第9話
やがて音楽がやんだ。
周りの皆も呼吸を整えながら動きを止める。
名残惜しいが、ニナもゆっくりとアレクサンダーの手を離した。
あとは無言のまま寂し気な笑顔で去れば本日の任務は終了。
――有責での破棄がイヤならば、頭を下げてでも関係継続を願い出てくるはず。
それで十分。
元々ニナに婚約を破棄する意志などなかったのだから。
(……あの日、アレクが余計なコトを切り出さなければ!)
確かに彼のことは気にくわなかった。
あまりにも自分にそっくりで。
そのうえで自分より前にいる気がしたから。
だけど一目惚れしたことも隠しようのない事実な訳で。
そんな第一印象の段階で既に認めるべきところは認めていたアレクサンダーから、当然のように突き付けられた婚約破棄。
ニナはただただ悔しかった。
可愛いと『アルヴィナ家の大切な姫君』と、皆から全力で愛されてきた彼女にとって初めての挫折。
しかしそれを悟られてしまえば、自分は一生弱い立場になることも幼いながらに理解していた。
だから合わせた。
彼女に残されていたのは徹底抗戦の道だけだった。
アレクサンダーを叩きのめし、『破棄しないで』と懇願させる。
それが溜飲を下げる唯一の方法だった。
そして、その瞬間は刻一刻と迫っていた。
ニナはアレクサンダーの真正面で優雅な一礼を見せた。
「……今までありが――」
頭をあげ、彼のその姿を目に焼き付けながら別れを告げようとしたが……当のアレクサンダーは呆けたように、ニナ後方の中空をじっと見つめていた。彼の緊張は最高潮にまで達している。
肝心のニナの声は全く届いていない様子だった。
彼女は言葉を中断させて振り返り、彼の視線を辿る。
子供の頃から動くものを追う訓練をしてきたニナは、二階の壁面にせり出された飾り窓付近に何者かの存在を捉えた。
その彼が美しい身のこなしで天井に向けて何かを投げる!
意味が分からないままに、肌だけが粟立った。
ニナは状況を把握しようとモノが投げられた頭上に意識をやる……と同時に、突然死角からアレクサンダーに抱きしめられ、床に転ばされた。
次の瞬間――。
ガッシャーン!
激しい音がし、周囲に固い物体が飛び散った。
「「――きゃぁぁぁあ!!!」」
あちこちで悲鳴が飛び交った。
どちらかといえば、ニナはこの状況を収拾させる側の人間だと自覚している。
慌てて起き上がり、皆の安全確保のために動こうとしたが、彼女に覆いかぶさるアレクサンダーの意外に筋肉のついている身体が重くて持ち上がらない。
それでも何とか彼を跳ね除けて身体を起こせば、今まで二人がいたところに何かの残骸が転がっているのが見えた。
へし曲がった金属細工とその周りに散らばるキラキラしたガラスの破片。
「…………シャンデリア?」
それに思い当たったニナは天井を見上げる。
彼女たちの頭上付近に不自然な空白があった。
おそらくそこに吊られていたモノが落ちたのだろう。
そんな風に冷静に判断してから、ふと押しのけたアレクサンダーが動かないことに気付いた。
そのとき初めて彼の背中から腰に掛けて服が破れており、そこから血が流れているのを知る。
「…………え? ……アレク? ……大丈夫?」
ニナは傷に障らないよう小さく彼を揺り動かす。
痛みで意識を失っているのか、彼はピクリとも動かない。
だが、そこはアルヴィナで訓練されてきたニナ。
「誰か! 医務官を呼びなさい! 早く!」
手早く指示を出した彼女は、遮二無二アレクサンダーの服を脱がせ始めた。
ニナは相変わらず微動だにしないアレクサンダーの傷をとっくりと見つめた。
そしてゆっくり息を吐く。
(……ほほう。……そうきたか?)
軍に馴染みがあり、傷病兵など見慣れるほど見慣れてきたニナは知っていた。
人間、この程度の傷では絶対に死なないことを!
