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今日は最終話を含めて3話更新します。
ハリエットさんは、玄関口まで見送りに来てくれた。
「アデライダ様……! 本当にお疲れ様でした。そして……この後も、頑張ってくださいね!」
ハリエットさんは、どこか祈るような、それでいて期待に満ちた不思議な眼差しで私を見つめ、ぎゅっと両手を握りしめて応援してくれる。
「はい、ありがとうございます……?」
私は丁寧に礼を返しながらも、心の中で小さく首を傾げた。
(……ん? 頑張れって、一体何に対してなんだろう? 断罪イベントは無事に回避できたし、あとは王宮で契約終了の確認をするだけなんだけどな)
疑問に思いつつも、私は殿下に促されるまま王家の馬車へと乗り込んだ。
ガタン、と馬車が動き出し、学園の敷地を離れていく。
周囲の目がなくなった車内で、殿下は深くソファに背を預け、低く太い息を吐き出された。
「……ふぅ。あのクソ女のせいで、無駄な時間を取られたな」
「殿下、本日はご卒業おめでとうございます。そして、大変お疲れ様でございました。先ほどのご対応もお見事でした」
「……クソ女のことなど、どうでもいい。それよりアデライダ。今日は俺たちの五年間の仮婚約期間が満了する日だ。分かっているな?」
こうして人目のない私的な空間に戻ると、殿下の一人称も口調も、いつものものへと戻る。
しかし、その表情は先ほどプリシラを一蹴していた時とは違い、どこか硬く、緊張さえ滲ませていた。
「はい、もちろんです。忘れるはずもございません」
私はそう答えて、静かに頷く。
それきり、馬車の中には重たい沈黙が落ちた。
この世界にとっては、乙女ゲームのエンディングのほうが大事なのかもしれない。
だが私にとって、今日いちばん重要なのは、仮婚約の契約満了日であることだった。
窓の外を流れていく王都の景色を眺めながら、私はぼんやりと思う。
(……なんだかんだあったけど、あっという間の五年だったなぁ)
ふと向かいの席の殿下へ目を向けると、殿下は険しい顔で腕を組み、じっと窓の外を見つめていた。
その横顔はどこか張り詰めていて、いつもとは違う気配をまとっている。
何か考え事でもしているのだろうか。
そう思いながら、私はただ馬車の揺れに身を任せていた。
◇
王宮に到着した私たちは、そのまま慣れ親しんだ対局室へと案内された。
(仮婚約の契約満了日なんだから、てっきり書類の確認や手続きの話になるものと思ってた)
重厚な扉の向こうに広がっていたのは、いつもと変わらぬ光景だった。
部屋の中央のテーブルには、使い込まれた最高級の木製チェス盤と、整然と並べられた美しい駒が静かに待っている。
「座れ、アデライダ。まずは……一局指すぞ」
殿下は上着を脱いで椅子の背もたれに掛け、息を整えるように深く吐き出してから、向かいの椅子を指さした。
「はい、承知いたしました」
私は促されるまま、静かに席へ着いた。
いつも通りの放課後の対局。
しかし、今日この部屋に満ちる空気は、どこか決定的に違っていた。
ギィ、と静かな音を立てて扉が動く。
いつもなら殿下の背後に控えている側近のコンラートさんが、そっと部屋を退出していったのだ。
礼儀と最低限の配慮として、扉だけはわずかに隙間を残したまま。
(あれ……? コンラートさんが退室された……?)
私と殿下が二人きりになる時は、身分への配慮から、普段ならコンラートさんがほぼ必ず室内に控えている。
彼が席を外すなど、この五年で数えるほどしかなかった。
部屋に残されたのは、チェス盤を挟んで向かい合う私と殿下だけだった。
(扉を開けてあるとはいえ、二人きりだなんて珍しいな……。やっぱり今日は契約満了日だから、何か特別な手続きの準備でもあるのかな?)
