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タイトルの『犠牲と昇変』は、「サクリファイスとプロモーション」とお読みいただければ幸いです。
また、乙女ゲーム要素と悪役令嬢要素が明確になるのは中盤以降となります。
鏡の中に映る少女は、今日も今日とて、実にファンタジーの悪役にふさわしい顔立ちをしていた。
私は鏡に顔を寄せ、指先でペタペタと自分の頬に触れてみる。
しっとりとしてぷにぷにした十代前半の肌の感触は気持ちいい。そこまではいい。問題はその先だ。
つややかな夜の帳を切り落としたかのような、漆黒の髪。
前髪の隙間から覗くのは、妖しくもどこか冷ややかな輝きを放つ赤い瞳。
極めつけは、左の頬から顎にかけて斜めに走る、白く盛り上がった大きな傷痕。
せっかく整った顔立ちなのに、その傷のせいで「裏社会で修羅場をくぐり抜けてきた武闘派」みたいな物々しさを醸し出している。
(……うーん、何度見ても、戦闘力五万は余裕でありそうな仕上がりだなぁ)
窓から差し込む朝の光が、部屋の柔らかなアイボリー色の壁紙を優しく照らしている。机の上ではガラスのインク瓶がキラキラと光り、小鳥のさえずりに混じって庭のバラの甘い香りもふわりと漂ってきた。
こんなのどかな、絵に描いたように平和な朝だというのに、鏡の中の私だけが今にも「ククク、愚かな人間どもめ……」と不敵な笑みを浮かべそうな顔をしている。このギャップ、いったいどうしたものだろう。
私の名前はアデライダ・ルセナ。
ここは近世ヨーロッパを思わせる、けれどどこか妙ちくりんなファンタジー世界、フィリドール王国。私はその由緒あるルセナ侯爵家の一人娘で、今年十一歳になった。
妙ちくりん、というのは例えばこういうことだ。
多民族国家でもないのに、名前や家名はフランス系、スペイン系、ドイツ系、英語圏系とごちゃ混ぜ。上下水道はきちんと整備されていて衛生的だし、魔法が存在するわりに魔力の有無はあまり重要視されていない。
そして、ここからがちょっとした秘密なのだけれど、私には前世の記憶がある。
……と、偉そうに言ってみたものの、その記憶はかなりの欠陥品だった。
自分が前世では、令和の日本で生きていた女性だったことだけは、はっきり覚えている。日本人としての一般常識や、科学と歴史の最低限の知識もある。それに「チェスって面白いよね」とか、「スイーツは人類の至宝」といった価値観や趣味まで、驚くほど鮮明に残っていた。
でも、肝心の個人情報はすっぽり抜け落ちている。
名前は何だったのか。いくつで、どんな仕事をしていて、家族はいたのか。どうやって死んだのか。そういう大事なところが、綺麗さっぱり消えていた。
転生したばかりの頃は「私、誰だっけ……?」と少し迷子気味にもなったけれど、そこは持ち前ののんびりした性格が役に立った。
前世は前世、今世は今世。
すべての記憶を持ったまま新しい人生を始めるなんて、それこそ神様のミスみたいなものだと思う。一般常識だけ残してくれたのは、むしろ親切設計だ。名もなき日本人女性の人生にこだわるより、今世の侯爵令嬢生活をのんびり楽しむ方が、よっほどいいに決まっている。
そんなふうに気楽に割り切って生きてきた私だけれど、どうしても無視できない大問題があった。
鏡の向こうでじっと私を見つめ返してくる、この容姿だ。
黒髪に、赤い瞳。
前世のラノベやアニメの感覚なら「クールで格好いい」「ミステリアス」と褒められそうな属性なのに、この世界では信じられないくらい扱いが悪い。
この国には、古くから子ども向けの人気絵本や童話が数多くある。どれも大筋は似たようなもので、「優しいお姫様と騎士が、悪い魔女を退治してめでたしめでたし」という話だ。
