9話:マドンナのささやき
運命の糸はいつも人知れず結びついていく。
室内を満たす柔らかな間接照明の光が
彼女の麗しい輪郭を優しく浮かび上がらせている。
部屋着として身に纏っているカットソーは
少し首元がゆるく、そこからは華奢で美しい鎖骨が
惜しげもなく覗いていた。風呂上がりの上気した
熱を帯びた白い肌からはふわりと
甘く香ばしいココナッツの匂いが漂い
こちらの理性をじわじわと削り取っていく。
湿り気を残した艶やかな黒髪を手ぐしで払う
その仕草一つをとっても、たまらなく色っぽい。
ソファの上にゆっくりと身を横たえると
柔らかくしなやかな白い太ももと
爪先へと至る滑らかな脚の曲線が
あまりにも無防備に晒された。
その可憐で艶やかな佇まいに
胸を締め付けられながら息を殺して見守る視線の先。スマホを眺める藤咲の整った眉が小さく困惑に歪む。
「あのカフェ、やっぱり藤咲さんと
行きたいんだよね。今週末、時間取れない?」
藤咲のスマホの画面に目を向けると
高木からの一方的なメッセージが並んでいた。
藤咲は返信に頭を悩ませるように溜息をついた。
「高木さん、やっぱり強引で苦手だな……」
画面を伏せると、藤咲はふっと表情を柔らかく
解きほぐし、膝をぎゅっと抱え込むようにして
ソファの上で小さく丸くなる。
「あの時の佐藤さん……
すごく助かっちゃったな」
桜色の小さな唇をほころばせて、上目遣いに
誰もいない空間を見つめながら、ぽつりと
独り言を口ずさむ藤咲。その無防備な笑みに
覗く幼い可愛さと、俺という存在を想って
揺れる愛おしい瞳。時間の経過など忘れて
しまったかのように溢れ出す、藤咲の温かく
純粋な気遣いに触れた瞬間だった。胸の奥で
せき止められていた感情の堤防が
激しい音を立てて決壊した。守りたいという
強烈な庇護欲と、今すぐにでもその柔らかい肌に
触れて抱きしめたいという情動が暴走する。
視界が真っ赤に染まるほどの熱量が全身を
駆け巡り、胸の奥で心臓が暴動を起こしたかのように爆発的な脈動を打ち始めた。
「ブーッ、ブーッ、心拍数が
規定値(120bpm)を超えました。
システムエラー。強制実体化を行います」
翌朝、オフィスはいつも通りの慌ただしい
熱気とキーボードの打鍵音に包まれていた。
己のデスクで画面に向かいながらも
俺の心は昨夜、藤咲が放った言葉の残り香と
目の裏に焼き付いて離れないあの妖艶な姿のせいで
全く落ち着きを保てずにいた。
その時だった。 普段はフロアが違うはずの
藤咲が、書類の束を抱えてドアの向こうから
現れた。周囲の社員と普段通りに挨拶を交わす
藤咲だったが、俺のデスクの脇を
通りかかる瞬間、ふっと歩調を緩めた。
「佐藤さん、おはようございます。
この前はありがとうございました」
周囲に悟られないよう、わずかに身を
かがめてくる。ふわりと鼻腔をくすぐる
甘い香り。耳元に吹きかかるかすかな
温かい吐息に、心臓が跳ね上がる。
「あ、藤咲さん……おはようございます。」
周りの喧騒に紛れさせるような小さな囁き声。
顔を上げると、藤咲は耳たぶまで朱に染めて
悪戯が成功した子供のように心底愛おしい
笑みを浮かべていた。胸が締め付けられるほどの
愛らしさに息を呑む俺を残し、藤咲は
弾むような足取りでフロアを後にした。
大げさな会話も触れ合いもない。けれど
かつてはただの顔見知り程度の同僚だった
はずの俺たちの間に二人だけしか知らない
確かな熱量が生まれ始めている。跳ね上がる
鼓動を抑え込みながら、俺はボソボソと答えた
自分の声に小さな誇りと抑えきれない
愛おしさを宿らせていた。影からの暗躍が
ついに表の世界で小さな絆を結び始めていた。




