第8話
ついに運命のダンスパーティ。
年に一度、この日だけ学生たちの為にオーギュスト宮が開放される。
大人たちも参加するがそれは保護者として。
あくまで主役は未来ある学生だ。
ここは本来各国訪問団の歓迎パーティなどにも使われる国随一の豪華な宮殿。
廊下に飾られる絵画彫琢品すべてが超一流。
ダンスパーティ会場もきらびやか。
生徒たちは人生において滅多に入ることの出来ないこの宮殿に興味津々だった。
一般の生徒たちよりも遅れて宮殿入りしたニナは、すでにひっそりとなった廊下を音もなく歩いていた。
すれちがう警備兵たちは彼女が何者かを知っているので折り目正しく敬礼する。
ニナは笑顔でそれに応じた。
万感の思いだった。
今日、確実に一つの劇的な局面を迎える。
ニナから婚約破棄を告げるつもりはない。
ただ笑顔で去るのみ。
(きっとアレクはそれだけで――)
彼女はその後の展開を夢想して微笑みを見せた。
考査直後からの数日間は本当に大変だった。
食を絶つのがこんなに苦しいとは知らなかった。
紅茶も遠ざけ、水だけで過ごした。
周囲は随分と気をもんだが、侍女たちだけには事情を話して味方につけておいたので何とか誤魔化しきることができた。
最終登校日をきちんとクリアしてからも大変だった。
満を持して体調戻すことにしたのだが、今度は身体が食を受け付けない。
食べたいのに思うように食べられない苦しみ。
もう二度とするものかと誓った。
その間、あらゆる人物の訪問も拒絶した。
たった一人、リリアだけは屋敷のカギを渡してあるので裏口から堂々入ってくる。
彼女とは綿密な打ち合わせが必要だったからだ。
『――ケネスは大丈夫かしら?』
ニナが一番気にしていたのがそこ。
彼は侯爵家を訪ねるニナにも優しかった。
父の代からクライツ家に仕えてきたという彼は身のこなしも確かで、代々護衛として近くにいるのだろうと勝手に想像していた。
貴族らしからぬ純朴さを持つ彼をターゲットにするのは最後まで迷った。
それでも成功率重視のため、心を殺して彼に決める。
それが彼の心をも殺しかねないことだと知っていても。
『彼はきっと大丈夫です。分かってくれます。それに私が彼を愛しているのは事実ですから』
しかしハニートラップを仕掛けた当のリリアが割と平気な顔をしているのだ。
いつもその言葉を繰り返してきた。
計画実行中も、最終登校日が過ぎてからも。
リリア――本名はリリアですらないのだが、彼女はいつしか本気でケネスに恋するようになっていた。
だからこそ、ニナは更に気に病むことになるのだが。
『最悪ネリー様に泣きつきます。あの御方でしたら何とでもしてくださいますから』
その言い様にニナは思わず噴き出すのだった。
ニナの作り出した舞台は無事成功した。
悪女の烙印を押されたリリアは商会に籠っている……と見せかけて、商会の部下たちと堂々辺境伯邸に通い続けた。
そもそも学舎の制服を着こんだ彼女こそが変装状態。
髪型から、歩く姿勢から。
声色まで。
……何もかもが。
ニナはそれが出来る人材を旧知のデュヴァン商会に『発注』したのだ。
屋敷を訪れる普段の彼女と『リリア』が同一人物だと認識するには相当な修練が必要になる。
『ここまで来たんです、絶対に最高の舞台にしましょうね!』
そう拳を力強く握りしめたリリアは、事情知ったる侍女たちと一緒になってニナを飾り立てるのに参加していた。
ニナは苦笑いのまま、されるに任せる。
……すべては決戦のダンスパーティに向けて。
結局アレクサンダーは弁解の為に姿を見せることはなかった。
全てがニナの罠だとすでに気付いているだろう。
彼に残された道は二つ。
潔く負けを認めるか。
それとも無様に足掻いて醜態を晒すか。
ニナの罠を回避出来なかったのは彼の落ち度。
少々がっかりしたが、それでも勝ちは勝ち。
それなりに楽しい人生を送れるならば、それはそれで良いとニナは思うことにした。
エスコート役としてアレクサンダーから誘いの手紙があったが、一人で行くとの返事をしておいた。
最高の姿を見せるのは会場で、と決めていた。
ニナは満を持して悠々とダンスホールに繋がる大扉の前に立った。
礼装の門兵が恭しく扉を開く。
目の前に広がるのはオーギュスト宮が誇る最もきらびやかな景色。
国宝級のシャンデリアの数々が天井から着飾った生徒たちを見下ろしていた。
二階の貴賓席には王族が入ることもあるが、今日ははたして――。
(もしかするとお義母様は見ておられるかも?)
ニナはそっとそちらに視線を移したが、確認は出来ない。
それでも一応淑女の嗜みとしてそちらに向かって一礼しておく。
そしてフロアにいる大人たち――保護者として参加の皆に向けても礼を繰り返す。
あくまで学生たちが主役のダンスパーティだから彼らの出番はないが、今日のニナは騒ぎを起こす身。
彼らの耳にも今回のアレクサンダーを巡って起きた諍いは届いているはずだし、それ以来となる二人の邂逅を現地で見てやろうという好奇心も胸にしつつの参加だろう。
そんな彼らを味方に付けるのもニナの大事な作戦の一つ。
そう割り切り笑顔で礼を尽くす彼女に全員の視線が向いていた。
あちこちで感嘆の息が漏れる。
(……これに関してはリリアやみんなに感謝ね)
ニナは勝利を確信し、薄く笑みを浮かべた。
(さぁ、仕上げと参りましょうか!)