そして脱がせたシャツをキッと睨む。
こちらもニナには見慣れた『軍御用達の防刃仕様』。
そこから次々とアレクサンダーの狙いが見えてきた。
ダンスが終わってからのあの二階への視線は『合図』だったのだろう。
多少強引にリードを取りに行ったのは目標のシャンデリアの下に誘導する為。
ならば楽曲からして、彼の指定があったに違いない。
……あの登校日以降、彼はこの仕込みの為に動いてきたのだ。
ここから始まるであろう起死回生の一手の為に。
(……だけど、まだ絶対有利は変わらないはず)
ニナはこれから何が起ころうとも全てに対処すべく心を静めた。
ニナが気付いたことにアレクサンダーも気付いたのだろう。
織り込み済だと言わんばかりに彼は微笑んだ。
彼はむくりと半身を起こし、勝手にニナの太ももを枕にして再び崩れた。
そして彼女の手を握り、口を開いた。
「……ニナ。……今まで苦しませてゴメンね?」
不自然なまでに明瞭な声。
周囲に聞かせることを目的とした声。
愛おしそうにニナの頬をさするその姿はぞっとするほど美しい。
同時に騒がしかった周りの音が完全に消える。
大人も学生も、皆が呼吸するのも忘れ、アレクサンダーとニナに目を奪われていた。
(これが貴方の用意した決戦の舞台ってワケね? いいわ、乗ってあげる!)
ニナは視線で合意の意思を示した。
「――二人でいろんなところに行ったよね?」
手始めとばかりにアレクサンダーは思い出を語り始めた。
確かに、相思相愛アリバイ作りとして様々な場所を訪れた。
夏はニナの実家辺境領。
冬は温暖な侯爵領。
それ以外の季節も視察と称してイロイロと。
何せ婚約期間は十年を超える。
愛し愛される婚約者という役どころを『それなりに』楽しんできた。
奇しくもそれはダンス中にニナが想い馳せたことでもあった。
不意にアレクサンダーの瞳から涙が零れた。
初めて見る彼の涙にニナは少なからず動揺する。
「こんなところで簡単にくたばってしまう弱っちい僕のことなんて、早く忘れちゃうといい。……キミのことを一生守ることのできる、この国で一番強い男と一緒になるんだ」
震える声のアレクサンダーが周囲の憐れみを誘った。
こんな傷で死ぬはずないと知っているニナだったが、それでも胸が締め付けられる。
「――天国でサプライズを仕掛けて待っているから楽しみにね? ……あ、だけど、時間をたっぷり使って大掛かりなものを用意するから、こっちにはゆっくり来なきゃダメだよ」
息も絶え絶えなアレクサンダー。
ついに感涙をこぼす令嬢まで現れた。
イロイロと面倒なぐらい完璧すぎる台本だった。
ニナが考えた平民女性作戦にしても恋愛小説を参考にしたものだったが、これも人気の双璧を成す『騎士と王女モノ』を彷彿とさせる。
身を挺して姫を守った騎士の、最期のセリフもかくや。
目には目を。
歯には歯を。
……恋愛小説には恋愛小説を。
わずか数日で組み上げた、とんでもない意趣返し。
ニナは清々しい思いで彼のセリフを右から左へ聞き流していた。
そうこうしている間に、ようやく医務官がホールに飛び込んできた。
終幕は近い。
医務官が診察すれば、早々に死なない傷だと周囲に知られるだろう。
そうすれば感動も半減。
これにしたって、奇しくもニナの作戦と同じ。
この場で一気に仕上げることが大前提の策。
(……はてさて。どう落とすつもりなの、アレク?)
気になるのはその一点だけだった。
アレクサンダーも時を察したのだろう、ニナに微笑みかけた。
「――ねぇ、ニナ。キスしてよ?」
「……ふぇ?」
我ながらマヌケな声が出たとニナが反省する中、アレクサンダーが一気に畳みかけてきた。
「一度もキスを経験することなく死にたくないよ。……だからニナお願い、僕にキスして?」
ニナは我に返り、目の前の彼にだけ分かるように舌打ちする。
これが勝負手とは!
(こ……こんな傷で死ぬ訳ないでしょ! バ……バカなのアンタ?)
ニナは視線で豪快に吐き捨てるも、アレクサンダーはどこ吹く風で彼女を優しく見つめる。
だけど目の奥で思いっきり笑っているのが見えた。
もしここで断ったりしたら。
アレクサンダーのことを愛しており、愛しているあまり精神を病んだという彼女の主張そのものが崩れ去る。
それどころか命の恩人であり婚約者の死の間際の、一度だけでもキスがしたいという健気な願いを袖にしたニナに未来はない。
……有責どころの話で済まない。
アレクサンダーがキスすら経験していない清い身であること。
そして今までどれだけニナを大事にしてきたかを周囲に悟らせるには十分な言葉。
とんでもないカウンターだった。
それでもニナは何とか勝負を続行すべく、取り合えず顔を近づけてみた。
アレクサンダーが動揺してくれないかと僅かでも期待したが、彼は堂々とキス待ち顔をしている。
(チクショウ! ……毒を食らわば皿まで!)