静まり返った対局室には、二人の呼吸音さえ聞こえてしまいそうなほどの緊張が満ちていた。
いつもなら対局の前に、殿下が「今日の課題がどうの」とか「父上と母上がどうの」といった雑談めいた愚痴をこぼす。
けれど今日の殿下は、恐ろしいほど無口だった。
「……殿下?」
私が小さく首を傾げると、殿下は視線をチェス盤へ落としたまま、低い声で呟かれる。
「……始めるぞ。白はお前だ」
「……はい。よろしくお願いいたします」
私より強い殿下は、いつもこうして先手を譲ってくださる。
私はそっと駒へ手を伸ばし、白のポーンを一歩前へ進めた。
コツン、と硬質な木の音が、静まり返った対局室に鋭く響く。
(なんだか今日の殿下は、いつも以上に気迫がすごい気がする……)
心なしか盤面を見つめるその顔は、一世一代の勝負に挑む騎士のように険しく、真剣そのものだった。
理由の分からない緊張を胸に覚えながら、私もまた盤面へ意識を集中させる。
コツ、コツと、盤上に駒の音が規則正しく響く。
目の前の殿下は、いつも以上に鋭い眼差しで盤面を見つめていた。
私は黒の駒が進められるのを待ちながら、この五年間の記憶へと思いを馳せる。
(思い返せば、色々なことがあったなぁ……)
虫除けの仮婚約者として結んだ、この契約。
王太子の婚約者という立場を利用して無駄な社交を避けまくり、ひたすら引きこもり資金を蓄えてきた五年間だった。
(とりあえず、プリシラ除けは完璧に達成できたよね! 契約満了に伴う報酬で、夢の引きこもりライフの資金もしっかり貯まったし! まあ、学園を卒業するまでは完全に引きこもるわけにもいかないけど……)
先のことを考えると、楽しみで胸が躍る。
……なのに、それと同時に、胸の奥がきゅっと小さく締め付けられるような感覚もあった。
(あ……でも、契約が終わったら、殿下とこうしてチェスを指すことも、なくなっちゃうのかな)
チェスではいつだって本気で向き合ってくれて、お菓子の話になれば真顔であれこれ論じ始める。
ぶっきらぼうなくせに、実のところはとても優しい殿下。
この五年で、殿下と過ごすこの時間が、自分にとってどれほど当たり前で、心地よいものになっていたのかを改めて思い知る。
(『契約が終わっても、たまには対局していただけますか?』ってお願いしてみようかな? いやでも、流石に図々しいかなぁ……)
そんなふうにあれこれ考えて、すっかり集中を切らしていた、その時だった。
「……あ」
指が滑ったわけではない。
ただ、思考が明後日の方向へ飛んでいたせいで、私はとんでもない悪手を指してしまっていた。
(あああぁぁ! しまった! ナイトをこんな場所に動かしたら、殿下のビショップにタダで取られちゃう!)
やってしまった、と私は青ざめた。
いつもなら、こんな間の抜けた手を指した瞬間、殿下は眉をひそめて「何をしている、集中しろ」だの、「お前らしくもない」だのと、呆れた顔で指摘してくるはずだ。
「あ……申し訳ありません、殿下。今のは——」
慌てて謝罪しようとした私の言葉は、殿下の放つ圧倒的な迫力に呑み込まれ、そこで途切れた。
殿下は、まるで私の顔を見る気もないようだった。
指摘するどころか何も言わず、ただスッと長く美しい指を伸ばす。
そして迷いのない手つきで黒のビショップを動かし、私のナイトを盤上から取り除いた。
カツン、と重みのある音が、静かな対局室に響く。
(……ええっ!? 指摘もなしなの!? いつもなら『言いわけは許さない』とでも言いたげに説教してくるのに……今日は黙って容赦なく取られた!?)
私は思わず目を丸くする。
(今日の殿下、一体どうしたんだろう?)
その本気の気迫と容赦のない一手に、私は明後日の方向へ飛んでいた意識を慌てて引き戻し、盤上へと集中させた。
(とにかく、この大悪手をなんとかして挽回しなきゃ……!)
静まり返った対局室で、私たちは互いの呼吸音だけを響かせながら、さらに盤面を深めていった。
悪手を取り戻そうと必死に応戦したものの、今日の殿下の集中力と気迫は、まるで次元が違った。
カツン——
鋭い音とともに、私の盤面は完全に追い詰められる。
逃げ場を失った白のキングは、静かに詰みの局面を迎えていた。