ニナは誰よりも早くアレクサンダーを見つけるという特技を持っている。
今夜も当然のように彼を一発で見つけ、そちらにゆっくりと歩みを進める。
ある程度まで体調と体重を戻し、この上なく美しく着飾ったニナはやはり誰よりも注目を浴びていた。
そしてアレクサンダーは彼女を迎えるべく友達の輪から離れ、歩み寄る。
どうなるのかという周囲の視線が二人に突き刺さった。
やがて彼らは互いの声が届く距離まで近づいた。
皆が心配するように、ニナは人前でアレクサンダーを非難するつもりなど毛頭なかった。
この数日練習に練習を重ねた儚げな笑顔でそっと手を差し出すだけ。
「……どうか私に最後の思い出をくださいまし」
皆が静まる中、そんな凛とした声が響いた。
涙すら見せず毅然と、だけど寂し気な微笑みで別離を受け入れようとするその姿が全ての者を観客にする。
数々の王家の血を宿す至高の令嬢ニナと、そんな彼女を最も美しく魅せる舞台として選ばれた王国が誇るオーギュスト宮ダンスフロアの組み合わせ。
数十年は語り継がれること間違いなかった。
この作戦を実行するにあたり、ニナは徹底してきた。
……絶対にアレクサンダーを詰ったりしないと。
視線で殴り合うことはあっても、口では愛しい婚約者を想う健気なニナを演じ続けた。
難癖をつけるのは『実体のない』少女リリアにだけ。
今夜の最終局面でも同じ。
あえて多くを語らず、ただ美しく身を引く。
『婚約続行は厳しい』『破棄もやむなし』と周囲に思わせることだけに専念する。
――ニナに過失無し。
アレクサンダーにも過失と呼べるほどの過失は無い。
現実にリリアとの間には何もないからだ。
ニナが勘違いしただけだといずれ知られるだろう。
(それでも、どちらかに天秤を傾けなければいけないならば……)
体調を戻し綺麗に着飾ったとしても、いまだ不健康な青白い肌は化粧でも隠しきれない。
そういったことに疎い男性ですら気付くほどに憐れな姿。
その神々しくも痛々しい姿を、今まさに皆が美しい舞台とともに目に焼き付けていた。
差し出された手を受け取るアレクサンダーは緊張を纏っていた。
(仕方ないわよね? このダンスが終われば負けが決定するのだもの)
ニナは彼の表情や力の入った肩から心の動きを読み、悦に浸る。
誰もが最後のダンスを願う彼女に同情を寄せていた。
ニナは学生時代の三年間、完璧な令嬢を成し遂げた。
そんな彼女に心酔する者は多数。
だけどリリアがケネスと交際を始め、アレクサンダーの近くにいるようになった僅か数カ月で見るも無残に転がり落ち、ついに精神まで病んでしまった。
その落差が落差だけに、皆の心に突き刺さる。
周囲はそれだけ本来のニナは脆い存在だったのだと思うようになった。
今まで完璧だったのは婚約者アレクサンダーに相応しくあろうと頑張ってきただけなのだと。
遥か高みにいたニナという完璧令嬢は、実はこんなにも弱い、自分たちとそこまで変わらない令嬢だったのだと。
『アレクサンダーは純情一途な婚約者ニナを潰してしまった』
たとえ誤解ではあっても、不安を募らせるニナに寄り添うことなく、弁解の義務も果たさず、このような状況になるまで放置し続けたアレクサンダーは婚約者としての役目を果たせていたのか否か。
「――えぇ、ニナ。……最後かどうかは別にして、喜んでお供しますよ」
アレクサンダーは晴れやかな笑顔を作ると、愛おしそうに彼女の手を取った。
それに合わせたかのようなタイミングで音楽が鳴り始める。
二人は寄り添い、流れるように一歩滑り出した。
周囲の者も慌てて踊り出すのだが、気もそぞろ。
(……どれだけ周囲に緊張を強いていたのだか)
ニナは思わず笑ってしまう。
アレクサンダーも同じように笑った。
こういったところは本当に同じ。
思いもしない出来事に出くわしては、一緒に声を上げて笑った。
悲しい事件を知っては、二人して憤った。
美しい風景で心を激しく揺さぶられ、二人して手をつないだまま放心した。
そんな十年の歳月。
(そしてこれからもずっとそんな日々が続きますように――)
……これが嘘偽らざるニナの本音だった。
ニナは混じりっ気のない笑顔でアレクサンダーを見つめた。
彼は一瞬目を見張ったが、やはりとろけるような笑顔で返す。
周囲は険悪なはずなのに、互いを愛おしそうに見つめ合う二人に釘付けになっていた。
ニナは思う。
(こんな風に結構な数のダンスを踊ってきたのに……)
二人のダンスは戦いの連続だった。
幼少期のニナの蹴りに始まり、ある程度成長してからはリードでマウントの取り合い。
学生になってからは互いの動向を探りながら。
それでもニナは子供の頃からずっとアレクサンダーとのダンスを――。
(……楽しいね?)
ニナは思わず彼を見つめ、そう発してしまう。
(……うん、……楽しいね)
一瞬驚いた彼だったが、控えめにそう返してきた。
音楽が佳境に入り、アレクサンダーが積極的にリードを取り始めた。
こういう曲だということもあって、せっかくだからニナはその流れに委ねることにする。
彼のリードは彼の生来の繊細な性格と、ニナを含めたアルヴィナの皆と触れ合うことで身に付いた大胆さを併せ持っていた。
ニナにとっては、これ以上ない心地良さ。
身も心も何もかもアレクサンダーに預け切って、ただ無心で見つめ合いステップを踏む。
周囲に目があることなどすっかり忘れ、彼女はダンスを全力で楽しんでいた。




