第7話
あのニナの咆哮には周囲だけでなく、芝居だと分かっているアレクサンダーでさえも震えた。
一日経った今でも思い出せば身体が震える。
恐ろしさ半分、歓喜半分で。
アレクサンダーはその言葉が聞けて満足だった。
きちんと成果が出ていると思った。
……その言葉がたとえ台本通りだったとしても。
「――そう、台本」
リリアがアレクサンダーのことを『アレク様』と呼んだのは、何度思い返してもあの一度きりだった。
彼のことをアレク呼びするのは、婚約者ニナを除けば王太子たった一人。
これにしても、従兄弟という血縁よりも国内安定を図るうえで必要不可欠との政治判断から生まれた一種のアピール。
親友である一門の者たちであっても、当然彼のことは『アレクサンダー様』と呼ぶ。
皆の主君はもちろん王族。
だがクライツ家は彼らにとってそれ以上に重要な存在だったりする。
その背景の中、実質アレクサンダーのことをアレクと呼ぶのはセカイでニナたった一人である。
――これは十年もの年月を経て周知徹底された貴族社会における不文律。
それなのにも関わらず、よりによってあの周囲から一番注目を浴びていた状況で『アレク様』と。
無知な平民だからという言い訳は通用しない。
リリアの真意や二人の関係など別にしても、このことに関しては恐ろしい速さで広まるはず。
瑕疵とまでは呼べないかも知れない。
それでもニナの手札になることは間違いない。
(……つまり、リリアはあちら側ってコトだ)
黒も黒、それも真っ黒。
何から何までニナのお膳立て。
ようやくそこに辿り着いたアレクサンダー。
彼女のことを調べさせたのが、家に帰ってすぐのこと。
そして翌日にはこの報告書が上がってきた。
リリアがファーレン商会会頭の養女なのは事実だった。
ただ内実は想像していたものと全く違っていた。
国内でも新興とされ、ハーミル国の商品を扱うことで頭角を現したとされているこの商会。
かつて幼いアレクサンダーの脛を癒してくれた軟膏も彼らの取り扱う商品だった。
だが王国内で手広く支店を持ち始めた彼らの実情は友好国ハーミルで老舗とされる『とある商会』の下部組織でしかなかった。
その商会の名はデュヴァン商会。
ハーミル貴族デュヴァン伯爵家の家業だ。
かの国の食を支える大穀倉地帯ヴェルネ地方の中でも決して裕福ではない山林部を領しておきながら、代々の商才でもって確固たる財と地位を築いた一族。
そしてリリアはその一門家の血を引く男爵令嬢だった。
なんと、平民ですらなかった。
ファーレン商会会頭の補佐として本国から派遣されたのが彼女だった。
それだけでも驚きだったのに、報告書がデュヴァン商会の現会頭の血縁関係に移ったあたりでアレクサンダーの血の気が引いた。
「……チェスタ家をひっぱり出すのはどうかと思うよ?」
アレクサンダーが思わず泣き言を漏らすのも無理はなかった。
ハーミル王国筆頭公爵家チェスタ。
王家の血も色濃い押しも押されぬ大貴族。
……ニナの亡き母ラウラの実家だ。
デュヴァン家現当主である会頭はラウラの姉である公爵令嬢を妻に貰うことで商会をさらに大きくしていた。
アルヴィナ辺境伯領への進出もその成果のひとつ。
ニナが義伯父である会頭に接触し、おねだりして『平民リリア』を用意させたのは想像に難くない。
つまりリリアはニナによって徹底的な『演技指導』を受けた忠実な駒だった、と。
ニナはついに隣国貴族をも巻き込んで勝負してきた。
なりふり構わないのはアレクサンダーも同じだったが、さすがに他国まで巻き込む気にはなれなかった。
伝手がないといえばそれまでだが、むしろそれも含めてここまで行動に移せるのがニナ。
彼女が今まで隠してきた牙の鋭さを痛感する。
(結局、僕がヘマをした……ということ)
どう考えてもリリアのことを調査しなかったのはアレクサンダーの落ち度。
自分に仕掛けてこないものだから、無理に彼女の素性を暴く必要はないと判断した。
ケネスの初恋の相手を『疑う』ことを本能で忌避したのだ。
