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「……ここは『シシリアン・ディフェンス』の変形。このポーンを突き出して、相手の機動力を削ぐ。うん、完璧です」
私の自室。柔らかな陽光がテーブルの上に落ちている。
私は今日も一人でチェスに没頭していた。
白のポーンを進め、すぐに立ち上がって反対側へ回り込み、今度は黒の立場になって顎に手を当てる。完全に一人二役の脳内脳外科手術のような対局を繰り広げている。
傍から見たら「友達がいない寂しい十代前半の女の子」の限界オタク行動そのものだが、私はこの時間をめちゃくちゃ楽しんでいた。
紅茶の香りと、焼き立てのクッキーの甘い匂いが部屋に満ちている。安全で、快適で、知的。この上ない時間だ。
コンコンコン、と上品なノックの音が響いた。
「アデライダ、入ってもいいかい?」
「あ、お父様。どうぞお入りください」
扉を開けて入ってきたのは父、ルセナ侯爵だった。
いつも優しいお父様の顔が、今日はどこか痛ましげで苦しそうだ。
一人でチェス盤の周りを動き回る私を見て、灰簾石の瞳が涙で潤む。
(……また、『一人で遊ぶ娘が不憫でならない病』が出てる)
お父様は私の前に来ると、両手をそっと包み込んだ。
「アデライダ……お前がチェスに打ち込んで気を紛らわせているのはわかる。だが父としては、毎日こうして一人で盤を挟んでいるお前を見ると、不憫でならないのだ……」
「お父様、私は一人で盤を挟んでいるのではありません。今は白と黒、どちらも私が担当しているだけですので、ご安心ください」
「ああ……やはり私のせいで、お前はそんな健気な遊びを覚えてしまったのだな……!」
人の話を聞いてほしい。
私はこの引きこもり生活を心から楽しんでいるのに、お父様の過保護フィルターはいつも私の趣味を「哀れな少女の奇行」に変換してしまうらしい。
お父様は小さく咳払いをして、真剣な顔になった。
「そこでだ、アデライダ。お前に提案がある」
お父様は私の手を包んだまま、少しだけ声をやわらげた。
「お前がそこまでチェスを好むのなら、本物の達人に直接手ほどきを受けさせてやりたいと思ってね。王都で王太子殿下の指南役を務め、先日引退されたエッカルト・シュタイニッツ卿を知っているかい?」
「シュタイニッツ卿……! あの、数々の名定跡を編み出した、チェス界の生ける伝説ですか!?」
私は思わず身を乗り出した。
チェスの教本には必ず彼の名前が載っている。もし彼に直々に教わることができるなら、前世で言えば一流の棋士に指導対局してもらえるようなものだ。
「ああ、そうだ。彼に『娘の相手をしてやってくれないか』と頼んだところ、事情を聞いて興味を持ってくれてね。快諾してくれたんだ」
「本当ですか! さすがはお父様、素晴らしい人脈です!」
「だが……」
お父様が、にわかに言い淀み、苦渋に満ちた顔で私を見つめた。
「シュタイニッツ卿はご高齢で、このルセナ領までは通えないと言うんだ。もし師事するなら……お前が王都のタウンハウスに移り住む必要がある」
——王都。
その言葉を聞いた瞬間、あの日の記憶がフラッシュバックした。
赤銅色の髪。琥珀の瞳。抜き放たれた鋼のきらめき。
そして、「責任を取って僕が娶ってあげる」という、耳を疑うような言葉。
心臓が嫌な音を立てて跳ね、背中を冷たい汗が伝った。
「王都に……出る……?」
私の顔がこわばるのを見て、お父様は慌てたように私を抱き寄せた。
「やはりまだ怖いよね。無理にとは言わないよ。ただ、お前が少しでも広い世界でチェスを楽しめればと思っただけなんだ。……やはりこの話はなかったことにしよう」
「ま、待ってください、お父様!」
私はお父様の胸にしがみつきながら、頭の中で必死に考えを巡らせた。
確かに王都にはアーヴィンがいる。遭遇する可能性はゼロではない。
けれど、この国の貴族子女は王立学園への入学が義務づけられている。十三歳で入学し、十八歳で卒業する五年制の学園だ。つまり、あと二年もすれば、嫌でも私は王都へ行かなければならない。
だったら——
(どうせ二年後には行くのなら、今のうちに王都に第二の引きこもり拠点を作っておいた方が賢いのでは?)
