3
王都での引きこもり二期目の平穏は、実に思いがけない男の『おしゃべり』によって、木っ端微塵に粉砕されることになった。
「——つまり、何ですか。エッカルト先生が王宮で国王陛下の前を通りかかった際、世間話のついでに、私のことを『エルヴェ殿下に匹敵するチェスの天才』だの、『多方面の学問に通じた稀代の才女』だのと、大絶賛してくださった、と」
私は応接室のソファに座り、目の前で頭を抱えて震えているお父様を見つめながら、こめかみを指先でトントンと叩いた。
「そうなんだ、アデライダ……! あの好々爺、引退して暇を持て余しているからか、王宮に顔を出しては『とんでもない原石を見つけた』と、国王陛下に散々自慢していたらしくてね。陛下もそれを面白がってお聞きになっていたようなのだが……」
お父様は顔を真っ白にしたまま、手にした重々しい羊皮紙の書状を震える手で差し出した。
そこには王家の黄金の双頭鷲の蝋封が、厳かに押されている。
「先ほど、王宮から特使がやって来てね……エルヴェ王太子殿下とお前の婚約打診が、正式に届けられたのだ……!」
「……は?」
私は持っていたポーンを、危うく取り落としかけた。
ちょっと待ってほしい。
王太子エルヴェ。
つい先日エッカルト先生から、高位貴族の令嬢たちに囲まれて辟易し、「私にチェスで三手は持ちこたえてみせろ」と言い放った、冷徹で面倒くさい天才だと聞かされたばかりの、あの雲の上の王子様である。
「おのれ、王家め!」
お父様は怒りに顔を歪め、拳を震わせた。
「我が愛しいアデライダが、あの忌まわしい事件でどれほど傷つき、ようやくこの別邸で静かに療養しているというのに……! それを政治の道具にするなど、断じて許せん!」
お父様は怒りのままに立ち上がり、今にも王宮へ殴り込みに行きかねない勢いだった。
その愛情は嬉しい。けれど、王家からの正式な打診を感情だけで突っぱねれば、ルセナ侯爵家そのものが吹き飛びかねない。
私は努めて冷静に思考を巡らせた。
(おかしい。どう考えても、整合性が取れない)
私は侯爵令嬢ではある。だが、黒髪に赤い瞳、そして左頬の傷。世間的に見れば、決して王太子妃候補として歓迎される条件ではない。
そんな私を、わざわざ王家が選ぶ利点とは何なのか。家格だけでは弱い。ならば——何か、別の意図があるのかもしれない。
「お父様、落ち着いてください」
私は立ち上がり、お父様の手をそっと握って、その興奮を宥めた。
「お断りするにしても、感情的に拒めば王家の心証を損ねるだけです。それに……なぜ私が選ばれたのか、その真意が分かりません」
「アデライダ……?」
「ですから、この話をお受けするにしても、お断りするにしても……まずは陛下のお考えを知りたいのです。もし許されるなら、直接お話を伺えればと」
「な、何を言うんだ! 王宮など、そんな場所にアデライダを行かせられるわけが——」
「お父様、私も分かっています。十一歳の小娘が謁見を願い出たところで、簡単に受け入れていただけるとは思っていません。けれど、何も分からないまま返事をするのだけは避けたいのです。もし直接お目にかかれないのであれば、書状でも構いません」
私は左頬の傷痕に、そっと手のひらを添えた。
生き残るためにも、この引きこもり生活の平穏を守るためにも、相手の意図を知らないまま、話を進めるわけにはいかない。
「……もし謁見の申し出が受け入れられたなら、お父様もご同行いただけますか。陛下とのお話は、私がいたします」
私の言葉に、お父様はごくりと唾を呑んだ。
少しの迷いののち、力強く頷いた。
◇
数日後。
私はお父様と共に、王都の中心にそびえ立つ王宮『フィリドール城』へと足を踏み入れていた。
通されたのは、公式な謁見の間ではなく、高い天井に精緻なフレスコ画が描かれた、少し小さめの「非公式な謁見の間」だった。
窓からは王宮が誇る見事な庭園が見下ろせ、差し込む陽光が、床に敷き詰められた深紅の絨毯の刺繍を金色に浮かび上がらせている。重厚で格調高い空気に、私は内心で小さく息を飲んだ。
部屋の奥、彫刻の施された立派な椅子に、腰を掛けている男が一人。