そんな彼の無駄な優しさが仇となった。
……生き馬の目を抜く貴族社会において、それを『甘い』と云う。
そしてそんなアレクサンダーの弱さを熟知していたニナは、そこを狙い撃ちしてきた。
あの後ニナは都合よく体調を崩して早退してしまった。
その為、アレクサンダーに周囲の目のある中での弁解の機会は与えられなかった。
彼女が年内最終日を狙ったのもこれが一番の理由だろう。
ニナの考える決戦の日が、オーギュスト宮で行われる年末パーティであることは明らかだった。
貴族たちのひしめく衆人環視の中、彼女は婚約破棄を宣言してくるはず。
そしてそれは十日後に迫っていた。
いくつか挽回の策を用意していた彼だったが、ニナの策謀の全貌が知れた今、一つを除いて全て却下するに至った。
最後の最後に残されたのは、絶対に使いたくなかった『妙手』。
もうそれに頼るしかないのだと認めざるを得なかった。
悔しくて仕方なかった。
何より、これを実行に移すには相当な権力が必要になる。
次期侯爵とはいえ、学生である彼にそれほどの力はない。……ましてや、王宮に次ぐ自国の権威的な場所オーギュスト宮で騒ぎを起こしても不問にしてもらえる力など。
そもそもそんなものを持っている人間など、王家以外では一人しか知らなかった。
その人物にこの話を持っていくのがまた屈辱の上乗せとなる。
それでも、アレクサンダーは絶対に負ける訳にはいかなかった。
その思いが何とか彼の足を前に進ませる。
……母の待つ部屋へと。
「――そんなコト許される訳ないでしょう?」
母ネリーはアレクサンダーの頼みを鼻で嗤った。
だが彼は続ける。
「目的は危害を加えることではありません。そこを舞台にするためです。……安全には留意すると誓います」
目には目を。歯には歯を。
――舞台には舞台を。
そのうえで相手の上に立つ。
これが彼ら二人の戦い方。
視線で続けろと命じる母にアレクサンダーはポツリポツリと計画を話し始めた。
「…………なるほど。……それならば、条件付きで認めなくもありません」
ネリーは眉間に皴を寄せながらも小さく頷いた。
後ろに控えるジェシカが驚きからだろう、小さく身動ぎした。
だがその条件をクリアするのが大変なのだろうと知っている彼は、息を整える。
「その条件とは?」
満を持して問う彼に、母ネリーは真顔のまま端的に伝えた。
「アレクサンダー、貴方の敗北条件をこの場で教えることです」
「――貴方たちがどんな未来を求めてここまで戦ってきたのか、二人の母として知っているつもりです。……ですから私も二人が思う存分戦えるように手助けしてきた訳で」
おそらくニナがここまで彼を追い込むことに成功したのは、母ネリーの助言もあったのだろうとおぼろげながら彼は理解する。
「ニナは『私を義母と呼ぶ未来を勝ち取る』と宣言しました。逆を言えば、彼女の敗北は私を失うことのようです。おのずと彼女の中にある敗北の姿が見えました。……そして私はニナを愛する気持ちを新たにしました」
どうやらニナは相当踏み込んだ発言をしたらしい。
そしてその内容はアレクサンダーにとって少々予想外で。
だけど心の中で、『もしかしたら』と願っていた部分でもあって。
もちろんそこに母ネリーがいるだけで、アレクサンダーの居場所があるかは別問題だが。
……やはり未来は他人に委ねず、自分で勝ち取るしかないと彼は気合を入れ直す。
「私はこの十年間、貴方たちのゲームを特等席で楽しんできました。二人の成婚の日が来年に迫るということは、それも終局も近いでしょう。……この時期に今話した『手』が綺麗にハマれば、貴方は絶対に負けることは無い。……勝つとまでは断言しかねますが」
(……さすが母上、よく見えている)
アレクサンダーは舌を巻く。
「だから、今となっては見ることの無くなった『貴方が敗北したときの未来』を教えなさい。……これが手を貸す条件です。……私はこれからも貴方を愛する息子と思っていてもいいのですか?」
再び押してくる。
ニナの心情を暴露したのは話しやすくする為だろう。