そしてなぜか、どの物語に出てくる悪い魔女も、一分の狂いもなく黒髪に赤い瞳として描かれている。
大人たちは「まあ、おとぎ話だから」と流してくれる。けれど問題なのは、絵本の内容を世界の真理だと信じて疑わない素直な子どもたちだった。
彼らにとって、私はまるで絵本から飛び出してきた怪物らしい。黒髪で赤い瞳の者は悪い魔女で、見つけたら逃げるか、退治しなければならない。そんなふうに刷り込まれているのだ。
おかげで、幼い頃の私は文字どおり生きる怪物扱いだった。
街を歩けば子どもに指をさされて泣かれ、親は慌ててその子の目を覆って逃げ去る。
少しやんちゃな子どもからは、物陰に隠れて石を投げつけられたことすらある。
(……まあ、遺伝子的な話をすれば、お父様が黒髪でお母様が赤い瞳なんだから、私がこうなるのは当然といえば当然なんだよね。メンデルの法則を教科書に載せて、国中の子どもたちに配ってやりたいよ)
そんなことを考えながら、私は鏡に向かって小さく肩をすくめた。
そもそも、私は魔力というものが一滴も存在しない、完全に魔力ゼロだ。
なので、「魔女」と恐れられる私が魔力ゼロというのは、むしろ無害の証明になるはずなんだけど。
ほうきで空は飛べないし、怪しい薬を煮詰めることもできない。ただチェスとお菓子作りが好きな、少し顔立ちのきつい侯爵令嬢。それが私だ。
だから幼い頃は、周囲の偏見をそこまで深刻に考えていなかった。
(そのうち大きくなれば、みんな「あ、ただの人間だ」って気づくよね。好きに言わせておこう)
そう、のんびり構えていた。
ここは法治国家で、白昼堂々、無害な人間が理不尽に命を狙われるなんて、そうそう起こることではない。
平和なフィリドール王国なら、なおさら大丈夫だと信じていた。
……しかし。
その考えが、どれほど甘かったことか。
鏡の中の傷痕を、そっと指先でなぞる。
少し引きつる感触が、数年前のあの日の、生温かい血の感触と鉄の匂いを思い出させた。
◇
――時は、二年前に遡る。
私がまだ、自分の容姿を「ちょっと厄介な遺伝のいたずら」程度に捉え、世界が自分に向ける悪意の鋭さを知らなかった、お気楽な頃の話だ。
その日、当時九歳の私は、ルセナ侯爵家の馬車に揺られてスタントン公爵邸へ向かっていた。目的は、親同士のちょっとした懇親を兼ねたお茶会だった。
貴族同士の社交は、前世が日本人だった私には退屈極まりないものだった。コルセットで締め付けられたドレスを着て、ひたすら行儀よくしている時間は苦痛でしかない。
公爵邸に着き、サロンで両親たちの歓談が始まる頃には、私の我慢も限界に近づいていた。
幸い、公爵夫人が庭園の散策を勧めてくれたので、私は礼を述べてその場を辞した。
そうして足を踏み入れたスタントン公爵邸の庭園は、溜め息が出るほどに美しかった。
「……わぁ、お金がたっぷりかかってますね、これ」
思わず、前世の感覚のまま率直な感想がこぼれる。
丁寧に整えられた芝生に、色とりどりのバラ、大理石の噴水。五月の爽やかな風に、サロンの重い空気がすっとほどけていくようだった。
私はドレスの裾を少し持ち上げ、庭の奥へと歩いていった。
木漏れ日が地面にまだら模様を落とし、落ち葉を踏む音が心地よい。これなら一時間くらいはのんびり過ごせそうだ。
そう思いながら立派なプラタナスの木を回り込んだ、そのときだった。
「……え?」
視界の隅に、小さな女の子が映った。
私より二つか三つ年下だろうか。六、七歳くらいに見える。燃えるような赤銅色の髪に、大きな琥珀色の瞳。淡いピンクのフリルドレスをまとった姿は、高級なビスクドールそのものだった。
女の子は地面にしゃがみ込み、何かを眺めていたが、私の足音に気づいて顔を上げた。
「あ……」