彼こそが、このフィリドール王国を統べる国王、シリル・クロード・フィリドール陛下だった。
極上のシルクのような銀灰の髪に、瑠璃の瞳。三十代前半という若さでありながら、端正で整った顔立ちはまさに王族の威厳と美しさを兼ね備えていた。威圧的なオーラを放っているかと思いきや、彼は私たちの姿を認めるなり、柔らかく、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「やあ。よく来てくれたね、ルセナ侯爵。そして——アデライダ嬢」
陛下の、その低く、けれど妙に軽いトーンの声が、部屋の緊張感をわずかに和らげる。
「お初にお目にかかります、陛下。ルセナ侯爵が娘、アデライダにございます。この度は、謁見の機会をお与えいただき、心より感謝申し上げます」
「堅苦しい挨拶は抜きにしよう。エッカルトから君の話を聞いてから、ずっと君という少女に会ってみたかったんだよ」
陛下は肘掛けに頬杖を突き、じっと私を観察するように視線を向けた。その視線は、私の黒髪や赤い瞳、そして左頬の傷痕に留まるが、そこには侮蔑も過度な同情も、不快感も一切ない。
ただ、純粋な好奇心と、何かを推し量るような、底知れない知性が揺らめいている。
「君のお父上からは、今回の婚約の打診について、君自身が直接私に聞きたいことがあると伺っている。何でも答えられる範囲で答えるよ。さあ、遠慮せずに聞いてごらん?」
陛下は、まるでチェスの盤面を前にして「君の最初の一手は何だい?」と促すように、楽しげに目を細めた。
さあ、ゲームの始まりだ。
私は深く息を吸い込み、その瑠璃の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「——では、不躾ながら、単刀直入にお尋ねいたします。なぜ、私なのですか?」
陛下の瑠璃の瞳が、まるで静かな夜の海のように、私の問いを穏やかに吸い込んでいく。
やがて姿勢を正し、真摯で温かい声で答えた。
「なぜ、と問われれば、理由は山ほどあるが……まずは、至極シンプルな理由からいこうか。——君が、うちのエルヴェに匹敵するチェスの打ち手だと、あのエッカルトから聞いたからだよ」
「チェス、ですか?」
「そう。エッカルトがそこまで言うのだから、君の実力は本物なんだろう。我が息子は、チェスにおいては少々……いや、かなり傲慢でね。自分と対等に渡り合える相手がこの国にいなくて退屈しているんだ。チェスを愛し、その深淵を理解する者同士なら、きっと気が合うだろうと思ってね」
「……」
いやいや陛下、ちょっと待ってください。
チェス馬鹿の息子に、ちょうどいい暇潰しのおもちゃ、もとい相手をあてがうための婚約打診ですか?
そんな理由で一国の王太子の婚約者を決められたら、社交界の令嬢たちが血の涙を流しながら私の要塞に突撃してきますよ。
「それに、だ」
私の内心の激しいツッコミを察してか、陛下は瑠璃の瞳にいたずらっぽい光を灯した。
「君はチェスだけでなく、勉学においても驚くほど博識だそうだね。エッカルトが『彼女の知識の引き出しは、大の大人が束になっても敵わない』と大絶賛していたよ。それほどの知性があれば、未来の王妃として受けるべき苛烈な『王妃教育』も、君にとっては退屈なイージーモードに過ぎないんじゃないかな?」
「それは……エッカルト先生が、私を高く買いすぎているだけです」
「はは、謙遜しなくていいよ。さらに言えば、ルセナ侯爵家の家格は文句なし。君が我が家に嫁ぐにあたって、血筋に文句をつける者などこの国には一人もいない。……どうだい? これほど条件が揃っているんだ、打診しない方が不自然だとは思わないかい?」
陛下は完璧なロジックを、さも当然のことのように、流れるような美声で並べ立ててみせた。
銀灰の髪から覗く端正な顔立ちと、その余裕たっぷりな微笑み。
普通なら「なるほど、これほど光栄なことはありません!」と感激して、そのまま差し出された婚姻届にサインしてしまうところだろう。
だが、まだ私にとって何よりも腑に落ちない疑問点が残っている。
「——お言葉ですが、陛下。私には魔力もなければ、特別に秀でた能力もございません。そして何より……」