この辺りも上手いと思った。
口ごもる彼に、ネリーは穏やかな表情を見せた。
「ねぇ、アレクサンダー? ……貴方はそれを回避したいが為にこんなバカみたいな手を思いついたのでしょう?」
母ネリーの目に光が灯った。
それはたまにニナが見せる剣呑な光などとは比べようもないほどに鋭い。
「私に頭を下げてまで。世間様に多大な迷惑をかけてまで。……どうしてもそんな未来だけは見たくないからこんなにも無様な、私たちの息子らしくもない、そもそも貴族らしくもない手を選んだのでしょう?」
その目で覗き込まれたアレクサンダーの呼吸が荒くなる。
母は決して声を荒げない。
むしろ平坦な声で、優しい笑みを浮かべたままで、だけど確実に彼を追い込んでいく。
「……自分でもそれが分かっていながら、それでもみっともなく足掻く道を選んだのでしょう? その未来を奪われない為に。奪われてしまうと貴方の人生が終わると、そう思ったから」
ネリーはじっと無言のままアレクサンダーの反応を待った。
彼は落ち着かせるよう数拍間おき、ようやく自身が考える『最悪』を告げる決意をする。
それは今まで直視しないでいようと、心の奥底に封印してきたニナへの『想い』を晒すこと。
彼は今まで厳重に押さえつけてきたそれをポツリポツリと話し始めた。
「――はい、確かに」
母ネリーはそれを聞くと満足そうな笑みを浮かべた。
後ろに控えるジェシカまでもが頬を緩めている。
(……屈辱!)
そんな二人の姿を見て、アレクサンダーはただただ赤面して唇を嚙むことしかできなかった。
「それで、練習はどうするつもりかしら? 本番一発勝負なんて貴方らしくありませんよ?」
これはアレクサンダーの頼みを引き受けることが大前提の質問。
それに関してはすでに彼も考慮済だった。
「まずいくつか心当たりがありますので、それらを別名で買い漁ろうかと。それを使って何度か経験しておこうかなと思っています」
「……練習を含めて実行するのは?」
「出来れば……」
アレクサンダーはすっと母から視線を逸らせて、その後ろに控えているジェシカを見つめる。暗に彼女が欲しいと。
「申し訳ございません。それだけは――」
ネリーの護衛は先王と現王からの王命。
軽々しく離れる訳にいかないとジェシカは断る。
しかし、珍しいことに続いて別の案を提示してきた。
「――ですので、息子をお使い下さい」
その言葉にネリーは当然とばかりに頷く。
「そうね。彼だったら口も堅いし、何より信頼できる」
アレクサンダーはそもそも彼女に息子がいたことを驚いた。
そういった仕事をしているというのも驚きならば、それが実行出来る年齢であることにも。
「……ちなみに幾つですか?」
さすがに幼過ぎるのは困る。
「貴方と同級じゃない。何度もウチに来ているでしょう?」
母の呆れたような声色にアレクサンダーは理解が追い付かず、ただボカンとするだけ。
「……ケネスですよ」
ジェシカが微笑み、少しだけ誇らしげに告げた。
長い沈黙があって――。
「――はあぁッッッ!?」
アレクサンダーの絶叫が部屋内にこだました。
アレクサンダーの思考が彼方へと飛んで行っている間、ネリーはジェシカに告げた。
「――さてオーギュスト宮の二階には貴賓席がありましたね。……そちらを今のうちに押さえてもらえるかしら? それも含めてお兄様にいつもの伝言をお願いするわ。……『例によってウチの子たちが騒ぎを起こすけれど、絶対に過剰な反応を見せないでね。各家にそれとなく通達しておいてね』って」
ネリーの天真爛漫な微笑みはジェシカにとって最高のごちそう。
そのせいで兄君である国王が苦労することになろうが、知ったことではない。
ジェシカはネリーの少女の頃から変わらない愛くるしい微笑みを十分堪能してから姿を消した。
「……最高の終局を見せてくれるのでしょう? ならば最高の席でそれを堪能しなければ。……楽しみにしているわね?」
ネリーはいまだ遠くを見つめている息子の頬にキスをした。




