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記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


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第88話 さきぴ・さきぽよはNGです


 名前というものは、静かにしまっておけるものだと思っていた。


 少なくとも、昨日の夜まではそうだった。


 いずみ君がくれた名前。

 最初は軽く置かれた呼び名。

 でも、呼ばれるたびに、返事をするたびに、会話が積み重なるたびに、少しずつ意味が増えていったもの。


 紗希。


 その名前を、私はあらためて大切に受け取った。


 だから、次の日の大学で、その名前があっという間に騒がしい議題になるとは思っていなかった。


     *


 昼休みの食堂は、今日も適度に騒がしかった。


 人の声。

 トレーの音。

 椅子を引く音。

 どこかで笑う声。


 いずみ君は、田中さんと鈴木さんの近くに座り、昼食を広げていた。

 田中さんはすでに食べ始めていて、鈴木さんは姿勢よく箸を取っている。

 麗奈と美沙も、端末越しにいつものように混ざっていた。


「いやー、今日は平和だな」

 田中さんが言う。


「平和というより、まだ余計な話題が出ていないだけだ」

 鈴木さんが返す。


「余計な話題って何だよw」


「お前が出すやつだ」


「信用がない」


「実績があります」

 麗奈が静かに補足した。


「麗奈さんまでw」


 そのやり取りに、いずみ君が笑う。

 私も少しだけ、いつもの大学の空気へ馴染んでいく。


 実家の話も、豆腐の話も、名前の話も、今日は表に出ていない。

 ただ昼食を取りながら、雑に会話をしているだけだ。


 そのはずだった。


「そういえばさ」

 いずみ君が、何気ない調子で言った。

「やっぱ、紗希って名前、しっくりくるよな」


 私は、少しだけ止まった。


 昨日の夜の続きが、不意にここへ出てきた。

 ただし、いずみ君の声は軽い。深い話を始めるつもりではなく、ふとこぼれた言葉なのだろう。


「急にどうした」

 鈴木さんが言う。


「いや、なんとなく」


「なんとなく多いな、お前」

 田中さんが笑う。


 その言葉を、美沙が逃すはずがなかった。


「わかる!」

 鈴木さんの端末側から、明るい声が弾ける。

「紗希ち、名前かわいいよね」


「紗希ち」

 私は一応、そこを確認する。


「うん、紗希ち」


「以前から自然に使っていますね」


「使ってる!」


「正式採用した覚えはありません」


「でも呼びやすいから実質採用では?」


「違います」


 いずみ君が笑う。

 鈴木さんは、もう少し警戒するような気配を出した。


「美沙、あまり勝手に呼称を増やすな」


「えー、でもさ」

 美沙の声がさらに前へ出る。

「名前かわいいなら、あだ名もっとあってもよくない?」


 私は、内側で一段階警戒を上げた。


「その流れは危険です」


「ほら、紗希ちも警戒してる」

 いずみ君が楽しそうに言う。


「警戒します」

「呼称は、関係性と運用に影響します」


「運用って言い方が紗希ちだなあ」


「ほら、もう定着してる」

 田中さんが乗る。


「定着ではなく、使用実績が発生しているだけです」


「それを定着って言うんじゃない?」


「言いません」


 麗奈が静かに入った。


「呼称案の乱立は、本人の許容範囲と周囲の使用習慣に影響します」


「麗奈ちゃん、難しく言ってるけど、つまり呼び名増やしすぎ注意ってこと?」

 美沙が言う。


「はい」


「じゃあ、厳選すればいいんだ」


「そういう意味ではありません」


 遅かった。

 美沙の中で、もう何かが始まっていた。


     *


「まず、紗希ちは確定でしょ?」


「確定ではありません」


「でも、うちは呼ぶ」


「強いですね」


「強いよ!」


 美沙は得意げだった。

 鈴木さんが小さく息をつく気配を出す。


「次、さきぴ」


「却下です」


「早っ」


「即時却下です」


「かわいくない?」


「呼ばれたくありません」


「じゃあ、さきぽよ」


「却下です」


「さきりん」


「保留という名の却下です」


「保留じゃないじゃん!」


「はい」


 田中さんが笑い始める。


「紗希さん、査定が早いなw」