目が合った。
私の黒髪と、赤い瞳を見て——
「……っ!」
女の子の体がびくりと固まった。みるみるうちに瞳が潤み、小さな肩が震え始める。
あらら……これは嫌な予感がする。
私の祈りもむなしく、女の子は大きな声で泣き出した。
「いやあああぁぁぁ――――っ!!! ま、まじょ! わるい魔女が出たのぉぉ――――っ!!!」
静かな庭園に声が響き渡り、小鳥たちが驚いて飛び立った。
「ちょ、ちょっと待ってください! お願いですから騒がないで!」
私は慌てて両手をパタパタと振り、彼女を宥めようと歩み寄った。
それが完全に悪手だった。
「こないでぇぇ! 食べちゃうんでしょ! 私をいけにえにするんでしょぉぉぉ――――っ!!!」
「食べるわけないでしょう! 生肉は衛生的にちょっと無理ですし、そもそも私は人間です!」
「うわあああぁぁん! おにいちゃぁぁん! 助けてぇぇ、怖い魔女がぁ――――っ!!!」
女の子は尻もちをついたまま大泣きしている。本気で命の危機を感じているらしく、なんだか申し訳なくなってきた。
ええと……私、本当に何もしていないんですけど。
「あの、私は魔女ではありませんよ。これは染めた髪でも飾りの瞳でもなく、生まれつきです。魔力も一滴もありません。本当です」
できるだけ優しいお姉さんらしく微笑みかけたが、どうやらそれすら相手を怯えさせてしまったらしい。
「ひぃっ、わ、笑ったぁぁ! 呪われるぅぅぅ――――っ!!!」
「理不尽っ……!」
女の子の泣き声はますます大きくなり、私は両手を宙に泳がせたまま立ち尽くすしかなかった。
これが、私とこの世界の絵本による刷り込みとの、最初の本格的な衝突だった。
「お兄ちゃぁぁん! 助けてぇぇ!」
誰か早く来て、この誤解を解いてほしい。私は魔力を持たない、チェスとスイーツが好きなだけの普通の九歳児なのに。
しかし、その願いは最悪の形で叶ってしまった。
「——そこまでだ、悪しき魔女めっ!」
背後から凍りつくような怒声が響く。
同時に、背筋を本物の悪寒が走った。
——逃げろ。
本能が警鐘を鳴らした瞬間、私はドレスの裾も構わず横へ飛び退く。
ヒュッ!
空気を切り裂く金属音が耳をかすめ、冷たい銀色の軌跡が目の前を過ぎた。
もし一瞬でも遅れていたら、首が飛んでいた。冗談抜きで、問答無用の殺意。相手は私を斬り殺すつもりで、刃を振るったのだ。
「——っ、痛っ!」
完全には避けきれず、左頬に灼けるような痛みが走った。
生温かい血が溢れ、指の間からぽたぽたと芝生を染めていく。恐怖と痛みで視界がちかちかした。
「おのれ、魔女め! 我が妹に手を出した報い、その命で支払ってもらう!」
硬いブーツの足音が近づいてくる。
痛む頬を押さえながら顔を上げると、そこには一人の少年が立っていた。スタントン公爵家特有の赤銅色の髪と琥珀の瞳。立派な服をまとい、本物の剣を手にしている。
妹を背後に庇い、誇らしげに剣を構えたその姿は、まさに絵本から抜け出してきた騎士そのものだった。
(——正気じゃない)
少年はまったく疑っていなかった。泣いている妹を見て、「魔女を退治する」という物語を、そのまま現実で実行しようとしているのだ。
「……私は、何もしてません……!」
「往生際が悪いぞ、魔——」
少年が再び剣を振り上げようとした、その瞬間だった。
彼は私の顔を正面から見て、ピタリと動きを止めた。
「…………え?」
剣を突き出した姿勢のまま、まるで時間ごと凍りついたように硬直している。
その琥珀の瞳が、これまで見たこともない奇妙な色に染まっていく。驚愕、困惑、そして——なぜか、熱に浮かされたような陶酔。
そして彼は、信じられない言葉を口にした。
「……可愛い」
は?
今、この状況で何を言ってるんだ……?
