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王宮『フィリドール城』へ足を踏み入れるのは、これで二度目になる。
だが今日向かうのは、前回のように張り詰めた謁見の間ではない。柔らかな陽光が差し込む、王妃様のサロンだ。
「——アデライダ、緊張しているかい?」
隣を歩くお父様が、こちらの様子を窺うように心配そうな声をかけてくる。その手は心なしか、私以上にかすかに震えていた。
「大丈夫です、お父様。失礼のないよう、精一杯お応えしてまいります」
私は淑女らしく微笑み、胸の奥でそっと深呼吸をした。
今日は、仮婚約相手である王太子エルヴェ殿下との初めての顔合わせの日――のはずだった。
ところが、その対面の直前になって、王妃様主催の茶会が差し挟まれることになったのである。
セシリア・エマ・フィリドール王妃殿下。
王国の至宝にして、淑女の鏡。そんなふうに称えられる完璧な美貌と気品を持つ女性に目をつけられたと思うと、私の内なる警戒アラームが静かにちりちりと鳴り響く。
(大丈夫、落ち着け私。効率的なリスク管理の鉄則は、相手のペースに飲まれないこと。完璧なマナーで無難に受け答えして、波風を立てずに乗り切れ……!)
「王妃殿下、ルセナ侯爵ならびにアデライダ嬢をお連れいたしました」
重厚な扉が開かれ、優雅な紅茶の香りが漂うサロンへと通される。
そこにいたのは、まるで一幅の絵画から抜け出してきたかのような美女だった。
薄墨色の髪は美しく結い上げられ、紫水晶の瞳にはやわらかな光が宿っている。
王妃セシリア様は、私たちが深々と頭を下げ、礼を尽くすのを待ってから、鈴を転がすような愛らしい声で言った。
「ようこそいらっしゃいました、ルセナ侯爵、そしてアデライダちゃん。どうぞ頭を上げて、楽にしてくださいね」
(あ、アデライダちゃん……!?)
一国の王妃様が、初対面の侯爵令嬢にちゃん付け。
あまりの不意打ちに、私の思考は一瞬ピキッと停止した。
「王妃様、本日はお招きいただき——」
「まあまあ、そんなに堅苦しいご挨拶はいりませんわ。さあ、こちらへいらして?」
王妃様は優雅に微笑みながら、驚くほど軽やかな足取りで私のもとへ歩み寄る。
そして、私の両手をそっと包み込むと、そのままごく自然に席へと導き、着席を促してくださった。
茶会が始まると、王妃様は私の所作や姿勢を、まじまじと眺めた。
完璧に取り繕った立ち振る舞いのひとつひとつを確かめるように見つめたかと思えば、紫水晶の瞳をキラキラと輝かせる。
「素晴らしいわ……! マナーも立ち振る舞いも完璧だし、それに……なんて可愛らしいの!」
「えっ」
「この黒髪! 極上の黒曜石のように艶やかで美しいわ。それに、その赤い瞳も。澄みきった柘榴石みたいで、なんて綺麗な色なのかしら!」
「は、はひ……!?」
次の瞬間、私の頭に柔らかく温かな手がポンと置かれた。
そして、そのまま容赦なく、わしゃわしゃと撫で回される。
「可愛いわぁ、本当に可愛いわぁ……! こんなに賢くて愛らしい子だなんて。シリル様が『素晴らしい少女だ』と絶賛していた理由が、よく分かったわ!」
(ちょっと待って!? 情報量が多い!!)
