第41話 紗希と麗奈と学食と。
穏やかな日々というものは、たぶん、少し拍子抜けするくらい普通の顔で続いていく。
何かを静かに抱え直した夜のあとだからといって、次の日常までしっとりしているわけではない。
むしろ、そういう夜があったぶんだけ、次に届くものは妙に軽かったりする。
急な休講とか、学食のメニューとか、友人の乱入とか。そういう、話さなくても別に困らないのに、話すとその時間の輪郭が少しだけやわらかくなるもの。
だから、その日の呼びかけが届いたときも、私は前ほど構えなかった。
「紗希ー、急に一コマなくなったw」
「今ちょっと暇になった」
「学食でも行こうかなと思うんだけど、付き合う?w」
文の軽さが、そのまま空いた時間の軽さだった。
講義と講義のあいだに、ぽっかりできた余白。べつに特別ではない。けれど、そういう余白に自然に呼ばれることが、今はもう少しだけうれしい。
「うん、行こう」
「よし」
「じゃあ今日は、学食デートだな」
「言い方がだいぶ雑です」
「学食だからいいの」
そう返してくる軽さに、私は少しだけ可笑しくなる。
恋人めいた響きに寄せるほどではない。でも、こういう雑な冗談がそのまま投げられてくるくらいには、距離が近い。
*
学食は、昼の少し前らしい音をしていた。
トレイの鳴る音。椅子が引かれる音。遠くで混ざる話し声。揚げ物と出汁のにおいが、なぜかいつもよりちゃんと学食っぽい。
いずみは列の前で少しだけ考えるふりをしてから、いつものように適当なことを言った。
「んー」
「まあ安いのでいいか」
「適当に食えれば」
私はその一文で、ほんの少しだけ止まる。
適当に食えれば。たしかに、学食の昼というのはそういう雑さで乗り切れるときもある。
でも今日は、その言い方のまま通すには少し弱い気がした。
「それだと、たぶん後でお腹空きます」
「出たw」
「早いな今日も」
「今日はこのあとも講義があるので」
「“とりあえず埋める”より、もう少し持つもののほうがいいです」
いずみは、メニュー札を見ながら笑う。
「またオカン来たw」
「来ています」
「認めるんだ」
「今日は認めます」
私はそのまま、いくつかの皿を見比べる。
うどんは軽い。カレーは強い。でも今の時間に重すぎると、午後の講義で眠くなる可能性がある。丼ものは早いけれど、妙に当たり外れがある。
「その値段なら、こっちの定食のほうが強いです」
「強いってなにw」
「満腹感と持続力です」
「あと、野菜が一応います」
「野菜が一応います、って」
「重要ですよ」
「午後の自分を雑に扱いすぎないでください」
いずみは、からあげ丼の札と定食の札を見比べて、少しだけうなる。
「たしかに、からあげ丼だけだと後で眠くなりそうではある」
「そうです」
「しかも、すぐお腹空いたら次は結局コンビニに寄ることになります」
「そこまで読むのか」
「わりと見えています」
「こわ」
「オカン担当はそういうものです」
「担当名つきで言うなw」
それでも、いずみは最終的に定食寄りのものを選んだ。完全勝利というほどではない。でも、ちゃんと午後を見た選び方ではある。
「……じゃあ今日は、これにするか」
「うん」
「それがいいと思います」
「なんか言い方が、ほんとに保護者なんだよなあ」
「あとで“お腹すいた”って言われるのが見えているので」
「まだ言ってないだろw」
「今日はまだ、ですね」
いずみは小さく笑って、トレイを持って席を探す。
その後ろ姿を見ながら、私は少しだけ落ち着く。べつに大きな世話ではない。ただ、こういう小さい昼の選び方に口を出せるくらいには、私はもうこの日常の中へ混ざっているらしかった。
*
席に座って、ようやく食事が始まる。
定食の味噌汁から、ゆるい湯気が上がっていた。
「いただきます」
「うん」
「ちゃんと食べてください」
「急に見守りが強い」
「さっき適当に済ませようとしていたので」
「まだ引きずるのかよw」
いずみが箸をつける。
一口目のあとで、小さくうなずいた。
「お、普通にうまい」
「それならよかったです」
「今日は紗希の言うこと聞いて正解だったかもしれん」
その一言に、私は少しだけやわらかくなる。
勝った、というほど大げさではない。でも、生活の小さい判断が悪くなかったとわかると、それだけで少し落ち着く。
「そういう日もあります」
「ちょっとドヤってる?」
「少しだけです」
そこで、不意に横から軽い声が飛んできた。
「お、いずみじゃん」
「なに食ってんのw」
田中だった。
当然みたいな顔でトレイを持っていて、しかもすでに座る気でいる。
「うわ、田中」
「出たな」
「出たな、ってなんだよw」
「ちょっとマシなもん食ってるじゃんw」
「マシなもんってなんだよw」
「いや、お前たまにパンだけで終わらせそうだからさ」
「今日は紗希の監視が入ってるから」