「なんという……可憐さだ。夜を紡いだような髪に、情熱的な薔薇の瞳。これほど僕の理想を体現した女の子が、この世に存在したなんて……」
少年は、持っていた剣を芝生の上にポイっと投げ捨てた。
待って、待って待って待って。つい数秒前にその剣で私の首をはねようとしたことを、もう忘れてしまったのだろうか。
呆然とする私をよそに、彼は恍惚とした表情のままこちらへ近づいてくる。
そして、血に塗れた私の前に、さも優雅な騎士のように片膝を突いた。
「怪我をさせてしまって申し訳ない。だけど安心してほしい。君のその傷は、僕が君の命を救った……いや、僕たちが出会うための運命の証だ」
何を言ってるんだ、この狂人は。
頬の激痛すら一瞬忘れるほどの恐怖が、じわじわと脳を侵していく。
「女の子の顔に傷をつけてしまったのは、僕の不徳の致すところだ。こんな傷が残ってしまっては、君はもう他の誰のもとへも嫁げないだろう。家名にも泥を塗る。だけど、心配はいらない」
少年は、私の血で汚れた手を両手で包み込んだ。優しく、それでいて逃がさないように強く。
その瞳は、狂信めいた光を湛えてキラキラと輝いている。
「責任を取って、僕が君を妻にしてあげる。将来、必ず君を娶り、スタントン公爵夫人の座を約束しよう。だから泣かなくていい。君は一生、僕が守ってあげるからね」
その瞬間、恐怖と嫌悪で全身の産毛が逆立った。
——誰のせいでこの傷ができたと思ってるんだ、この男……!
「……ち、……」
「ん? 嬉しさのあまり言葉が出ないかい?」
「……近寄らないでくださいっ!!!」
私は残った力を振り絞って彼の手を振り払い、這うようにして距離を取った。
目の前にいるのは、正義の味方でも白馬の王子様でもない。
自分に都合のいい妄想だけで世界を組み立て、他人の身体を傷つけてなお、「責任を取ってやるヒーロー」になれると本気で信じている、本物の化け物だった。
スタントン公爵邸の応接室は、お通夜と裁判所を無理やり一つにしたような、胃がねじ切れそうに重苦しい沈黙に支配されていた。
部屋の隅の大きな振り子時計が刻む、コチ、コチ、という無機質な音だけが、やけに大きく響いている。
私の左頬は、応急処置の包帯で痛々しく覆われていた。
ズキズキと、心臓の鼓動に合わせるような痛みが絶えず脳を揺さぶり、じっと座っているだけでも冷や汗が背中を伝っていく。
だが、その肉体的な苦痛さえ、目の前のテーブルを挟んで繰り広げられている地獄の会談に比べれば、まだ可愛いものだった。
「——お言葉ですが、スタントン公爵。これ以上の話し合いは無用です」
地を這うような低い声。
声の主は、私の父であるルセナ侯爵だった。
普段は穏やかで、私がおねだりすれば何でも笑って許してくれる優しいお父様の顔は、今は見る影もなかった。
怒りで目は血走り、テーブルの上で固く握りしめられた拳は細かく震えている。
その隣に座るお母様も、顔を真っ白にこわばらせ、怒りと悲しみをこらえながら、壊れ物を扱うように私を抱きしめていた。
対するテーブルの向こう側では、スタントン公爵夫妻が青ざめた顔で、額を擦り付けんばかりに平謝りを繰り返している。
そして——その少し後ろで、当の犯人であるスタントン公爵子息アーヴィンは、相変わらず恍惚とした琥珀の瞳で、包帯姿の私を熱っぽく見つめ続けていた。
「ルセナ侯爵、本当に、何とお詫びを申し上げたらよいか……! 我が息子の愚行、もはや凶行と呼ぶほかありません。どのような償いも処分も、甘んじて受ける所存です」
公爵が悲痛な声を絞り出す。公爵夫人も青ざめた顔で、ハンカチを口元に当てたまま涙をこぼしていた。
当然だった。他家の令嬢を背後から斬りつけ、顔に消えない傷を負わせたのだ。公爵家といえど、無傷で済む話ではない。
だが、地獄はそこからだった。
両親がどれほど取り乱し、スタントン公爵夫妻がどれほど謝罪を重ねようと、肝心のアーヴィンだけがまるで別の世界にいた。
「父上、母上。何度も申し上げるように、僕はアデライダを深く愛してしまったのです。僕の罪は、彼女を一生愛し、スタントン公爵家へ迎え入れることでしか贖えません。傷痕ごと、彼女のすべてを愛すと誓います」