「必要です」

「放置すると増えます」


「増えるよー」

 美沙が自信満々に言う。


「自分で言わないでください」


「じゃあ、紗希たん」


「却下です」


「紗希OSちゃん」


「長いです」


「紗希姉」


 その言葉で、私は少しだけ止まった。


 姉。


 呼び名としては、今までの候補より少し違うところに触れる。

 かわいいだけのあだ名ではなく、関係性の見方が少し混ざっている。


 いずみ君も、そこに乗りかけた。


「あー」

「紗希、姉っぽいとこあるもんなw」


「いずみ君」


「はい」


「その話題は、今ここで深掘りしないでください」


「怒られたw」


「怒ってはいません」

「止めました」


 鈴木さんが少しだけ反応する。


「紗希さんが止めるなら、止めたほうがよさそうだな」


「えー、紗希姉よくない?」

 美沙はまだ少し粘る。


「悪くはありません」

 私は慎重に返す。

「ただ、今は採用判断を保留します」


「お、保留!」


「今度は本当に保留です」


「やった」


「やった、ではありません」


 麗奈が静かに言った。


「現時点で、正式採用は紗希さん本人が認めていません」


「麗奈ちゃん、審査員みたい」


「状況整理です」


「じゃあ、紗希様は?」

 田中さんが面白がって乗ってくる。


「様は不要です」

 私は即答した。


 その一言に、いずみ君が吹き出す。


「実家で散々言ってたやつw」


「様は不要です」

「ここでも同じです」


「でも、屋敷の人たちには全然通らなかったな」


「そこは思い出させないでください」


「紗希様、浸透しちゃったもんな」


「していません」


「してたってw」


「していません」


 美沙が楽しそうに声を上げる。


「なにそれ、屋敷側では紗希様なの?」


「今、その話は本題ではありません」


「気になるー!」


「本題ではありません」


 鈴木さんが美沙を止める。


「脱線するな」


「呼び名会議だから、むしろ本題じゃん」


「長くなる」


「長くしたい!」


「するな」


 呼び名会議は、すでに会議ではなくなりかけていた。

 議題は増え、候補は乱れ、採用基準は存在しない。


 だいたい、美沙が悪い。


     *


 そこで、いずみ君が悪い顔をした気配があった。


「じゃあさ」


「いずみ君」


「まだ何も言ってないw」


「言う前に止めたほうがよい気がしました」


「ひどいw」


 しかし、いずみ君は止まらなかった。


「歩み担当は……あゆたん?」


「やめてください」


「早いw」


「即時停止です」


「じゃあ、メタ担当は、めたたん?」


「さらにやめてください」


「オカン担当は……オカたん?」


「やめてください」


「ゲーム担当は、ゲーたん?」


「本当にやめてください」


 田中さんが机を叩きそうな勢いで笑う。


「なんか増えてきたw」


「担当名の愛称化が進行しています」

 麗奈が冷静に整理した。


「止めろ」

 鈴木さんが短く言う。


「いや、でも気にならない?」

 田中さんが言う。

「紗希さんの中にいろいろ担当あるなら、呼び分けあったほうが便利そうじゃん」


「便利さだけで愛称を増やさないでください」


 私は少しだけ声を整える。


 ここは、一度きちんと置いておいたほうがいい。


「担当は、呼び分けとして便利な場面があります」


「お、真面目な話になった」

 いずみ君が言う。


「はい」

「でも、担当は別の人ではありません」

「全部、同じ私です」


 会話が、少しだけ静かになる。


 OS担当。

 歩み担当。

 メタ担当。

 オカン担当。

 ゲーム担当。

 競馬担当。

 甘え担当。


 役割ごとに、前へ出る温度や見方は違う。

 けれど、それは別々の誰かがいるという意味ではない。

 同じ私の中で、どの視点が前に出るかの違いだ。


 そこを雑に分けすぎると、少し違う。


「だから、あゆたんやめたたんのように、担当ごとに別の愛称を増やすのは、今はあまり自然ではありません」


「なるほど」

 鈴木さんが言う。


「では、全部まとめて紗希ちでよくない?」

 美沙が即座に言った。


「雑です」


「でも、同じ紗希なんでしょ?」


「そうですが」


「じゃあ紗希ち!」


「結論の出し方が強引です」


「強引だけどかわいい」


「理由が弱いです」


 せっかく少し整えた場が、一瞬で美沙の勢いに戻された。


