1-2
王宮の広い庭園を、殿下にエスコートされながら静かに歩く。
色鮮やかな花々が咲き誇り、その甘い香りが風に乗ってふわりと鼻先をくすぐった。
私たちの少し後ろには、先ほど殿下のそばに控えていた側近らしき青年が、静かに従っている。
二十代半ばほどだろうか。殿下より十歳ほど年上に見えるその人は、落ち着いた大人の余裕と、どこか苦労人めいた穏やかな雰囲気を漂わせていた。
やがて見えてきたのは、満開の花々に囲まれた優雅な東屋だった。
白い屋根がやわらかく日差しを遮り、その下の大理石のテーブルには、ひときわ強い存在感を放つものが鎮座している。
それを目にした私は、思わず目を見開いた。
(……チェス盤!)
磨き抜かれた木製の盤と、精緻に彫り込まれた美しい駒が、白い大理石のテーブルの上に整然と並んでいる。
あらかじめ用意されていたのは、一目瞭然だった。
殿下は足を止めると、後ろに控えていた側近の青年へ淡々と指示を出した。
「お茶と茶菓子を持ってきてくれ」
「かしこまりました、殿下。アデライダ様、少々お待ちくださいませ」
青年は深く一礼すると、無駄のない所作でその場を辞していく。
東屋に残されたのは、私と殿下の二人だけだった。
側近の姿が見えなくなると、殿下はそれまでの完璧なポーカーフェイスをスッと解いた。紫水晶の瞳をわずかに細め、チェス盤の前に腰を下ろすと、向かいの椅子を指し示す。
「座れよ。……親たちの前では一応取り繕っていたが、二人きりならお互い、無駄な遠慮はいらないだろ」
(おや、口調がずいぶん砕けた。まあ、本性を隠さず接してくれる方がこちらとしてはやりやすくて助かるな)
「では、失礼いたします」
私もドレスの裾を軽く整え、向かいの椅子に腰を下ろした。
「父上から聞いた。お前、チェスが得意らしいな」
「得意かどうかは分かりませんが、多少は嗜んでおります」
「ふん、謙遜はいいと言ったはずだ。俺に勝つつもりで指してみろ」
殿下はニヤリと挑戦的な笑みを浮かべ、私に白の先手を譲ってきた。
その瞳には、先ほどサロンで見せていた無機質な静けさとはまるで異なる、鋭い勝負師の光が宿っている。
(ほう……? 勝負事が好きと見える。いいでしょう。チェスの勝負とあらば、私も手加減なんて一切しませんよ!)
「では、お言葉に甘えまして」
盤を挟んだ瞬間、私の中で何かがカチリと切り替わった。
一戦目。
殿下の指し手は、恐ろしいほどに無駄がなく精緻だった。隙のない盤面構築と、鋭い攻撃力。私は必死に応戦し、盤上を組み立てたものの、中盤の激しい駒のぶつかり合いで押し切られ、惜しくも投了へと追い込まれた。
「……参りました」
「ふん、悪くない。だが甘いな」
一息ついたところで、テーブルの端に紅茶と茶菓子が置かれた。
(……いつの間に?)
先ほどお茶を取りに下がった側近の青年は、どうやらいつの間にか戻ってきていたらしい。対局の邪魔にならぬよう一歩下がり、気配を消して控えていたのだ。盤上に意識を奪われていた私は、まったく気づかなかった。
殿下と私は紅茶をひと口すすり、茶菓子を口に運ぶ。甘やかな香りが、張り詰めていた空気をほんの少しだけやわらげてくれる。
「もう一局だ」
二戦目。
今度は守りを固めつつ、相手の隙を突く反撃を狙った。けれど、殿下の計算速度は私の想定をはるかに超えていた。一瞬の油断をつかれ、そのまま一気に攻め込まれて、私は再び敗れた。
(くっ……! 強い! 強いけれど、めちゃくちゃ楽しい……!)