生まれてこの方、私の黒髪と赤い瞳は「不吉な魔女の色」として忌み嫌われ、避けるべきものとして扱われてきた。それなのに今、王国の頂点に立つ女性から「綺麗」「可愛い」と大絶賛されながら、愛玩動物のように頭を撫で回されている。
完全に、パニックである。
脳内の整理がまったく追いつかない。
あまりの事態に、私の高度なリスク管理脳は見事にショートし、ただフリーズすることしかできなかった。
「あの、王妃様……私のように顔に傷のある者を、そのように褒めていただくのは……」
なんとか絞り出した私の声に、セシリア様は撫でる手つきを少しだけ優しくして、ふふっとお茶目に微笑んだ。
「傷が何だというの? それは、貴女が勇敢に生きてきた証でしょう。自分の魅力に、もっと胸を張りなさいな。アデライダちゃん」
そう言ってから、セシリア様はふっと楽しげに目を細めた。
「それにしても、こんなに可愛い子が我が家に来てくれるなんて、嬉しすぎるわ。うちのエルヴェったら、顔だけは可愛く産んであげたつもりなのだけれど、まあ愛想がなくてねぇ……。幼い頃はともかく、大きくなってからは、ちっとも私に撫で撫でさせてくれないのよ?」
「は、はぁ……」
「だから、アデライダちゃんが来てくれて本当に助かっちゃう! ほら、もう一回撫で撫でさせて?」
(助かっちゃうとは、いったい何が!? まさか王太子殿下の愛想のなさを、私で補おうとしていらっしゃいませんか!?)
淑女の鏡と謳われる王妃様は、どこまでも可愛らしく、そして圧倒的にお茶目で自由なお方だった。
その勢いのある愛情表現に押し流され、私は「あ、はい……」と、ほとんど自動人形のように頷くことしかできない。
お父様、助けてください! あなたの娘は今、王妃様の愛らしい暴走の前に、完全に身動きが取れなくなっています!
青い顔をしたお父様が、オロオロと助け舟を出そうと手を差し伸べかけた、その時だった。
「そのくらいでやめておきなさい、セシリア。アデライダ嬢が困惑しているじゃないか」
サロンの奥の扉の向こうから、呆れたような、それでいて底抜けに甘い声が響いた。
姿を現したのは、瑠璃の瞳をやわらかく細めたシリル国王陛下である。
「まあ、シリル様。だってアデライダちゃんが本当に可愛くて……」
「気持ちは分かるが、彼女の髪がくしゃくしゃになってしまうよ。お茶も冷めてしまう」
陛下が苦笑しながら王妃様の肩を優しく抱き寄せると、ようやく私は解放された。
パッと手が離れた瞬間、頭の中の冷却ファンがブォォンと音を立てて回り始めた。
(た、助かった……! 陛下が後光の差す神様に見える……!)
乱れた髪をそっと手で整えながら、私は深くひとつ息をついた。
容姿を褒めちぎられ、撫で回されるという生まれて初めての経験に、私の心臓はまだドゴドゴと落ち着かない。
「すまないね、アデライダ嬢。妻は一度気に入った相手を、とことん愛でてしまう癖があってね」
「い、いいえ……! もったいないお言葉の数々、身に余る光栄にございます……!」
恐縮しきりの私を見て、陛下はやれやれと肩をすくめ、それからサロンの入口へ視線を向けた。
「さて——ちょうど良いタイミングだ。主役がやってきたようだよ」
その言葉と同時に、サロンの重厚な扉が静かに開いた。
すると、すっと一筋の冷えた空気が流れ込んでくる。
現れたのは、一人の少年だった。
一瞬、私の思考が止まる。
……なんだ、この圧倒的な美貌は。
陛下譲りの、銀灰の絹糸のような髪。
そして王妃様譲りの、深く澄んだ紫水晶の瞳。
整いすぎたその顔立ちは、まるで神話に語られる幼き神の彫像のようですらあった。
その後ろには、焦げ茶の髪に翡翠の瞳をした、側近らしき青年が恭しく控えている。
(いやいや、製造元が国王陛下ご夫妻なんだから当然といえば当然なんだけど……それにしても顔面偏差値が法に触れるレベルで高すぎないか? こりゃ確かに、令嬢たちが群がるのも無理はない。虫除けの盾が絶対に必要になるわけだ)
内心で半ば語彙を失いながら納得していると、それまで感情の読めない顔をしていた王太子エルヴェ殿下が、ふとこちらへ視線を向けた。
異変が起きたのは、その瞬間だった。
私の姿を認めた途端。
「……っ!?」
殿下は、まるで想像もしなかった物体を目撃したかのように、息を呑んで目を見開いた。
紫水晶の瞳が大きく揺れ、その美しい顔が呆然とこわばった。
けれど、私が思わず「え?」と首をかしげて視線を返すと、彼ははっとしたように我に返り、すぐさま顔を背ける。
そして。
「……チッ」
サロンの優雅な空気を裂くように、小さく冷えた舌打ちが落ちた。
(……うん、今思いっきり舌打ちされたよね?)
