11話:マドンナと約束
小さな変化の積み重ねが
日常の景色を緩やかに塗り替えていく。
オフィスでの俺と藤咲の距離感は少しずつ
確実に自然なものへと変わり始めていた。
かつては挨拶を交わす程度だった他人行儀な
関係から、今では簡単な雑談を交わせるくらいの
距離感へと成長した。ほんの少し前までの
分厚い透明な壁を思えば、それは俺にとって
奇跡以外の何物でもなかった。
生身の俺として彼女と向き合っている時
どれほど胸の奥で心拍数が跳ね上がろうとも
透明化が解除されて不審な姿が露呈するような
システムエラーは起きない。だからこそ俺は
バレる恐怖に怯えることなく、目の前で微笑む藤咲の愛おしい姿を余すことなく視界に収めることが
できる。すれ違うたびにふわりと漂う
甘く柔らかな香り、仕事の進捗を報告しながら
小さく首をかしげる愛くるしい仕草、俺の言葉に
目を細めて和らぐ可憐な笑顔。その一つ一つが生身の俺の五感を情けなく刺激して胸の奥をキュッと
甘く締め付けていく。
どれほど会話が増えたと言っても、俺たちの
関係はあくまで話しやすい同僚という透明な
枠組みを一歩も出ない。高木のように躊躇なく
プライベートへズカズカと踏み込んでいく
図々しい度胸もなければ、藤咲の悩みの深層に
寄り添えるほどの特別な立場でもないのだ。
デスク越しに藤咲がふと見せる仕事上の疲れや
溜息交じりの困惑に気づいたとしても
生身の頼りない俺にできることといえば
害のない言葉で気遣うことくらいだ。
根本的な問題を裏から解決するには
透明化して影から手を回すしかない自分に
一人の男として彼女の隣に並び立つにはまだ
あまりにも遠い距離だと、静かで苦い
もどかしさを募らせていた。
そんな日の終業間際、フロアの明かりが
ぽつぽつと消え始め、静まり返ったオフィスの影で
残業をしていた俺のもとへ、藤咲が
どこか躊躇いがちな足取りで歩み寄ってきた。
普段のオフィスモードとはどこか違う不安と
緊張を孕んだ小さな足音。俺は書類を整理
していた手を止めて顔を上げるとそこには
自分のデスクの前で両手をギュッと握りしめて
上気した頬で俺を見つめる藤咲の姿があった。
夕闇が差し込む窓を背にして立つ彼女の
シルエットは儚く、守ってあげたいと思わせる
無防備な愛おしさに満ちあふれている。
「あの、佐藤さん……
今、少しだけお時間大丈夫ですか?」
「え、あ、はい。僕で良ければ
どうしました?」
意識して声のトーンを落ち着かせたつもり
だったが、喉の奥がカラカラに渇いていくのを
感じる。藤咲はぽてっとした唇をほんの少し
噛み締め、視線を泳がせながらも、意を決したように俺の瞳をまっすぐに見つめ返してきた。
「その……実は、少し仕事の相談が
ありまして……もし良ければ、今週末
どこか落ち着けるカフェで話を
聞いていただくことってできますか?」
上目遣いで少し申し訳なさそうに
でもどこか真剣な瞳で俺を見つめてくる藤咲。
薄桃色の唇から紡がれた言葉が脳内に届いた
瞬間、俺の思考は真っ白にフリーズした。
他の社員には見せない隙と信頼を俺だけに
向け、俺だけに助けを求めてくれている。
不意打ちすぎる二人きりの誘いに、胸の奥で
心臓が暴動を起こしたかのようにうるさく
鐘を鳴らし始めた。全身の血流が激しく逆流して
体温が一気に跳ね上がる。生身の身体で
良かったと心底安堵するほど、俺の情けない
鼓動は限界突破のスピードで脈打っていた。
だが、ここで動揺を露骨に出して藤咲を
困惑させるわけにはいかない。俺は必死に
表情筋を固定し、深呼吸を押し殺しながら
できる限り優しく包み込むような
笑みを浮かべて大きく頷いた。
「もちろんです。
僕なんかで力になれるなら......」
「本当ですか……! 良かった……
佐藤さんに断られたらどうしようって
すごく緊張しちゃってました」
俺の返答を聞いた瞬間、藤咲の表情が一気に
華やぎ、胸の前でキュッと手を合わせて
ほっとしたような満面の笑みを咲かせた。
そのあまりの愛らしさと無防備な破壊力に
俺の理性は吹き飛びそうになる。思わぬ形で
決まった、休日での二人きりの約束。
同僚としての仕事の相談という名目とはいえ
プライベートな時間で会う約束を取り付けた
未知の高揚感と、影の存在ではなく
表の人間として彼女と正面から
向き合わなければならない猛烈な緊張感が
俺の胸を激しく、どこまでも甘く揺さぶっていた。