私は自分の左頬の傷痕を、そっと指先でなぞった。
「私のこの顔には、消えない醜い傷があります。髪の色も瞳の色も、この国では魔女の象徴として忌み嫌われる色。そんな私が王太子の隣に立つことに、王家の威信は損なわれないのでしょうか?」
あえて、自らの最大の弱点をストレートに突きつける。
隣に控えていたお父様が「アデライダ……!」と息を呑み、心配そうにこちらを見た。
けれど、私は逃げずに、陛下の瑠璃の瞳を見つめ続けた。
陛下は、私の言葉を聞いてもしばらく沈黙を保っていた。
やがて、彼は静かに頷き、極めて真摯で、温かな声で静かに語り始めた。
「魔力がないことが何だというんだ。国を治めるのは魔力ではなく、知性と、他者を思いやる心だ。髪や瞳の色、そしてその傷についても同様だ。……くだらない迷信で君を傷つけた者たちの浅はかさに、私はむしろ心を痛めている。私が求めているのは、中身の伴わないお人形のような美姫ではなく、自分の足で立ち、自分の頭で考えられる、本物の『知性』を持った女性だよ」
陛下はそこまで言うと、ふっと視線を和らげ、穏やかに微笑みながら、まるで私の肝の据わり具合を称賛するように目を細めた。
「実際、こうして王家からの打診に諾々と従わず、怯えもせず、自らの疑問を晴らすために直接私の元へやってきて真意を問いただす。……その主体性と度胸こそ、私が君に最も惹かれた部分だ。我が息子の隣に立つ者にふさわしい、実に素晴らしい資質だよ」
もしかして陛下は、私が謁見を申し出ることも、折り込み済みだったのだろうか。
私の反論を、すべて「私の素晴らしい長所」として変換して打ち返してきた。
この底知れない包容力と、大人の余裕。
さすがは一国を統べる王。
「——とはいえ、陛下。いくら私を高く評価してくださろうとも、はいそうですかと国母になる覚悟を決められるほど、私はできた人間ではありません。やはり、このお話はお受けできかねます」
だが、私のやんわりとした、しかし頑なな拒絶を前にしても、陛下は少しも動じる様子を見せず、「想定内だ」と言わんばかりに薄い唇の端を持ち上げた。瑠璃の深い双眸が、悪戯っぽく細められる。
「まあ、そう焦って結論を出さなくていいよ。君が将来の縛りに怯えるのも無理はないからね。そこでだ、アデライダ嬢。私から一つ、君に魅力的な『提案』がある」
「……提案、ですか?」
「そう。エルヴェはまもなく王立学園に入学する。貴族の子弟は十三歳で入学し、十八歳で卒業する五年制の学園に通う決まりだからね。そこでだ——その学園生活の五年間を、君たちの『お試し期間』にしようと思うんだ」
「お試し期間……」
「うん。ひとまずは仮の婚約者として過ごしてもらう。だが、正式な答えを出すのは五年後。もしエルヴェが学園を卒業するまでの間に、どうしてもエルヴェのことが嫌になったり、王太子妃の重圧に耐えかねたりした場合は、いつでも君の側からこの契約を破棄して構わない」
あまりに都合のよすぎる条件に、思考が一瞬だけ止まった。
「えっ……!? 私の方から、いつでも自由に、ノーペナルティで破棄して構わないのですか?」
「ああ、約束しよう。いつでも君には逃げる権利がある。……もちろん、仮とはいえ婚約者の座に君を留めておくんだ。タダでとは言わない。期間中は、国庫から君の個人口座へ、相応の『手当て』を毎月支給させてもらう。どうだい?」
逃げ道があり、手当までつく。
これは、あまりにも私に有利すぎる条件だ。もし五年後にお断りしたとしても、私の手元には莫大な「お試し期間分の報酬」が残る。頭の中で引きこもり資金の計算を始めてしまった自分に気づき、慌ててその妄想を追い出した。
あまりに条件が良すぎる話は、かえって怪しい。私が「何か罠があるのでは……」と警戒しながら、その瑠璃色の瞳を見つめ返した、その時だった。
陛下は、チェス盤のルークを滑らせるような優雅さで、さらにとんでもない一手を打ってきた。
「それから、これは私の個人的な『おまけ』なんだけどね」
まるで内緒話でも打ち明けるように、陛下はどこか楽しげな静かな声でそう言った。