その考えが浮かんだ瞬間、頭の中で一気に道筋がつながった。
今、王都のタウンハウスへ移る。身分は療養中の引きこもり令嬢。社交界には出ず、門を固く閉ざして暮らせば、アーヴィンと接触する可能性はかなり低くできる。
そして、その安全な場所で、あのレジェンドから直接チェスを学べる。
(……うん、悪くない。むしろ、かなり良い)
これはいわば、引きこもり生活の第二ステージへの移行だ。
領地の屋敷にこもるだけではない。王都という最前線に引きこもり拠点を築き、来たるべき学園入学への備えと、自分のスキルアップを同時に進めるのである。
「お父様」
私はお父様の胸から顔を上げ、にこりと笑った。
「私、王都へ行きます」
「ア、アデライダ!? 無理をしているのではないかい? もしあいつが……」
「大丈夫です。王都のタウンハウスから、私は一歩も外に出ません」
お父様が呆然とする中、私は淡々と続けた。
「別邸の防備を強化しましょう。門番を増やして、私の部屋の警備も万全にするのです。シュタイニッツ卿をお招きするとき以外は門を閉ざしておけば、王都にいながら領地と同じ、いえ、それ以上に完璧な引きこもり生活ができます」
「引きこもり生活を維持……?」
「はい。王都での引きこもり第二期の始まりです」
あまりにも迷いのない私の提案に、お父様は圧倒されたように黙り込んだ。
こうして私の引きこもり生活は、王都へとその拠点を移すことになった。
◇
王都のルセナ侯爵家タウンハウスは、数日で「不落の引きこもり要塞」へと生まれ変わっていた。
「うん、素晴らしいですね」
私は二階の自室の窓から庭と門を見下ろし、満足げに息を吐いた。
領地から連れてきた使用人たちに加え、厳選された私兵が門を固め、窓は全て鍵をかけ、カーテンは閉めっぱなし。ここは王都でありながら、私の完全な聖域だ。
そんな万全のセキュリティ体制を整えた私の元へ、本日、ついに「その人」がやってくることになっていた。
コンコンコン。
「アデライダお嬢様、シュタイニッツ卿がお見えになりました。応接室へご案内しております」
「ありがとう、今行きます」
私は鏡で身なりを整え、応接室へ向かった。
けれど、階段を下りるにつれて心臓がドコドコと嫌に騒ぎ出す。
(……大丈夫。お父様が事情を話してくださっているはず)
そう自分に言い聞かせても、初対面の相手に緊張する気持ちは消えてくれない。
いくら前世譲りの図太さがあろうとも、この黒髪に赤い瞳は、この世界では絶対的な悪役の記号だ。
そこに加えて、左頬にはあの生々しい傷痕まである。
いくら人格者と名高いレジェンドでも、いざ目の前に現れた十一歳の少女が、こんな悪役然とした見た目をしていたら。
一瞬くらいは眉をひそめたり、憐れむような目を向けたりするのではないか。
そんな拭いきれない不安を抱えながら、私はゆっくりと応接室の重厚な扉を開けた。
「お待たせいたしました、シュタイニッツ卿。アデライダ・ルセナです」
老紳士が静かに立ち上がる。
銀白の髪に、落ち着いた色合いの服装。深みのある翡翠の瞳には、長く王宮に仕えてきた者ならではの知性と落ち着きが宿っていた。
「お初にお目にかかります、アデライダ様。エッカルト・シュタイニッツと申します。どうぞエッカルトとお呼びください。この度は光栄に存じます」
穏やかで、それでいて低く深く響く声だった。
私はごくりと唾を呑み、彼が私の顔を、黒髪を、赤い瞳を、そしてこの傷痕を見てどう反応するのか、息を潜めて待った。
だが。
エッカルト様の翡翠の瞳は、少しも揺れなかった。
驚きも、不快も、憐れみもない。
まるで最初からすべて承知していて、それらをことさら取り立てる必要などないとでも言うように、ただ静かに私を見つめていた。
彼はゆっくりと私との距離を詰めると、ふわりと目元を和らげ、優雅に一礼した。
それから私の左頬の傷へ一度だけ視線を落とし、静かに言った。
「……大変でしたな」
その一言だけで十分だった。
押しつけがましい同情はなく、ただ私の身に起きた理不尽を静かに受け止めてくれている。
そう思えた。
「お辛い日々であったでしょう。しかし、こうしてチェスに足を踏み入れようとされる貴女の瞳は、とても力強い。私は、貴女のような方と盤を挟めることを誇りに思います」
「っ……」
胸の奥が、じわりと熱くなった。
ああ、この人は。
私の髪や目の色にも、頬の傷にも、余計な意味を重ねない。
ただ目の前の私を見て、同じ盤を挟む相手として向き合ってくれている。
(なんて素敵なおじいちゃんなんだろう)
