8話:マドンナのライバル
運命のギアは
時に望まぬノイズを巻き込んで加速する。
「藤咲さん、次の週末なんだけど。
SNSで話題の駅前に新しくできたカフェ
一緒に行かない?」
昼休みの社員食堂。社内の空気を一変させる
ある男が動き出す。他部署から戻ってきた
営業部の高木だ。佐藤とは真逆の明るく
社交的な性格で、社内の誰もが認める
ハイスペックな同期社員。洗練されたスーツを
身に纏い、完璧なマドンナである藤咲の隣に
立つその姿は客観的に見てもお似合いで
眩しかった。賑わうフロアの片隅で俺は一人
離れた席から、その光景を苦々しく
見つめていた。高木が爽やかな笑顔で
藤咲のテーブルに歩み寄り
当然のように身を乗り出している。
「あ……高木さん、ありがとうございます。
でも、週末は予定があって……」
困惑気味で遠回しに断ろうとする藤咲だが
コミュニケーション能力の化身のような
高木は強引に距離を詰めていく。困り顔を
浮かべながら逃げ場を失っていく藤咲。
胸の奥が焼き尽くされるような焦燥感が
渦巻き、俺は手元のマグカップを
握りしめたまま身動きが取れなかった。
俺には、藤咲を華やかに連れ出す度胸も
立場もない。俺にとって口をつぐむことしか
できない領域へ、何の躊躇もなく踏み込んで
いく高木の姿に、俺の心臓は激しい脅威と
動揺による不協和音を奏でていた。
困惑しながらも押し切られそうになっている
藤咲の姿。二人のやり取りが視界に入るたび
頭の中が真っ白になり、視界がぐらぐらと
揺れる。胸の動悸を抑え込もうと手元の
マグカップを強く握りしめたその刹那
激しい動揺で震える指先から思いがけず
力が抜け落ちた。静かな食堂の一角に
陶器が派手に砕け散る激しい音が響き渡った。
「あ……っ! す、すみません……っ!」
大量の黒い液体と散らばった破片に
食堂中の視線が一瞬でこちらに集中した。
高木が作っていた甘く強引なムードは一瞬で
木っ端微塵に吹き飛ぶ。
「佐藤さん!大丈夫ですか!?」
強引なアプローチから逃れる
絶好の口実を得たかのごとく
藤咲が弾かれたように立ち上がり
高木の手を振り払うようにして
俺のもとへ駆け寄ってきた。
「危ないから動かないでください!
今ふきん持ってきます!」
藤咲は即座に近くの給湯スペースへ走り
布巾とビニール袋を持って戻ってくると
周囲の目を一切気にせず、迷わず床に
膝をついた。自分の洋服が汚れることなど
気にも留めず、床に広がったコーヒーを
真面目な顔で丁寧に手際よく拭う。
俺の粗相に嫌な顔ひとつせず、ただ俺の手元や
足元を心配し、小さな破片まで見落とさぬよう
健気に指を動かす藤咲の姿。その献身的な
優しさと愛らしさが至近距離でふわりと香る
藤咲の可憐な香りとともに胸の奥深くまで
染み渡り、俺の心はたまらないほど
愛おしい感情で満たされた。
高木は気まずそうに苦笑いを浮かべて
その場から逃げるように社員食堂を後にした。
片付けを終え、しゃがみ込んだまま
上目遣いで俺の顔を覗き込んでくる藤咲。
その瞳にはハプニングに対する驚きと
どこか心底、安堵したような色が混ざり合っていた。
懸命に俺を気遣ってくれた藤咲のぬくもりと
みっともないハプニングのおかげで藤咲を
救い出せたという事実に、俺の胸は熱く甘い
高揚感で満たされていく。ボソボソと
お礼を口にして、その場を後にした。
「ありがとうございました、藤咲さん」
俺は意図せずとも、あの強引な誘いから
藤咲を守れた手応えを噛み締めていた。
その静かな喜びの余韻は、そのまま
密やかな期待へと繋がっていく。昼間の
強引な高木とのやり取りや、俺の派手なドジ。
藤咲は今夜、自分の部屋でどんな顔をして
今日のことを思い馳せるのだろう。
胸の鼓動をじんわりと早めながら
俺は藤咲の面影を胸に抱いて、今夜訪れる
潜入の時間を待ち焦がれるのであった。