負けた悔しさよりも、これほどの高レベルな対局ができる喜びの方が大きく、胸が高鳴っていた。
二戦目が終わると、再びお茶をひと口。側近の青年は黙ってカップを替え、少し離れた場所で静かに控えている。そうして控えながらも、対局中は盤上へさりげなく視線を向けているようだった。
そして、三戦目。
盤上はまだ序盤戦。
黒の殿下は定石通りの美しい展開を見せ、着々と陣形を整えていく。
普通なら、ここも定石通りに受けて立つ場面だ。
だが、そのとき私の頭の中で、鋭い危機管理と効率重視のセンサーがピピッと反応した。
(待って……この局面、もしあえて定石を完全に捨てたらどうなる?)
私は盤面を、上空から俯瞰するように見つめた。
こちらのクイーン、最強の駒を囮にして相手に取らせる。つまり、クイーンサクリファイスだ。
序盤で最強の駒を捨てるなど、常識で考えれば自殺行為もいいところだろう。下手をすれば大悪手と断じられてもおかしくないほどの危険がある。
けれど、もし相手がその定石外れの一手にほんの一瞬でも動揺し、駒を取るために意識を逸らせば——。
そのわずかな隙を突いて、最弱の駒であるポーンを前進させ、まっすぐキングへチェックをかけるルートが、確かに一本だけ繋がっている。
(一見すると無謀でしかない。だけど、効率と勝率を極限まで計算すれば……試してみる価値は十分にある!)
「……ふふ」
「何がおかしい?」
怪訝そうに眉をひそめる殿下に、私は思わず笑みを深めた。
そして次の瞬間、迷うことなくクイーンを相手陣の奥深くへと滑らせる。
「……は?」
殿下は一瞬、何が起きたのか分からないという顔で固まった。
それも当然だ。序盤でいきなりクイーンを差し出されたのだから。だが彼はすぐに目を細めて「ハメ手か?」と警戒しながらも、目の前に差し出されたクイーンを、自らの駒で打ち取った。
その瞬間、私の狙いは完成した。
「チェックです」
私は最弱の駒であるポーンを、カツンと小さく一歩進める。
「な……っ!?」
殿下の手がピタリと止まった。
盤面を見つめる紫水晶の瞳が、大きく見開かれる。
クイーンを取ったことで生まれた、ほんのわずかな隙。
そこへ滑り込んだポーンが、殿下のキングの逃げ道を完全に塞いでいた。
どれほど強力な駒が残っていようと、キングが詰んでしまえばそこで終わりだ。
それはただのチェックではない。序盤でクイーンを犠牲にして放った、ポーンによるチェックメイトだった。
完全に定石外れの超トリッキーな奇手、それが私の勝利を決めた。
「……あ」
静まり返る東屋で、私はハッと我に返った。
(や、やっちゃった————っ!?)
相手は一国の王太子殿下だ。
初対面の対局で、いくら夢中になってしまったとはいえ、定石を無視した派手な奇手で勝ってしまうなんて、無礼にもほどがあるのでは!?
見れば、殿下は盤面を見つめたまま、微動だにせず絶句している。
少し離れて控えていた側近の青年も、目を見開いて盤面を凝視していた。
(どうしよう! プライドをズタズタにしちゃったかも!?)
冷や汗が背中にじわりと広がる。
私は慌てて何か言い訳を探そうとしたが、頭の中はきれいに真っ白だった。
相手は、噂に名高い「チェス以外に興味のない勝負好き」の王太子殿下である。
いくら勝負とはいえ、初対面の対局で、序盤からクイーンを投げ捨てるような暴挙に出て勝ってしまうなんて……。
(やばいやばいやばい……! なにやってんだ私————っ!!)
殿下のプライドを完膚なきまでに打ち砕いてしまい、怒りのあまり「不敬だ」と断じられても文句は言えないかもしれない。
(落ち着け、落ち着くんだ私……! こういう時こそリスク管理! すぐに謝罪して『あまりの殿下の強さに混乱して、指し手が滑りました』とか、何かそれらしい言い訳を……!)