あまりにも露骨な拒絶に、さすがの私も一瞬言葉を失う。
隣に控えていた側近らしき青年も、「殿下、それはさすがに」とでも言いたげに、焦った顔をしていた。
だが次の瞬間、殿下はすっと息を整え、何事もなかったかのように完璧な無表情へと戻っていた。先ほどの動揺も不機嫌さも、まるで最初からなかったかのように消え失せている。そこにあるのは、感情の読めない淡々とした空気だけだ。
(なるほど、感情を表に出さないタイプか。さっきの舌打ちも、私への不快感というより思わず漏れ出ちゃった感じなのかな)
……まあ、無理もない。
あれほど整った容姿を持つ王太子殿下の前に現れた仮婚約者が、世間から不吉だと恐れられる黒髪に赤い瞳で、しかも頬に傷まである娘なのだから。
驚くなという方が、きっと無理なのだ。
でも、大丈夫です。どうぞご安心ください、殿下。
私だって、あなたと甘い恋人ごっこをするつもりなど、最初からこれっぽっちもありません。
(私の目的は、五年間あなたの完璧な虫除けとして働き、報酬をしっかりいただいたうえで、五年後に穏便に契約満了を迎え、快適な引きこもりライフを送ることだからね)
お互い、割り切ったビジネスパートナーとしてやっていけばいいのだ。
むしろ、変に期待を持たせられるより、このくらい淡々としていてくれた方が仕事はしやすい。私は胸の内で新たに決意を固め、鋼のビジネススマイルをそっと装着した。
殿下はこちらに向き直ると、無駄のない所作で淡々と一礼した。
「……初めまして、アデライダ嬢。エルヴェ・レオン・フィリドールだ」
低く、それでいて鈴の音のように澄んだ美しい声。
そこには、余計な感情がひとかけらも混じっていない。
「初めまして、エルヴェ殿下。ルセナ侯爵家の娘、アデライダと申します。本日はお招きいただき、誠にありがとうございます」
私もまた、寸分違わぬ角度でカーテシーを返す。
殿下は私の無駄のない所作を静かに見つめていたが、やがて表情を変えぬまま母君へと視線を向けた。
「母上。庭の花が見頃を迎えています。アデライダ嬢を案内してきてもよろしいでしょうか」
「まあ! ええ、もちろんですとも。二人でゆっくりお話ししていらっしゃいな」
王妃様が嬉しそうに手を叩く。
すると殿下は私の前まで歩み寄り、すっと優雅に手を差し出した。
「行きましょう、アデライダ嬢」
(おお、ポーカーフェイスだけどマナーとエスコートは完璧……!)
私を置いて先に歩いていくようなことはせず、きちんと手を差し伸べてくるあたり、さすがは王太子殿下である。
私はそっと、その手に自分の手を重ねた。
「はい、喜んでお供いたします」
(よし、いよいよ仮婚約者としてのファーストミッション開始かな。どんなに淡々と、冷ややかに接せられても、ドライに、軽やかに受け流していこう)
私はお父様と国王陛下ご夫妻に一礼すると、完璧な所作でエスコートしてくれる王太子殿下とともに、サロンを後にした。




