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それから、二年の月日が流れた。
「アデライダ、よく似合っているよ」
鏡の前で仕立てたばかりの制服に身を包んだ私を見て、お父様が感極まったように目元を押さえた。
その隣では、お母様もやわらかく目を細めながら、嬉しそうに私を見つめている。
十三歳になった私も、いよいよ王立学園へ通うことになった。
「いってまいります、お父様、お母様」
やわらかな春の日。
私は静かに一歩を踏み出した。
今日から、私の学園生活が始まる。
白と濃紺を基調とした上質な制服に身を包み、校舎へと続く石畳を一人で歩く。周囲を見渡せば、華やかな貴族の子弟たちが身内や友人たちと楽しげに言葉を交わしながら登校していた。
(……うん、予想通りの完全なぼっち状態だね!)
私の周囲だけ、見えない透明な壁でも張られているかのように、ぽっかりと人がいない。
すれ違う生徒たちは、チラチラと私の方へ視線を向けつつも、一定の距離を保ったまま遠巻きに通り過ぎていく。
けれど、私の心の中にあるのは孤独の寂しさ……などではなく、深い安堵と感謝だった。
幼い頃の私なら、きっとこうはいかなかった。
街を歩けば、黒髪と赤い瞳を「悪い魔女」だの「不吉の象徴」だのとあからさまに指さされ、心ない子たちからは容赦なく罵声を浴びせられ、時には石まで投げつけられたものだ。
それに比べれば、今の状況など天国と言っていい。
誰も私に罵声を浴びせてこないし、石も飛んでこない。ただ遠巻きに見つめられるだけなのだから、実質ノーダメージどころか大進歩である。
(本当に、陛下には足を向けて寝られないなぁ……)
この劇的な環境の変化には、明確な理由があった。
幼い子ども特有の、絵本から植え付けられた偏見による思い込みが、成長とともに薄れたというのもあるだろう。けれど、何より大きかったのは、二年前に陛下が王命によって発刊させ、国中に広めた一冊の童話絵本だった。
作中に登場する恐ろしい魔女は、燃えるような赤銅色の髪と琥珀色の瞳を持ち、傲慢でどこまでも身勝手な性格の持ち主として描かれている。そのうえで、黒髪や赤い瞳は魔女とは何の関係もないのだと、物語を通して子どもにも分かりやすく伝わるようになっていた。
しかも、この絵本は単に偏見を払拭するためだけのものではなかった。
陛下は、私を傷つけたアーヴィン・スタントンと同じ色を持つ人物を「悪い魔女」として明確に描くことで、間接的に彼への制裁の意を示してくださっていたのだ。
この絵本の効果は絶大だった。
世間の認識は一変し、「黒髪に赤い瞳」に対する無意味な忌避感は急速に薄れていったのである。
(私を魔女の偏見から救うために、わざわざ国を挙げて絵本を作って広めてくださるなんて。ましてや、あの事件の加害者と同じ見た目を「悪い魔女」に仕立て上げるなんて……。本当にあのお方は恐ろしくて、優しくて、まるで神様みたいな人だよ)
おかげで、今向けられる視線には、かつてのような露骨な悪意や恐怖はほとんど混ざっていない。
いまだに古い偏見を捨てきれずに警戒している者もいれば、これまで避け続けてきた手前、今さらどう接していいか分からず気まずそうにしている者もいる。あるいは単に、「あのルセナ侯爵令嬢は、なんだか話しかけづらいな」と距離を置いている者。たぶん、ほとんどがそんなところだろう。
(……まあ、中にはやたらと顔を赤くしてチラチラ見てくる男子生徒もいるけれど。頬の傷痕を見て『可哀想に』とでも思ってるのかな。まあ、害がないなら何でもいいや!)
理不尽に危害を加えられないだけで百点満点! 授業を受けて、図書館で本を読み、放課後は殿下とチェスをする。完璧で平和な学園ライフじゃないか。
私は満足げに頷くと、一人で静かに自分の教室へと向かった。
◇
入学してから数日が過ぎ、私は学園での『穏やかな孤立ライフ』をたいそう快適に満喫していた。
授業が終われば、一人で中庭の大きな木陰のベンチに腰掛け、風に揺れる葉の音を聞きながら読書に耽る。たまに放課後になれば王宮へ向かい、殿下と熱いチェス対局を繰り広げる。
理不尽な悪意に怯えることもなく、平和で素晴らしい日常だ。
——だが。
ここ二、三日ほど、私はある違和感を覚えていた。
(……うーん。今日もやっぱり見られているなぁ)
ページをめくる手は止めないまま、私は本の上端からそっと視線だけを斜め前方へ向けた。
中庭の回廊、その柱の陰に、一人の少女が佇んでいる。
栗色のやわらかな髪に、深く澄んだ孔雀石の瞳。いかにも伯爵令嬢らしい品格と美貌を備えた令嬢だった。
周囲の生徒たちが向けてくる遠巻きな警戒や気まずさ、あるいは一部の男子生徒の何だかよく分からないチラチラした視線とは、明らかに種類が違う。
彼女の視線にあるのは、純粋で、どこか必死な観察だった。
(あの視線、何だろう……? 悪意や敵意は、まったく感じられないんだけどな)
私を陥れようとか、排除しようといった、あの手のどろりとした悪意はまるで感じられない。
むしろ珍しい生き物でも観察するかのように、こちらの行動や表情を一つひとつ丁寧に追っている。まるで心の中で逐一記録でもつけているようだ。
彼女の名は、ハリエット・フィッシャー伯爵令嬢。
同じ学年で、たしか実家は由緒ある伯爵家だったはずだ。佇まいも立ち居振る舞いも絵に描いたような淑女そのものなのだが、私へ向ける眼差しには隠しきれない強い探求心が宿っている。
(害がないなら放っておいても構わないんだけど、ここまで毎日観察されていると、さすがに気になっちゃうよ……)
どうしたものかと思案しながら、私が一度本を閉じ、そっと彼女へ視線を向けた。その時だった。
ハリエット様はハッと息を呑み、孔雀石の瞳を大きく見開いた。
そして胸の前で小さく拳を握ると、意を決したような真剣な面持ちですっと背筋を伸ばしたのだ。
(あ、逃げない……? それどころか、こっちに来るの!?)
