4話:マドンナのメガネ
完璧主義者が希に見せる
無防備な姿の破壊力は言うまでもない。
(……ん?泣いているのか……?)
社員食堂の少し離れた席。相変わらず
隙のない美しいシルエットで
スマートにランチを口に運ぶ藤咲を
俺は遠目から食い入るように盗み見ていた。
隙のない完璧なスーツ姿、無駄のない
洗練された立ち振る舞い、周囲の社員たちが
思わず見惚れるような高嶺の花だ。
藤咲はふと箸を置くと、長くて綺麗な指先で
目元を軽く擦り、パチパチと涙目に
なりながら何度か瞬きを繰り返した。
泣いているようにも見えたその姿はどうやら
連日の苛烈なデスクワークによる眼精疲労が
もたらした些細な仕草であった。
眉根を寄せ、困ったように細められた瞳。
会社では絶対に誰にも弱音を吐かない藤咲が
身体の悲鳴に耐えかねて見せた
あまりにも健気で儚い一瞬の隙。
愛おしさで胸がギュッと締め付けられると
同時に、俺の邪悪な欲望が鎌首をもたげた。
あの高嶺の花が見せた微小な身体的アラート。
今夜、藤咲が自室という誰の目も届かない
聖域で、どんな風にその疲れを
解きほぐすのか。俺のよからぬ妄想と
独占欲は、もはや制御不能なまでに
暴走を始めていた。
(マドンナのオフモード......!!
今夜こそ藤咲の素顔を
この目に焼き付けてやる……!!)
そして夜。俺は自室で全裸になり、アプリで
全身を透明化させ、ゴミ出しの隙を突いて
藤咲の部屋へ潜入を果たしていた。
静まり返った部屋の中、ソファの裏で
息を殺して待つこと数十秒。
ゴミを捨て終えた藤咲が部屋へと戻り
重いドアが閉まる音と共に
深く切ない溜め息を吐き出した。
「あー……もう無理、目が開かない……」
呟くなり、藤咲は吸い寄せられるように
洗面所へ向かい、 両目のコンタクトレンズを
手早く外した。そして自室に戻ってきた
藤咲の姿を見た瞬間、俺の思考は完全に
フリーズした。そこにいたのは
会社で全社員を魅了する
凛としたマドンナではなかった。
鼻筋にちょこんと乗せられた、少し度の強い
大きめの黒縁メガネ。ツヤツヤの黒髪は
頭のてっぺんで雑なお団子状にまとめられて
首元やうなじには数本のおくれ毛が色っぽく
垂れている。身にまとっているのは
着古されて生地の伸び切ったオーバーサイズの
Tシャツとゆるゆるの短パン。メガネの
ブリッジを華奢な指で押し上げながら
小さな口を大きく開けて無防備に
欠伸を噛み殺していた。
「ふあぁぅん……」
(ヤバいヤバいヤバい!!
完全オフモードのメガネボサ髪藤咲……!!)
会社での洗練された美しさとは対極にある
家の中だけでしか見せない圧倒的な生活感と
無防備さ。だらしなく胸元が傾いたTシャツの
隙間から覗く、触れずとも伝わる
甘やかな質感の深い谷間。メガネ越しに見える
トロリと熱を帯びて微睡んだ素顔。さらには
短パンの裾から惜しげもなく晒された
吸い付くような柔らかみを帯びた
真っ白な太ももの生々しい肉感に
俺の理性の防波堤は音を立てて決壊した。
全身の血液がマグマのように
激流となって脳裏を駆け巡り、心臓が胸腔を
突き破らんばかりの狂暴なリズムで暴走する。
「ブーッ、ブーッ、心拍数が
規定値(120bpm)を超えました。
システムエラー。強制実体化を行います」
(……嘘だろ!?
メガネかけただけでこれかよ!!)
スマホが破裂する勢いで激しく振動して
血のような赤文字が点滅する。
空気中に俺の全裸の手足が、生々しく
赤らんだ肉体として浮き彫りになり始めた。
(ヤバいヤバいヤバい!! ここで実体化したら
完全に変態メガネフェチ不法侵入者だ!!
落ち着け! 脳を冷やせ!!)
当の藤咲はこちらの死闘に気づくこともなく
無防備にメガネの位置を直しながら
無警戒な体のままソファへ身を投げ出そうと
している。あと数BPM上がれば、全裸の
不法侵入者として社会的抹消が確定する
絶体絶命の危機。俺は血走る目を
必死で天井に向け、狂ったように
脳内暗唱を開始した。
「点と直線の距離の公式!!
ルートエーにじょうプラス
ビーにじょうぶんの、絶対値
エーエックスワンプラス
ビーワイワンプラスシー......!! 」
決死の脳内冷却処理によって、なんとか
心拍数が急速低下。浮き上がりかけていた
全裸の身体がギリギリのところで闇の中へと
溶け込み、間一髪で危機を脱した。 当の藤咲は
何事もなかったかのようにソファで
小さく丸くなり、幸せそうにスマホを
眺めている。俺は膝の震えを抑えながら
自室へと命からがら逃げ戻り、全裸で
冷たい床にひれ伏した。
今日、社員食堂で見せたあの健気で愛おしい
仕草の先にあったのは、世界中で俺しか
知らない藤咲の可愛らしすぎる素顔だった。
なのに俺は、その圧倒的なギャップに
己の煩悩を爆発させ、結局何ひとつ拝むことすら
できずに一人で自爆した。己の浅ましい煩悩と
暴走するこの心拍数センサーに打ち勝たない
限り、俺が藤咲の本当の美しさを拝める日は
一生来ないのかもしれない。