朗々と、まるで悲劇のヒーローのように語る声を聞いた瞬間、全身の産毛が逆立った。
冷たい汗が噴き出し、吐き気すら覚える。
この男は本当に狂っている。反省など、欠片もしていない。
自分のしでかした傷害を、勝手に「運命のロマンス」へと変換しているのだ。こんな男に一生愛されるなど、絶対に御免だった。
「黙れ、アーヴィン……! これ以上、我が家の、そしてスタントン家の名を汚す気か!」
公爵が怒鳴りつける。だが、アーヴィンの瞳には「試練に耐える悲劇の騎士」に酔うような歪んだ恍惚が宿るばかりで、まるで響いていない。
その光景を見て、お父様の怒りはついに冷徹な決断へと変わった。
「スタントン公爵。これ以上、『それ』の声を我が娘に聞かせないでいただきたい。吐き気がする」
お父様は冷たく言い放つと、懐から一通の書状を取り出し、テーブルの上へ叩きつけた。
「我がルセナ家は、この件に関し、公式な告発は行いません。傷跡の治療費も、慰謝料も不要です」
「えっ、そ、それは……!?」
公爵が驚愕に目を見開く。
だが、お父様の条件はそれ以上に冷酷で、絶対的なものだった。
「その代わり、本日この瞬間をもって、我がルセナ家はスタントン家とのあらゆる交流と親交を断絶します。今後、社交界でも王宮でも、いかなる場所であれ、我が家の人間、特に娘アデライダに対し、貴殿らの誰一人として一歩たりとも近づくことは許さない。もし……もしその約束が一度でも破られたなら」
お父様の灰簾石の瞳が、スタントン公爵を、そしてアーヴィンを蛇のように射すくめる。
「ルセナ侯爵家の全財産、全権力を以て、貴方方を社会的に叩き潰す。どれほど泥沼になろうと構わない。我が娘をこれ以上害する狂人を、私は決して許さない」
それは、温厚なお父様が生まれて初めて見せた、本物の殺気だった。
公爵夫妻は息を呑み、血の気の引いた顔で、ただ深く頷くしかなかった。
◇
鏡の中の自分が、わずかに眉を寄せている。
私はゆっくり息を吐き、指先で左頬の傷痕をもう一度なぞった。白く盛り上がったそこには、記憶の熱がまだかすかに残っている気がした。
(……ふぅ。今日はまた、随分と懐かしくて嫌な記憶を掘り返しちゃったな)
あの事件から二年。
事件の直後、九歳だった私は「命大事に」を合言葉に、屋敷の敷地から一歩も出ない引きこもり生活を選んだ。
精神的にも肉体的にも傷ついた私を、両親は誰より案じてくれた。そしてこの極端な選択さえ、涙ながらに受け入れてくれた。過保護バンザイ。
結果として、この二年はとても穏やかで快適だった。
(さて、今日の糖分補給は何にしようかな〜。昨日仕込んでおいたパウンドケーキの焼き具合も気になるし……)
私はパタパタとスリッパを鳴らし、机の上に広げたチェスの教本へ向かった。
誰にも邪魔されない安全な屋敷の中で、大好きなチェスに没頭する。盤面を睨み、新しい戦術を組み立てる時間は、何ものにも代えがたい至福のひとときだった。
そして「チェスは頭を使うから糖分の消費が激しいのです」という都合のいい理屈を掲げては厨房を借り、スイーツ作りにも打ち込んだ。その腕前も、いつの間にかぐんと上達していた。
さらに時間は有り余るほどあったので、語学、地政学、歴史、経済といった教本も片っ端から読んでいった。
前世の日本人としての一般常識があるおかげで、この世界のどこか歪な制度や歴史にも自然と疑問を持てたし、自分なりに考えを深めることもできた。
そうして「命を守るため」に始めた引きこもり生活は、気づけば私を、とんでもなくハイスペックで、それでいて完全に引きこもり気質な十一歳の令嬢に変えていた。
もっとも当の私は、安全な場所で趣味と勉強を満喫しているだけの、無自覚な自堕落令嬢のつもりだったんだけど。
(う〜ん、一人チェスも楽しいけれど、やっぱりそろそろ、本気で戦える相手が欲しいなぁ……)
淹れたての紅茶をひと口すすり、ポーンを指先で転がしながら、私はそんな贅沢な悩みに小さくため息をついた。
チェス用語の簡単な注釈と、登場人物名の由来については活動報告にまとめております。ご興味がありましたらご覧いただけますと嬉しいです。