私が青ざめたまま腰を浮かせ、必死に言葉を紡ごうとした、その時だった。
「——っ、……くくっ」
沈黙に支配されていた東屋に、低く押し殺したような声が落ちた。
え、と息をのんで、私はそっと殿下の様子を伺った。
「ははっ、はははははっ……!」
殿下が、お腹の底からこみ上げるような声を上げて、突然大きく笑い出したのだ。
両手で顔を覆いながら、肩を激しく揺らして笑っている。サロンで見せていた冷徹なポーカーフェイスも、不機嫌そうな面影も、そこには一切なかった。ただの十代の少年らしい、無邪気で心からの爆笑だった。
「殿下……?」
「最高だ……! 今のは奇襲どころの話ではないぞ!」
興奮を抑えきれないまま、殿下は盤上を見つめて笑う。
「今まで俺と指してきた連中は、どいつもこいつも話にならないほど弱いくせに、おべっかを使ってわざと負けようとする奴らばかりだった」
吐き捨てるようにそう言ってから、殿下は真っ直ぐに私を見た。
「……だが、お前は本気で俺を潰しにきたな?」
「あ、あの、それは決して殿下を愚弄するつもりでは——」
「言ったはずだ、無駄な謙遜はいらない」
ぴしゃりと言い切ったかと思えば、次の瞬間には、殿下は心底愉快そうに口元を吊り上げた。
「むしろ礼を言いたいくらいだ。こんなにゾクゾクする対局はいつ以来だ?」
「はぁ……」
「まして三戦目だ。オープニングでクイーンを切って、あの形でポーンチェックだぞ。定石に縛られていたら、まず選べない。あれを本当に盤上に置いてくるのだからたまらない」
夢中でまくし立てる殿下の勢いに、私は口を半開きにしたままパチパチと目を瞬かせた。
(あれ……? もしかして、怒ってない……どころか、大絶賛されている?)
殿下は堪えきれないように、もう一度笑った。
「お前、本当に最高だな」
その紫水晶の瞳が、獲物を見つけた猛獣のように、けれどひどく楽しげに細められる。
「良い。すごく気に入った。……これからも俺と対局しろ」
そう言って、殿下は悪戯っぽく唇の端を上げた。
サロンで聞いた冷ややかな「チッ」という舌打ちが嘘のように、その表情はどこまでも晴れやかで、魅力的だった。
(なんだ……。面倒で冷酷な勝負好きかと思ってたけど、ただ単に『本気で対等に渡り合える相手』に飢えていただけなのかな)
取り繕った礼儀や、わざとらしい敗北には、きっとうんざりしていたのだろう。
そう思えば、彼の偏屈さも少しだけ分かる気がした。案外、思っていたほど扱いにくい人ではないのかもしれない。
少し離れた場所に控えていた側近の青年は、そんな私たちの様子に、ほっとしたように目元を和らげた。
殿下が心から笑っている姿を見て、安堵したのだろう。
青年が手際よく淹れ直してくれた紅茶から、芳醇な香りの湯気が立ちのぼる。
私は自分の前に置かれたティーカップにそっと指先を添え、それから改めて目の前の仮婚約者へと向き直った。
「殿下」
「なんだ?」
「改めまして……五年間、あなたの仮婚約者として、どうぞよろしくお願いいたします」
「ああ。こちらこそよろしく、アデライダ」
そこまでは実に穏やかだった。
「……で、次はいつ指せる?」
「ふふ、もう次のお話ですか?」
けれど、そういうところがいかにもこの人らしい。
私は小さく笑って、素直にうなずいた。
「私としても、殿下との対局ならいつでも大歓迎です」
紅茶のカップを傾けながら、私は心の中でそっと小さくガッツポーズを作った。
(よし、ファーストコンタクトは完璧にクリア! 虫除けとしての価値も証明できたし、チェス友達としての関係性も無事に築けた!)
五年間の仮婚約期間。
王太子の虫除けとして完璧に立ち回り、国からの手当をがっぽり溜め込んで、五年後には満額の退職金、もとい手切れ金を受け取って、夢の引きこもりライフへ。
計画はすこぶる順調、滑り出しとしては満点と言っていい。
私と殿下の、少し歪で、それでも確かな信頼の芽を宿した仮婚約ライフは、こうして始まった。