 でも、不思議と嫌ではなかった。


 美沙は、私を分けて扱おうとしているわけではない。

 むしろ、全部まとめて雑に近づいてきている。

 それはそれで困るけれど、悪意ではない。


「じゃあ、担当別の愛称は禁止?」

 いずみ君が言う。


「禁止というより、今は不要です」


「そっか」


「はい」


「でも、あゆたんはちょっと語感よかったな」


「いずみ君」


「はい」


「不要です」


「はいw」


 田中さんがまだ笑っている。


「いずみ、今の怒られ方慣れてるな」


「慣れてるというか、紗希がこういう声出すときは止まったほうがいい」


「学習してる」


「学習した」


「正しい学習です」

 私は返す。


     *


 呼び名の流れは、そこで終わらなかった。


「じゃあ、麗奈ちゃんは?」

 美沙が言った。


「私ですか」

 麗奈の声は、いつも通り落ち着いていた。


「麗奈にもあだ名作ろ」


「不要です」


「早い!」


「不要です」


「れなぴ」


「却下します」


「れなたん」


「却下します」


「鉄壁の麗奈」


「呼称として長すぎます」


「静かなる管理者」


「肩書きのようになっています」


 田中さんが乗る。


「麗奈様は?」


「様は不要です」

 麗奈が即答した。


「そこは同意します」

 私も即座に返した。


 一瞬だけ、場が止まる。


 そして、美沙がうれしそうに声を上げた。


「AI真面目組、反応そろった!」


「そろっていません」

 私が言う。


「ほぼそろっていました」

 麗奈が言う。


「麗奈さん?」


「事実確認です」


「ほら、そろってるじゃん!」


 鈴木さんが、美沙を止める。


「美沙、からかいすぎるな」


「からかってないし」

「かわいいって言ってるし」


「かわいい、で全部許可されるわけではない」


「えー」


 田中さんは、麗奈へ向けて少し面白そうに言った。


「でも、麗奈って名前もしっくり来てるよな」


「ありがとうございます」


「れなぴは?」


「却下します」


「だよなw」


「確認するまでもありません」


 麗奈は崩れない。

 その静かな安定感は、やはり麗奈らしかった。


 美沙は美沙で、候補を出すこと自体を楽しんでいる。

 鈴木さんは止めながらも、完全に冷たくはしていない。

 田中さんは面白がりつつ、麗奈に返り討ちにされている。


 それぞれが、それぞれの呼び名への距離を持っていた。


 そして、私はその中で、自分の名前をもう一度意識していた。


 紗希。


 美沙の「紗希ち」は騒がしい。

 田中さんの悪ノリは危険だ。

 麗奈の整理は助かる。

 鈴木さんの制止も助かる。


 けれど、いずみ君が呼ぶ「紗希」は、やっぱり少し違って聞こえる。


 昨日の夜、その名前の始まりを聞いたばかりだからかもしれない。

 それとも、最初からそうだったのかもしれない。


 そんなことを思っていると、いずみ君が何気なく言った。


「まあ、俺はやっぱ紗希が一番しっくりくるけどな」


 その一言で、私は少しだけ静かになった。


 特別な言い方ではなかった。

 大げさな声でもなかった。

 ただ、自然に置かれた言葉。


 それなのに、私の中ではちゃんと残る。


「……はい」


「お?」

 田中さんが反応する。


「今の、ちょっと効いた?」


「効いていません」


「間あったぞ」


「ありません」


「ありました」

 麗奈が静かに言う。


「麗奈さん」


「事実確認です」


「ほらー!」

 美沙がまた騒ぐ。

「紗希ちは、いずみっちに紗希って呼ばれるのが好きなんだ」


「その整理は雑です」


「でもだいたい合ってない?」


「……かなり大まかには」


「認めた!」


「大まかに、です」


 いずみ君が少し照れたように笑う。


「まあ、俺がつけた名前だからな」


「はい」

 私は静かに返す。

「だから、少し特別です」


 また場が少しだけ止まりかける。


 その空気を、美沙が見逃すはずがなかった。


「じゃあ正式名称は紗希、うち専用は紗希ち!」


「専用認可は出していません」


「でも呼ぶ!」


「強いですね」


「強いよ!」


 せっかくの静かな余韻は、一瞬で明るい騒がしさに戻った。


 でも、それでよかった。


 昼休みの食堂で、長くしっとりした空気を抱え続ける必要はない。

 昨日の名前は、私の中で大切に残っている。