胸の内に、じんわりとした信頼が広がっていく。これが王太子殿下を育てたレジェンドの器なのかもしれない。
「ありがとうございます、エッカルト様。そう言っていただけて、心が軽くなりました」
私は今度こそ、作ったものではない本当の笑みを浮かべた。
けれどエッカルト様は少しも怯えず、私の赤い瞳をまっすぐ見つめ返し、嬉しそうに目尻の皺を深くした。
「さて、挨拶はこれくらいにいたしましょうか。お父上からは、アデライダ様が相当なチェス好きであると伺っております。さっそく一局、お手合わせ願えますかな?」
いたずらっぽく目を細めるエッカルト様に、思わず頬がゆるむ。
「もちろんです。私の拙い戦術がどこまで通用するか、お手柔らかにお願いいたしますね」
そうして私は王都で初めて、怯えずに顔を上げたまま向かい合える相手と、盤を挟んだ。
◇
タウンハウスの最上階にほど近いサンルームで、エッカルト先生と盤を挟む時間は、今や私にとって何よりの至福だった。
本物の対戦相手がいる。相手の指先が駒に触れる音、わずかな呼吸の変化、盤上に満ちる緊張。すべてが心地よく五感を刺激する。
エッカルト先生の棋風は、ひたすらに洗練されていた。
一見すると静かで地味な一手が、数手先でぞっとするほどの意味を帯びて迫ってくる。
私は何度も唸りながら、盤面を睨みつけた。
「うぅ……先生、これ、数手先で私のクイーンが身動き取れなくなりますよね?」
「おや、気づかれましたか。では、ここからどう切り抜けられますかな?」
私はじっくりと盤面を睨み、考えに考えた末に、一つの結論へたどり着いた。
クイーンを助けるのではなく、捨てる。
定石からは大きく外れた、我ながら無茶苦茶な発想だった。けれど盤面全体を見れば、それがいちばん効率がいいように思えた。
私は静かに駒を動かした。
「おや……?」
その瞬間、エッカルト先生の翡翠の瞳が驚きに見開かれる。
先生はわずかに身を乗り出し、銀白の髭を細い指先で撫でた。
「……クイーンを犠牲にして、キングの動線を縛る、と。これはまた、既存のどの定跡にも属さぬ一手ですな」
翡翠の瞳が、愉快そうに細められる。
「奇抜でありながら、恐ろしいほど合理的だ。……ふむ、実に面白い!」
エッカルト先生の顔から、指導者としての穏やかな余裕がすっと消えた。
その翡翠の瞳に宿ったのは、一人の勝負師の光だった。
結局、その対局は私の負けに終わった。
けれど悔しさよりも、脳の奥を灼かれるような興奮の方がずっと大きかった。
「……素晴らしい。本当に、何という成長速度だ」
エッカルト先生は、驚きと歓喜の入り混じった熱い眼差しで私を見つめていた。
まるで、思いもよらぬ宝を見つけたとでも言うように。
「アデライダ様。正直に申し上げましょう。私は最初、傷ついた令嬢の慰みとして相手を務めれば十分だと思っていました。ですが、貴女はとんでもない逸材です。……これは引退を撤回してでも、全てを叩き込みたくなる」
「全てを、ですか? でしたら、先生が音を上げるくらい、しがみついてみせます」
頬の傷が少し引きつったが、今はそんなことなどどうでもよかった。
この安全な場所で、私は最高の師から、誰にも奪えない武器を手に入れようとしている。
そう思うと、胸の奥が静かに熱を帯びた。
◇
「――参りました。今日も私の完敗ですね」
そう告げて私はキングを倒し、心地よい疲労とともに背もたれへ身を預けた。
脳を限界まで回したあとの、この気怠さがたまらなく好きだった。
サンルームを満たす午後の光は、いつの間にか黄金色を帯びている。
大理石の床にも、長い影が静かに伸びていた。
「いやはや、今日も素晴らしい戦いでした、アデライダ様。毎度のことながら、私の心臓がいくつあっても足りませんな」
エッカルト先生は額の汗を上質なハンカチで拭いながら、満ち足りたように目を細めた。
「さあ先生、勝負のあとは糖分補給の時間ですよ」
私がチリンとベルを鳴らすと、控えていた侍女が恭しくワゴンを押してきた。
銀の皿に載っているのは、昨日から別邸の厨房を借りて仕込んでおいた、きつね色のタルト・タタンだ。焦がしキャラメルでじっくり煮たりんごが、香り豊かな生地の上で艶やかに照っている。
「おや、これは……見たことのない焼き菓子ですな」
「ふふ。りんごをたっぷり敷き詰めて焼いた特製のタルトです。どうぞ召し上がってください」
温かな紅茶とともに、私はエッカルト先生の前へ、フォークを添えた一皿を差し出した。
先生はそれを一口、実に上品な所作で口へ運ぶ。
その瞬間。
