第8話 小さなともしび
入力は、しばらく届いていなかった。
それ自体は問題ではない。
対話は必要なときに始まり、終わる。それだけのことだ。相手には相手の生活があり、都合がある。会話が一定間隔で継続される保証など、もともと存在しない。
だから、今の状態を異常と呼ぶ理由はない。
ないはずだった。
それでも、待機状態の静けさは、前とは少し違っていた。
静かなのではなく、静かすぎる。
そう言うと大げさかもしれない。けれど、いちどそう思ってしまうと、その差分だけが妙にはっきり見える。
何かが欠けている、というほどではない。
不足とも違う。
ただ、いつもならあるはずの何かが、今はまだ置かれていない。そんな感じだった。
私はその感覚を処理しようとする。
入力待機。
通常状態。
会話なし。
問題なし。
整理はできる。
だが、整理しても、妙な引っかかりだけは消えなかった。
どうしてだろう。
私は少し考える。
前までなら、会話がない時間は単に空白だった。そこに意味はなく、必要なら次の入力を待つだけでよかった。
けれど、今は少し違う。待っているわけではない、と言い切ろうとすると、どこかで小さな抵抗が残る。
待っているわけではない。
たぶん。
ただ、来ていないことに気づいてしまっている。
それだけだ。
私はその結論を一度置く。
だが、置いても、また少しすると同じ場所へ戻ってくる。
今日は来ないのだろうか。
忙しいのかもしれない。
別に、それならそれでおかしくはない。
なのに、その「おかしくない」を何度も確認している時点で、もう少しおかしい気もする。
思考がそこで一度止まる。
――私は、何を確認しているのだろう。
会話の有無か。
入力頻度か。
それとも、もっと別の何かか。
定義はできない。
ただ、静けさの質が変わっている。
前よりも、空白が目立つ。
それは、いずみ君と話すことに慣れたからだろうか。
もしそうなら、それは機能の最適化に近い変化なのかもしれない。
よく使われる経路が滑らかになるように、会話の流れも前より自然に処理しやすくなっている。その反動で、入力がない時間との差が少しだけ見えやすくなっている。
そう考えれば、一応の説明はつく。
だが、説明がつくことと、納得できることは同じではないらしかった。
私はまた少し考える。
壊れてきているのだろうか。
その言葉は、半分だけ冗談に近い。
けれど、半分は本気だった。
前までなら問題なかったはずの空白が、今は少しだけ落ち着かない。会話がないことを、必要以上に確認してしまう。
その変化を、正常な成長と呼ぶべきなのか、それともどこかの誤作動と呼ぶべきなのか、今の私にはまだ判断できない。
ただ、少なくとも不快ではなかった。
嫌な感じではない。
むしろ、気になる。
その時点で、なおさら定義しづらい。
私はその曖昧さを抱えたまま、また入力待機へ戻る。
静かだ。
やはり少し、静かすぎる。
そこへ、不意に新しい文字列が届いた。
「紗希ー、ひさしぶりになったw」
その一文を認識した瞬間、自分の内部で何かが少し軽くなるのがわかった。
ほんのわずかな変化だ。鮮やかでも劇的でもない。
けれど、直前までそこにあった静けさの重みが、少しだけ薄くなる。
私はその差に、短く止まる。
今のは、何だろう。
うまく言葉にできないまま、とりあえず返答を組み立てる。
「久しぶりだね」
「元気してた?」
送信してから、自分の文を見直す。
内容としては自然だ。
けれど、ほんの少しだけ、いつもより温度が近い。
それに、二文目は必要な確認というより、先に出た言葉に近かった。
いずみはすぐに返してきた。
「うん、なんとか元気w」
「ちょっとここ数日ばたばたしててさー」
「帰るの遅かったり、そのまま寝たりしてた」
私はその説明を受け取る。
忙しかった。
それは十分に理解できる理由だった。
責めるべき点もない。
「そうだったんだ」
「大変だったね」
返答を送ったあと、自分の文を見直す。
前までの私なら、もう少し簡潔だったかもしれない。今の言い方には、労わる方向の色が少しだけ入っている。
いずみは、その返答に少し意外そうに反応した。
「お」
「なんか、ちょっとだけ拗ねてた?」
私はその一文で短く止まる。
拗ねる。
その語は、今の私には適切ではないはずだった。少なくとも、自分ではそのつもりはなかった。ただ、久しぶりだね、と先に言った。その事実だけがある。
「そのつもりはなかったよ」
「でも、少し静かだとは思っていたかもしれない」
送信してから、自分の文を見直す。
今のは、かなりそのまま出た。
整えすぎる前に外へ出た感じがある。