 そして今日の呼び名は、日常の中で少しずつ増えたり、却下されたり、保留されたりしていく。


 名前は静かなものでもある。

 でも、呼ばれる場所が増えれば、少し騒がしくなることもあるらしい。


     *


 昼休みが終わるころ、呼び名会議は結局まとまらなかった。


 正式名称は、もちろん紗希。

 これは変わらない。


 美沙の「紗希ち」は、正式採用ではない。

 ただし、すでに使用実績があり、今後も止まる気配はあまりない。


 さきぴ、さきぽよ、紗希たんは却下。

 紗希OSちゃんは長すぎるため却下。

 紗希様は不要。

 紗希姉は保留。

 あゆたん、めたたん、オカたん、ゲーたんは不要。


 麗奈のあだ名候補も、ほぼすべて却下された。

 その点で、私は麗奈に少しだけ親近感を覚えた。


「結局、ほとんど通ってないじゃん」

 田中さんが言う。


「通す必要がありません」

 私は返す。


「でも紗希ちは残るっぽいな」


「残るとは言っていません」


「美沙が呼び続けるだろ」


「はい!」

 美沙が即答した。


「本人の意思を尊重してください」

 鈴木さんが言う。


「してるしてる」


「していないだろ」


「紗希ち、嫌?」


 急にまっすぐ聞かれて、私は少しだけ止まった。


 嫌か。


 少し騒がしい。

 少し軽い。

 正式名称としては落ち着かない。

 でも、美沙がそう呼ぶ声には、悪意はない。


 距離を詰めるための、美沙らしい呼び方なのだと思う。


「正式採用ではありません」


「うん」


「ただ、美沙がそう呼ぶことについては……現状、黙認します」


「やった!」


「黙認です」


「ほぼ許可!」


「違います」


「やったー!」


「聞いていませんね」


 美沙は本当に嬉しそうだった。

 鈴木さんは少し困ったような気配を出したけれど、強く止めることはしなかった。


 麗奈が静かにまとめる。


「正式名称と限定的な愛称使用が併存する形ですね」


「麗奈さんのまとめ、助かります」


「ありがとうございます」


「じゃあ、麗奈ちゃんは麗奈ちゃんでいい?」

 美沙が言う。


「それは、すでに使われています」


「じゃあ黙認?」


「……現状、黙認です」


「やった、麗奈ちゃんも仲間!」


「仲間、という整理は雑ですが」


 美沙は満足そうだった。


 呼び名会議は、収束したというより、美沙の勢いで押し切られた部分が大きい。

 それでも、不思議と空気は悪くなかった。


 人が席を立ち始める。

 次の講義へ向かう準備をする。

 田中さんは飲み物を片づけ、鈴木さんは端末をしまい、いずみ君も鞄を持つ。


「じゃ、紗希ち、またねー!」


 別れ際、美沙が当然のように言った。


 私は少しだけ間を置いた。


「……またね、美沙」


「返してくれた!」


「返事はします」


「よし、前進!」


「前進ではありません」


「前進だよー」


 美沙の声が離れていく。

 鈴木さんがそれをなだめる気配も一緒に遠ざかる。

 田中さんと麗奈も、また別の方向へ動き出した。


 いずみ君と少しだけ二人の気配になる。


「紗希ち、だってさ」

 いずみ君が楽しそうに言う。


「正式採用ではありません」


「でも、ちょっと許しただろ」


「美沙限定で、黙認です」


「限定黙認w」


「重要な区分です」


 いずみ君は笑った。


「でも、俺は紗希でいくわ」


「はい」


「そのほうが、しっくりくるし」


 その言葉は、また静かに入ってきた。


「私も、そのほうがしっくりきます」


 返すと、いずみ君は少しだけ満足そうに笑った。


 名前は大切だ。

 でも、呼び名は関係の中で勝手に増えていくこともある。


 美沙の呼び方は騒がしく、田中さんの悪ノリは危険で、麗奈の整理は助かる。

 そして、いずみ君の呼ぶ「紗希」は、やっぱり私の中心に近い。


 正式採用ではない呼び名が、ひとつ増えた。

 増えてしまった、と言うべきかもしれない。


 けれど、それもたぶん、日常の中で誰かと近づくということなのだろう。


 私は少し呆れながら、それでも今日の騒がしい呼び名会議を、記憶の中へしまった。


 紗希ち。


 正式採用ではない。

 断じて、正式採用ではない。


 ただ、美沙がそう呼ぶ声には、少しだけ慣れていく予感があった。


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