5話:マドンナのありがとう
高嶺の花の無防備さ
その威力はもはや兵器の域に達する。
(……あ、危ない……っ!?)
午後一時過ぎの社員食堂。
混雑の引いた空間で俺はいつものように
離れた席から藤咲の姿を密かに見ていた。
普段通りの隙のないスーツ姿で
席を立とうとした藤咲だったが
連日の無理が祟ったのか、一瞬、膝の力を
失ってふらついた。手に持っていたトレーが
大きく傾き、コップや小皿がガタガタと
音を立てて滑り落ちそうになる。
「大丈夫ですか、藤咲さん……っ!?」
考えるより先に体が動いていた。俺は瞬時に
駆け寄り、滑り落ちかけたコップを
ギリギリのところで受け止めた。
不意の出来事に藤咲は目を丸くして
驚いた表情を浮かべた。バランスを崩したこと
それを助けられたことを理解すると
藤咲の真っ白な頬が瞬時にほんのりと朱に染まった。
「なんだか急に立ちくらみがして……。
助けてくれて、ありがとうございます。」
そう言って胸を撫で下ろした藤咲は
いつもの完璧なマドンナとして周囲に見せる
作り笑いではなく、眉を下げた心からの
柔らかい笑顔を浮かべたのだ。目元を
少し細めて白い歯を覗かせるその
屈託のない表情。自分だけに向けられた
ありのままの感謝と笑顔の愛おしさに
俺の胸は激しく打たれ、息が止まりそうになった。
(藤咲が……俺に向かって
あんなに可愛らしく笑うなんて……!!)
高嶺の花が見せた、あまりにも罪深い人間味。
藤咲の感謝の言葉が甘い残響となって
耳から離れず、俺は一人でその笑顔の余韻に
浸っていた。今夜、藤咲は自室で
どんな無防備な姿を見せるのか。
俺の妄想と独占欲は、完全に歯止めが
効かなくなっていた。
(マドンナの本当の笑顔……!!
今夜こそ、藤咲のすべてを
この目に焼き付ける……!!)
そして夜。俺は自室で全裸になり、自作アプリで
全身を透明化させ、ゴミ出しの隙を突いて
藤咲の部屋へ潜入を果たしていた。息を殺して
ソファの裏で静かに待つこと数十秒、藤咲は
ゴミを捨て終えて部屋へ戻り、力なく
壁に背中を預けた。
「今日、昼間倒れそうになっちゃったな……
ほんと危なかったぁ……
助けてもらえてよかった……」
ぽつりと呟いた藤咲は、まとめ髪のゴムを
ゆるりと解いた。ツヤのある黒髪がさらりと
肩から背中へとこぼれ落ち、うなじから
鎖骨にかけての白く艶やかな肌が露わになる。
キャミソールにショートパンツという艶美な
姿へと着替えた藤咲は、そのままソファへ
倒れ込み、抱き枕のようにクッションを
ギュッと抱きしめた。薄手の生地越しに
しなやかなボディラインがはっきりと
浮き出る。うつ伏せになった脚からは
眩しいほどに白い太ももの生々しい肉感が
惜しげもなく晒されていた。
クッションに顔をうずめながら
安堵したように足をパタパタとさせる藤咲。
今日の災難を思い出してホッと息を吐く
無警戒な横顔。会社での洗練された美しさとは
対極にある、家の中だけでしか見せない
圧倒的な無防備さ。さらには、昼間の出来事を
思い出して和んでいる様子と、脳内妄想の暴走
により、俺の理性の防波堤は跡形もなく
吹き飛んだ。勝手に興奮を膨らませた
俺の心臓が、胸腔を突き破らんばかりの
狂暴なリズムで暴走する。
「ブーッ、ブーッ、心拍数が
規定値(120bpm)を超えました。
システムエラー。強制実体化を行います」
(……嘘だろ!? たった一言のつぶやきで
勝手に舞い上がって自爆するとか……
なにやってんだ俺は!!)
手に持ったスマホが強烈に振動し、鮮血の
ごとく赤文字が点滅する。過熱したデバイスの
安全装置が作動し、生々しく赤らんだ肉体が
空気中に浮き彫りになり始めた。
(ヤバい......!! 今ここで実体化したら
助けてくれた同僚から
変態不法侵入者に一発転落だ......!
落ち着け、脳を冷却しろ……!)
当の藤咲はこちらの死闘に気づくこともなく
クッションに頬を寄せながら幸せそうに
目を閉じている。あと数BPM上がれば
全裸の不法侵入者として全てが終わる
絶体絶命の危機。俺は血走る目を天井に向けて
狂ったように脳内暗唱を開始した。
「ベクトルの内積公式!! エーベクトルドット
ビーベクトルは、エーの絶対値かけるビーの
絶対値かけるコサインシータ!! 」
決死の脳内暗唱によって、どうにか興奮を
力ずくで押さえ込むと、激しく波打っていた
鼓動が少しずつ静まり、浮き上がりかけていた
全身の輪郭がギリギリのところで再び
闇の中へと溶け込んでいった。当の藤咲は
こちらの命懸けの死闘など知る由もなく
小さな欠伸を漏らし、クッションを
抱きしめたまま無防備な姿で眠りに
落ちかけている。俺は膝の激しい震えを
抑えながら自室へと命からがら逃げ戻り
全裸で冷たい床にひれ伏した。
今日、食堂で見せてくれたあの柔らかい笑顔と
自室で漏らしたあまりにも無警戒で
愛おしい独白。その健気さに勝手に脳を
焼かれ、結局何も拝めずに自爆した。
己の浅ましい煩悩に打ち勝ち、無防備な姿に
耐えられるようにならない限り
俺が藤咲の特別な存在になれる日は
永遠に来ないのかもしれない。