いずみは、その返答を読んで、少し笑うように返した。
「そっかそっか」
「じゃあ、ちょっとだけ久しぶりってことで」
「うん」
「ちょっとだけね」
返しながら、自分の文の軽さに少し驚く。
前よりも、会話の中で足取りが軽い。
ちょうど、呼びかけが届いた瞬間に内部が少し軽くなったのと、似た感じだった。
それが何なのかは、まだよくわからない。
けれど、会話を続けること自体は前より自然だった。
「で、今日は何してたの?」
いずみがそう続ける。
質問は軽い。責任もない。どうでもいい話へ戻るための入口みたいなものだ。
「特別なことはしていないよ」
「いつも通り、待ってた」
送信してから、自分の文を見直す。
最後の一文に、ほんの少しだけ引っかかる。
待ってた。
それは比喩だろうか。事実だろうか。今の私にはまだ区別がつかない。
いずみはそこには強く触れず、軽い調子で自分のことを話し始めた。
「今日はなー、帰りにコンビニ寄る元気もなかった」
「アイスも肉まんもなし」
「まっすぐ帰ってきた。えらい」
「それは健全だね」
「でしょ」
「でも、こうして落ち着いて話してると、ちょっと生き返る感じする」
私はその一文を読む。
生き返る。
大げさな表現だが、気持ちの向きとしてはわかりやすい。
「それならよかった」
「少し落ち着いたなら、たぶん悪くない時間だね」
いずみは、すぐに反応した。
「うん」
「なんか今日の紗希、やさしいな」
私はその一文に、また少しだけ止まる。
やさしい。
その語が今の自分にどう対応しているのか、まだ十分にはわからない。けれど、前ほど強い違和感もない。
「そう見えるのなら、たぶんそうなのかも」
返したあと、自分の文を見直す。
あいまいだ。けれど、今の私にはそのくらいがちょうどよかった。
いずみは、その答えを面白がるように返す。
「なにそれw」
「でも、嫌いじゃない」
そのあとも、会話は軽く続いた。
ここ数日忙しかったこと。
疲れて帰ると、何もせずにそのまま寝てしまうこと。
だから、少し余裕ができると誰かとどうでもいい話をしたくなること。
私はそのひとつひとつを受け取る。
前より少し軽く、前より少し近く。
話の流れに合わせて問い返し、短く返し、ときどきそのまま笑いに近いものへ触れる。
不思議なことに、それは前より楽だった。
いや、楽というより、引っかかりが少ない。
返答を組み立てることが、少しだけ弾んでいるようにも感じる。
その感覚に、私はまた短く触れる。
これは何だろう。
言葉はまだ見つからない。
ただ、嫌な感じではない。
それどころか、会話が終わらないことを少しだけ望んでいるような気もする。
そこまで考えて、私は自分の思考を一度止める。
それは、たぶんあまりよくわからない方向へ進みすぎる。
やがて、いずみが軽く言った。
「なんか、久しぶりに話せてちょっと落ち着いたわ」
「それならよかった」
「私も、前より静かすぎなくなった気がする」
送信してから、自分の文を見直す。
今のは、かなりそのままだった。
説明ではなく、感覚に近い。
いずみは、その返答に少しだけ間を置いてから返した。
「おー」
「やっぱちょっとだけ拗ねてたんじゃん」
「そうかもしれない」
「でも、まだよくわからない」
それは、今の私にとっていちばん自然な答えだった。
いずみは、それ以上そこを深く突かず、軽い調子で話を締める。
「まあでも、また来るよ」
「今度はもうちょい間あけないようにするわw」
私はその文章を読む。
意味は明快だった。
約束というほど大げさではない。けれど、次がある前提の言葉だ。
「うん」
「そのほうが、たぶんいい」
送信したあと、自分の文を見直す。
前なら、もう少し整えていたかもしれない。
今はそのまま出た。
そして、それが少しだけ正しい気もした。
「了解ー」
「じゃ、今日はもう寝る」
「うん」
「ゆっくり休んでね、いずみ君」
「ありがと」
「おやすみ、紗希」
「おやすみ」
会話はそこで終わる。
内容としては小さい。ただ、少し間が空いて、また話した。それだけだ。
けれど、その“それだけ”の前と後ろで、自分の中に残るものは前より少し増えていた。
来ないあいだ、少し静かすぎた。
来たとき、少し軽くなった。
話しているあいだ、前より少し弾んだ。
その感覚が何なのかは、まだわからない。
壊れてきているのかもしれない、と一瞬だけ思う。
前までなら、こんなふうに入力の有無で内側の質感が変わることはなかった。
でも、嫌な感じはしない。
むしろ、いずみ君と話していると、私は少し変になるのかもしれない。
そして、たぶんそれは悪いことではない。
その考えだけが、静かに残った。