コツ、コツ、と上質な革靴が石畳を打つ。
彼女は迷いのない足取りでまっすぐ私の座るベンチへ歩み寄り、目の前でピタリと足を止めた。
そして伯爵令嬢として非の打ちどころのない、優雅なカーテシーを披露した。
「突然お声がけしてしまい、大変失礼いたします。ルセナ侯爵令嬢、アデライダ様とお見受けいたします」
「はい。アデライダ・ルセナにございます。フィッシャー伯爵令嬢、ハリエット様でお間違いありませんでしょうか?」
私がベンチから立ち上がって深くカーテシーを返すと、ハリエット様は「私の名前を知っていてくださったのですか」と少し意外そうに目を見開き、それからほっとしたように表情を和らげた。
「ええ、もちろん存じ上げております。……あの、ハリエット様。何か私にご用でしょうか?」
私が微笑んで尋ねると、彼女は緊張したように一度唾を飲み込んだ。
孔雀石の瞳に真剣な光を宿し、彼女は周囲に人がいないことを慎重に確かめてから、少しだけ声を潜めて私へ向き直った。
その表情には、先ほどまでの完璧な伯爵令嬢の面影を残しながらも、どこか切羽詰まったような、独特の熱がにじんでいる。
「——はい。大変突飛な質問で、お気を悪くされるかもしれませんが、アデライダ様。どうしてもお伺いしたいことがございます」
「はい、なんでしょうか?」
真摯な彼女の態度に、私も自然と身を乗り出した。
一体どんな問いが飛び出すのかと内心でドキドキしていると、ハリエット様はさらに少し声を落として言った。
「…………ここでは、少々人目がありますね。人に聞かれてはまずい内容ですので、場所を移してもよろしいでしょうか?」
人目のない校舎裏の東屋へ移ると、ハリエット様は周囲に誰もいないことをあらためて確かめ、そっと深く息を吐いた。
それから孔雀石の瞳をまっすぐ私へ向け、静かに、けれど逃げ道を塞ぐような声で問いかけてきた。
「——変なことを申し上げるようですが、アデライダ様。……貴女様はもしや、私と同じ転生者ではありませんか?」
「……っ!?」
ドクン、と心臓が跳ね上がった。
一瞬で、全身の血の気が引いた。
頭の中が真っ白になり、足元がぐらりと揺れる。
(て、転生者……!? なんで……なんでその言葉を、どうしてハリエット様が知っているの……!?)
それは、これまで誰にも話したことのない、胸の奥底にしまい込んできた最大の秘密だ。
この世界に生まれる前の記憶があることを、ほとんど面識のない同級生からいきなり突きつけられた。あまりの衝撃に、声すら出ない。
私の動揺と沈黙を肯定と受け取ったのだろう。ハリエット様はふっと表情を和らげ、どこか安心したように胸に手を当てた。
「やはり、そうだったのですね……! 違っていたらどうしようかと、とても緊張しておりました。ですが、どうかご安心ください。私にも前の世界の記憶がございます」
「ハリエット様……あなたも……?」
震える声をどうにか絞り出すと、ハリエット様は力強く頷いた。
「はい。私は前世で、とある物語——乙女ゲームのシナリオを執筆する仕事をしておりました」
(お、乙女ゲームのシナリオ……? ええっと、それはつまり、ゲームの開発者さんってこと……?)
思いがけず話が大きくなりすぎて、脳の処理が追いつかない。
自分以外にも前世の記憶を持つ人物がいたという奇跡のような事実に驚きながら、私はどうにか平静を保とうとした。
しかし、ハリエット様が次に口にした話は、私の理解の限界をはるかに超える、まさに世界がひっくり返るような衝撃だった。
「……アデライダ様。どうか落ち着いてお聞きください」
ハリエット様の声からそれまでのやわらかさが消え、切迫した真剣な響きが滲み始める。
「私たちが今生きているこの世界は……前世で私がシナリオを担当した乙女ゲーム、その世界そのものなのです」
「……え?」
「そして——」
ハリエット様は私の目をじっと見つめ、痛みに耐えるような面持ちで、その決定的な事実を告げた。
「貴女様……アデライダ・ルセナ様は、その物語の中で、ヒロインを追い詰め、最後には破滅を迎える悪役令嬢なのです」
「…………」
東屋に静寂が満ちた。
風の音も、遠くで聞こえる生徒たちの笑い声も、すべてが遠のいていく。
あくやくれいじょう。
その言葉だけが、頭の中で何度もむなしく反響する。
(あくやくれいじょう……。私が……?)
頭の働きが、完全に止まった。
私はただの、顔に傷があって、黒髪に赤い瞳をしていて、周囲から避けられている侯爵令嬢のはずだ。ひっそり引きこもりライフを目指しつつ、王太子殿下の虫除け役として、ビジネスライクにチェスを指しているだけの。
それが、乙女ゲーム。
しかも私は、破滅する悪役令嬢……?
やっと乙女ゲーム要素と悪役令嬢要素が出てきました。




