせの例に、心の中で怒涛の勢いで突っ込みを入れた。
(何なのそのラインナップ。大切な本や教科書を粗末に扱うなんて論外だし、わざわざ水を汲んだ重いバケツなんか運びたくないよ。それに階段から突き落とすなんてもう嫌がらせの範囲で済まないじゃん。下手したら私まで巻き込まれて怪我をするかもしれないし、割に合わないよ)
呆れ果てて言葉も出ない。
けれど私は表面上、困ったように首を横へ振ってみせた。
「お分かりにならないとは、本当に残念です。ですが……最初に、いじめる方法は私が決めると申し上げましたでしょう?」
「う、ぐ……! でも、あたしには何も起きてないように見えるのよ!」
「ふふ。まあ、無理もありませんね。私があなたにしていることは……そんな誰にでも思いつくような、分かりやすいものではありませんから」
私はそっと一歩を踏み出し、涙目のプリシラとの距離を詰めた。
そして優雅に扇子を閉じ、口元に余裕たっぷりの笑みを浮かべる。
「私がしているのは、あなただけに——そう、あなただけに抜群の効果を発揮する特別なことなのです」
「あたしだけ……あたしにだけ効果抜群……?」
プリシラはぽかんと口を開けたまま、壊れた人形のように私の言葉を繰り返した。
「ええ。あなただけの特別なことです。ありきたりなものより、ずっと魅力的だとは思いませんか?」
含みを持たせた私の笑みと、その言葉に滲む絶対的な自信。
どうやらそれが、プリシラ様の脳内で都合よく膨らんでいったらしい。
「そ、そうね……! あたしだけの特別なこと……それって、すごく特別なイベントっぽいじゃない! その方が、絶対に良いエンディングを迎えられそうね……っ!」
勝手に納得し、感動すら覚えたらしい。
けれど次の瞬間には、結局何が起きているのか分からないという未知の恐怖に、再び顔を引きつらせていた。
「じゃ、じゃあ……引き続き頼んだわよ! ちゃんとあたしをいじめなさいよねっ!」
ビクビクと、自分の影すら恐れるようなへっぴり腰で走り去っていくプリシラ。
その情けない後ろ姿を、私は図書室の前に立ったまま静かに見送った。
「……チョロい」
ぽつりと漏れた私の呟きに、
「……チョロいですわね」
隣から、まったく同じタイミングで呆れたような声が返ってきた。
ハリエットさんだ。
いつの間にか私の隣に並んでいたハリエットさんは、去っていくプリシラの背を遠い目で見送り、それから私へと視線を向けた。
「……ですが、アデライダ様。私にはどう見ても、貴女がプリシラ様に何かしているようには見えないのですが……一体どんな特別なことを仕掛けていらっしゃるのです?」
ハリエットさんは、本気で分からないというように首を傾げた。
私はにっこりと、今日いちばん爽やかな笑みを向ける。
「それは、卒業式当日のお楽しみですよ」
今日はもう1話更新します。