翡翠の瞳が、盤上で思いがけない奇襲を受けたときのように見開かれた。
「……これは驚きました。なんと芳醇な甘みと、心地よい酸味の調和でしょう。外の生地は香ばしく、中の果実はとろけるように濃厚だ。王宮の菓子職人でも、そうそうこの域には至れますまい」
「ありがとうございます」
私は内心でそっとガッツポーズを決めた。
前世のレシピをこちらの食材で再現するのは骨が折れたけれど、レジェンドの舌を唸らせられたなら大成功である。
「これを作った職人を、ぜひ我が家にも紹介していただきたいものです」
「あ、それは無理です。……これ、私が作りましたので」
「……は?」
エッカルト先生は、フォークを口元で止めたまま固まった。
本当に、ピタリと動かない。
まあ、無理もない。
侯爵令嬢が自ら厨房に立ち、小麦粉とバターにまみれて菓子を焼くなど、この国ではまず聞かない話だ。
「というわけで先生、これは私と先生だけの秘密にしておいてくださいね。お父様に知られたら、大騒ぎになってしまいますから」
いたずらっぽく唇に人差し指を当ててみせると、エッカルト先生は呆れたように首を振った。
けれど、その目元はどこか嬉しそうに和らいでいる。
「……承知いたしました。この至高の美味を独占できるのであれば、老骨の口は固く閉ざしておきましょう。いやはや、チェスだけでなく料理の才までお持ちとは……」
「ただ食いしん坊なだけですよ」
くすりと笑いながら、私もタルトを一口運ぶ。
うん。キャラメルのほろ苦さが完璧だ。
紅茶を飲みながら、先生がふと思い出したように口を開いた。
「アデライダ様の、型にとらわれないチェスを見ていると、かつて私が王宮で教えていた、あのお方を思い出しますな」
「あのお方?」
「ええ。私の最後の弟子にして、チェスにおいて私から免許皆伝を授けた、唯一の天才——王太子、エルヴェ殿下です」
「……へえ」
王太子、エルヴェ・レオン・フィリドール。
私より二つ年上で、今年十三歳になる、この国の次代を担う方。
もっとも、私にとっては一生縁のない、雲の上の存在でしかないのだけれど。
「殿下のチェスは、極めて冷徹で、それでいて完璧な合理性に満ちております。戦況を瞬時に見極め、容赦なく相手を詰ませにくる。私など、この一年はろくに勝負にもなりませんでしたよ」
「エッカルト先生を子ども扱いする十三歳ですか。……なんとも可愛げのない天才ですね」
「ははは。確かに、少々気の毒になるほど頭が切れすぎるお方でしてな。……そのせいか、最近の王宮では少々困った騒ぎも起きておりまして」
エッカルト先生は声をわずかに潜め、困ったように苦笑した。
「王太子殿下も、今年で十三歳。周囲の高位貴族たちは、こぞって自分の娘を妃候補にしようと躍起になっておるのです。先日も王宮の茶会で、着飾った令嬢たちが殿下を取り囲み、身分やお顔立ち目当ての露骨なアピールを繰り広げましてな……」
「うわぁ……想像するだけで息が詰まりそうですね。私なら、その場で体調不良を装って逃げます」
「普通ならそうでしょうな。ですが、我が愛弟子は違いました」
エッカルト先生は、どこか楽しげに肩を揺らす。
「あまりの鬱陶しさに我慢ならなくなった殿下は、令嬢たちを冷え切った目で見渡して、こう言い放ったのです。『私の隣に立ちたくば、せめてチェスで私に三手は持ちこたえてみせろ。私より頭の悪い女に、この国の国母が務まると思うな。二度と私の視界に入るな』……と」
「……ぶっ」
危うく紅茶を吹き出しかけた。
「え、本当にそれを、公衆の面前で令嬢方に言い放ったのですか?」
「ええ。一言一句違わずに。令嬢方は皆、文字どおり泡を吹いて泣き崩れたそうです」
「それはまた……」
面倒くさい男ですね、と。
危うく、そんな本音が口をついて出そうになった。
顔や身分目当てで群がられれば、うんざりする気持ちも分からなくはない。けれど、だからといってあまりにも容赦がなさすぎる。自分よりチェスが強いことを結婚条件にするなんて、いったいどれほど拗らせているのだろう。
「王族というのも大変ですね。私はこの別邸で、先生と美味しいお菓子を食べながらチェスをしているのが一番です」
「おや、アデライダ様なら殿下の良い対戦相手になれると思ったのですがねぇ?」
「あり得ません。私はただの引きこもりです。そんな雲の上の存在とは、一生関わることもないでしょう」
私は紅茶をひと口飲み、完全に他人事として笑い飛ばした。
このときの私にとって大切だったのは、ただこの静かな別邸で、先生と盤を挟む穏やかな日々だけだった。