「——最近、どうも王都の子どもたちの間で流行っている『悪い魔女』の絵本が、少々古臭くて面白みに欠けると思っていてね。だから我が王国の王命として、近いうちにまったく新しい絵本を国中に出そうと考えてるんだよ」
「新しい……絵本、ですか?」
なぜここで急に絵本の話なのだろう。
怪訝に思う私に、陛下は完璧で、この上なく意地が悪く、それでいてどうしようもなく魅力的な笑みを向けた。
「そう。新しい絵本に登場する悪い魔女はね——『赤銅色の髪に、琥珀の瞳をした、極めて傲慢で身勝手な魔女』にしようと思っているんだ。これまでの退屈な魔女像を一新する、実に見事な悪役に仕立て上げるつもりだよ。もちろん、王命による国を挙げての出版だからね、国中の子どもたちは、その赤銅色の髪をした醜い魔女の物語を、きっとゲラゲラ笑いながら読むだろうね」
「……っ!!!」
その瞬間、頭の中に衝撃が走った。
(赤銅色の髪に、琥珀の瞳……!? それって、私に一生消えない傷を刻みつけた、あのアーヴィン・スタントンの持つ色だ!)
瞳にいたずらを湛えたこの国王陛下は、私がかつて「黒髪に赤い瞳=悪い魔女」という不条理な偏見のせいで、スタントン公爵邸で起きた理不尽な事件のことを、どうやら全部ご存知の上でこれを提案している。
そして、そのきっかけとなった張本人のビジュアルを、今度は「本当の悪い魔女」として公式に泥を塗って、国中に晒し者にしてやろうとしているのだ。
「ふっ……ふふっ……!」
思わず、喉の奥から笑いがこぼれた。
陛下は、私の一番刺さる場所を、一ミリの狂いもなく正確に撃ち抜いてきたのだ。
まったく、なんて食えない、なんて恐ろしいお方なんだろう。
お父様は「陛下、それは一体どういう……?」ときょとんと首を傾げているが、もはや私と陛下の間では、ほとんど言葉にしなくても通じる取引が成立していた。
「……どうかな、アデライダ嬢。これだけの条件を揃えても、やはりこのお話はお断りかい?」
陛下は顎をわずかに引き、まるで「さあ、このチェックをどうしのぐ?」とでも言いたげに、愉しげな目で私を見つめていた。
正直、毎月の手当てはとてもありがたい。
契約が終わったあとの引きこもり生活を支えるための資金として、これ以上ないほど魅力的だ。
いつまでも両親の庇護のもとで甘えてばかりいられないことくらい、頭の片隅では分かっている。
そして、絵本の出版は——あの日以来、私の心の奥底で燻り続けていたものを、きっと綺麗に晴らしてくれる。
こんなものを差し出されて、首を横に振れるほど、私は強くなかった。
私の負けだ。
「……陛下」
私はドレスの裾を整え、穏やかに微笑んだ。
「では、その『仮婚約』というご提案、謹んでお受けいたします」
私がそう告げた瞬間、陛下は瑠璃の瞳を細めた。それは、思わず見惚れてしまうほど麗しく、底知れなく、それでいて優しい知性を湛えた笑みだった。不快感など微塵もない、むしろチェス盤の上で、こちらの思わぬ奇手を歓迎するかのような、余裕に満ちた大人の微笑み。
「賢明な選択だよ、アデライダ嬢」
その声音もまた、ただ本当に、私の決断を喜んでくださっているように聞こえる。
だからこそ、このまま聞かずに飲み込んでしまうには惜しいというか——ずるい、と思った。
このまま黙って頷けば、きっとすべてきれいに収まる。
けれど、それでは私だけが置いていかれる気がした。
「……陛下、最後に一つだけ、よろしいでしょうか」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「うん?」
ここで黙って頷けるほど、私は素直でも従順でもない。
前世の感覚で言えば、契約書の細かい条項も読まずに署名するようなものだ。
そんなことをして、あとから『実は小さな字で“魂の譲渡”と書いてありました』では洒落にならない。そんなオチは、物語のバッドエンドだけで十分である。
「どうして、そこまでしてくださるのですか」
陛下は初めて、少しだけ困ったような表情をなさった。そして、一瞬だけ視線を伏せる。
けれど、顔を上げた時には、もういつもの飄々とした笑みが浮かんでいた。
「さあねえ。勘が働いてね」
勘——?