ニナは勢いよく唇を重ねた。
歯がカツンと当たり、少し気まずい空気が二人の間に流れる。
これは仕方ない。
ニナだって初めてのキスなのだ。
きっと百戦錬磨のギャラリー令嬢令息や大人たちからすればカッコ悪いキスに違いない。
だけどニナにとってそんなことなど今更。
この中でも彼女は限界まで頭脳を酷使させていた。
「――何をしている! 離れなさい! 治療が出来ないだろう!」
やがて駆けつけた医務官によって二人の唇は強引に引き離された。
ニナは漠然とだが、ようやく見出した活路を検討もせず実行に移すことにする。
彼女は治療を始めた医務官を思いっきり遠くまで突き飛ばした。
そしてアレクサンダーを抱きしめる。
「アレク! イヤよ、死なないで! わたし、アレク以外の人となんて幸せになれない! あなたが死ぬならわたしも死ぬ! ……わたしを、置いていかないでよぉぉ!!!」
腹の底から全力で叫んだ。
そしてもう一度、噛みつくようにキスする。
ついに根性で涙を絞り出すという荒業も成し遂げた。
「何をする!? ……治療の邪魔をするな!」
令嬢が相手だろうが構わず医務官は怒鳴りつけた。
当たり前だ。
専門家である彼は命に別状ないケガだと見た瞬間に理解した。
さっさと治療して退散したいのが本音だろう。
アレクサンダーはニナの真意を探るような視線で手を伸ばしてきた。
困惑からか指先が震えている。
ケガの程度が分からない周囲からは悲壮感ただよう風に見えているだろう。
二人は指を絡ませ、視線を合わせた。
深く深く合わせた。
……そして意思疎通を図る。
(――ねぇ、モノは相談なのだけれど……時間切れってことにしない?)
年が明ければ卒業。
そして結婚が待っている。
(…………はぁ、……仕方ないか)
アレクサンダーは目の奥に諦めの色を見せながら同意を示した。
ここからもう一戦して有責を勝ち取るには、お互い時間が足りない。
要するに手詰まり。
だが――。
ニナは秘策を見出していた。
(……でも、これでは私のおさまりがつかない! だから……延長戦でカタをつけましょう!)
アレクサンダーと一生涯かけて戦いを続けること。
これこそ、ニナが新たに見出した『勝利』の形。
(なるほど、一旦結婚して、ほとぼりが冷めたら――)
アレクサンダーに理解の光が灯った。
ニナは小さく頷く。
(……離婚ですわ!)
(……離婚だね?)
二人は手を握りしめながら、一心に見つめ合う。
その光景はあまりにも美し過ぎて、王国が誇る絢爛オーギュスト宮ですら霞んだと皆がこの先五十年に渡って証言する程。
(――もちろんアレク、貴方の有責でね!)
(僕の可愛いお猿さん。どうやらジョークセンスは山奥に置き忘れてきちゃったようだね? 財産親権、何から何まで僕が貰うに決まっているだろう? キミは無一文で山にポイだから。……大丈夫、お腹が空けばその辺りの木を蹴って果物を落とせば生きていけるよ。得意でしょ? そういうの)
(……うふふふふ)
(……あはははは)
そしてこのパーティは伝説となった。
二人の結婚の日。
参列者皆が笑顔だった。
良く調べもせず可愛らしい悋気を拗らせ暴走した挙句、ついには心を病みかけた令嬢。
死にもしない軽傷にも関わらず、死ぬ前にキスしたいと懇願した令息。
頭脳も血筋も容姿も国宝級なのに、大好きな婚約者のことになると周囲が見えなくなる、こんなにも抜けていて、だけど愛せずにはいられない可愛い二人のことを皆が全力で祝福する。
……事情を知る一部の者たちもそういうことにして、笑顔の皆と一緒に引き攣った笑みで幕を引きを図ることにした。
この二人が生涯かけて、それこそ子供や孫たちに生温かく見守られながら、長い長いあまりにも長過ぎる延長戦を繰り広げたのは言うまでもない。
次話、ようやく『黒幕』が語ります。