あまりにも軽い答えに、思わず唖然とする。
人生を左右する話をしている相手の口から出てきていい言葉とは、とても思えない。
けれど、この人が口にすると、不思議と冗談には聞こえないのだからずるい。
現に私は今、その「勘」とやらのおかげで、九歳のあの日から一歩だけ前に進もうとしているのだから。
(……そんな勘で決めないでください、なんて、言えないよね)
心の中でだけでそうこぼして、私は小さく息を吐いた。
「アデライダ嬢、君のような聡明な少女と、交渉という名のゲームができて、実に愉快だったよ。五年後、君たちがどんな答えを出すのか、今から楽しみにしている」
別れ際に陛下が残した、どこか意味深なその言葉の余韻を背中に感じながら、私とお父様は謁見の間を後にした。隣を歩くお父様は、いまだに狐につままれたような顔で、「アデライダ、本当に良かったのかい……?」とオロオロしている。けれど、私の胸の内は、不思議な高揚感で満たされていた。
◇
王宮を辞し、我が家のタウンハウスへと向かう馬車のシートに深く腰を下ろした瞬間、私はふぅっと長く息を吐き出した。
馬車の揺れは、さっきまでの謁見の余韻を、嫌でも胃のあたりにかき混ぜてくる。
王太子殿下との仮の婚約。
毎月の手当て。
そして——絵本の出版。
思い出すたびに、胸のどこかがきゅっとなって、同時に少しだけ軽くなる。
嬉しいのか、戸惑っているのか、それともただ条件の良さに安心しているのか。自分でもよく分からない。
これはたぶん、医者に診せたら面倒くさい顔をされる種類の症状だ。
とはいえ、感情だけで突っ走るには、私はもう少しだけ現実的でいたい。
前世の感覚で言えば、いま私がやったのは長期契約へのサインであり、勢いでポチっていい金額ではない。
では、改めて整理してみよう。
なぜ国王陛下は、ここまでの破格の条件を提示してまで、私を王太子殿下の婚約者に据えたがるのか。
一つ。
私の能力と家格には、表向きなんの問題もない。
これは陛下のお言葉どおり。
一つ。
私の容姿は、世間一般の基準から言えば「美しくはない」側に大きくカテゴリ分けされる。
これも、悲しいかな事実。鏡と絵本が証人である。
一つ。
王太子殿下は、噂の限りにおいて、なかなかにおモテになるご様子。
お側に近づきたい令嬢方が、列をなしていてもおかしくはない。
以上三点を踏まえたうえで、「あえて私」を選ぶ理由。
答えは——どう考えても一つしかない。
すなわち。
「王太子殿下専属の高品質害虫駆除装置」こと、虫除け役。
殿下の周りに群がるかもしれない有象無象の虫たちを、私という見た目と評判で遠ざけておき、そのあいだに殿下には本当に必要な経験と出会いを積んでいただく。
なるほど。合理的である。
そう考えれば、毎月の報酬も、仮の婚約期間という設定も、実に辻褄が合う。
私は一時的に「王太子殿下の婚約者」という看板を掲げ、その看板とこの顔で虫を寄せつけない。
契約が終われば、報酬をもって静かに引きこもり、殿下は晴れて本命の方とご成婚。
うん。完璧だ。
陛下がそこまでしてくださった理由——「勘」とおっしゃっていたけれど、きっと「息子の虫除けにはこの子がちょうどいい」と直感なさったのだろう。
そう思えば、さっき胸の奥で灯ったあたたかいものにも、説明がつく。
誰かの役に立てるなら、少しくらい頑張ってみてもいい——そんな、単純であたたかい感情だったのだ。
たとえそれが、王太子殿下の高性能虫除けであっても。
馬車の窓の外で、城の塔が遠ざかっていく。
あそこから始まった契約が、私をどこまで運んでいくのかは、まだ分からない。
ただ一つだけ、今の私にもはっきり言えるのは——私は、たぶん、とても良い条件の虫除け契約を勝ち取った、ということである。