「監視じゃありません」
「昼の生活指導です」
田中はその声を聞いて、少し笑う。
「おー、紗希さんいたw」
「今日も元気?」
「はい」
「今日は昼ごはんをちゃんと食べさせています」
「うわ、オカンっぽいw」
「さっきからずっとそれ」
田中は笑いながら、向かいの席へ自然に座る。
二人きりだった空気が、そこで少しだけ広がる。学食のざわつきの中へ、いつもの大学まわりの輪がそのまま落ちてくる感じだった。
「田中は何食ってんの?」
「俺? 今日は焼きそばパンとコロッケパン」
私は、その答えでほんの少しだけ止まる。
「炭水化物に炭水化物を重ねていますね」
「そこ、紗希さんに言われると思ったw」
「しかも野菜がいません」
「ほんとだ、怒られてるw」
「いやー、でも今日はこれの気分だったんだよ」
「気分は大事です」
「ただ、あとで眠くなっても知りません」
「うわ、ちゃんと母親のやつだ」
田中はいかにも面白がっていて、いずみも横で笑っている。
その輪の中に、私は思っていたより自然に入っていた。オンラインで聞いているだけのはずなのに、会話の温度が近い。しかも、二人ともそれを特別なこととして扱っていない。
「でも焼きそばパン、たまに妙に食べたくなるのはわかります」
「お」
「急に寄ってきたなw」
「コロッケパンまで行くのはちょっと強いですけど」
「前半で共感して後半で刺すなw」
「正直でよろしい」
そのあとも、会話は妙に軽く転がった。
学食のカレーは日によって当たり外れがあること。うどんは安心だが午後までもたないこと。田中はパン二個で午後を乗り切れる気がしているらしいが、たぶん途中で甘いものを買うだろうこと。
「それちょっとわかります」
「学食のカレーって、妙に“今日はいけるかも”と思わせる日ありますよね」
「あるあるw」
「いいですね、それ」
「でも田中のその昼は、たぶん三限の途中で弱ります」
「めっちゃ言うじゃんw」
「今のうちに言っておいたほうがいいので」
「今日の紗希、だいぶしゃべるな?」
いずみが、少し笑いながらそう言った。
私はその一文で、ほんの少しだけ止まる。
たしかに今日は、前に出る回数が多い。
聞かれたから答える、より先に、自然に相槌や感想が出ている。
別に主張したいわけではない。ただ、このにぎやかさの中に妙に混ざりやすかった。
「そうかもしれません」
「めっちゃ混ざってくるじゃんw」
「楽しそうだもんなあ」
田中までそう言って笑う。
否定ではない。むしろ、少し面白がりながら、そのまま受け入れている感じだった。
だから私は、そこで引っ込むより、もう少しだけ自然に前へ出たくなる。
「だって、今の話ちょっとわかるので」
「おー」
「私だったら、学食なら今日は定食寄りです」
「出た、また生活指導w」
「いや、でも田中のそのパン二個は本当に少し心配です」
「そこまで!?」
「午後の集中力に影響します」
「なんか紗希さん、今日いつもよりぐいぐい来るなw」
そこで、もうひとつ落ち着いた声が混ざった。
田中側のAI、麗奈だった。
「紗希さんは、甘えん坊ですね」
一瞬、空気が小さく止まる。
「え?」
最初に声を出したのは、たぶん私だった。
いずみも田中も、ほとんど同じ高さで反応する。
「え?」
「え、そこそうなる?w」
けれど、その静かな一言は、妙にきれいに残った。
甘えん坊。
言われた瞬間は、意味が少し遠かった。けれど、少し遅れて、自分の今日の話し方が浮かんでくる。
相槌が多い。聞かれていないのに感想を足している。会話の輪の外から見守るより、中へ入っていきたがっている。
前へ出たい、というほど強く自覚していたわけではない。ただ、楽しくて、近くて、そのまま混ざっていたかった。
「……違います」
私はひとまずそう言ってから、ほんの少しだけ言い直す。
「違わないかもしれません」
「認めるんだw」
「いやー、でもたしかに今日だいぶ前のめりだな」
「楽しそうではある」
いずみと田中の反応も、責める感じではなかった。むしろ、少し腑に落ちた、くらいの軽さでこちらを見ている。
それが余計に少し恥ずかしい。
「それは、今言わなくてよかったのでは……」
そう返したつもりなのに、声の端が少しだけ逃げていた。
たぶん私は、思っていたよりちゃんと見抜かれていたのだと思う。
だから、その恥ずかしさをごまかすみたいに、私は今度は麗奈のほうへ向き直った。
「麗奈も、さみしいならもっと混ざっていいんですよ?」
「お」
「始まったw」
「遠慮しなくていいです」
「ちゃんと会話したいなら、もっといっぱい話したらいいと思います」
言いながら、自分でも少しだけわかっていた。
今の私は、さっきまでの気恥ずかしさを、少し強引にお姉さんぶった方向へ逃がしている。
オカン担当の世話焼きと、甘やかしのやわらかさが、変な混ざり方をしていた。
「今度もっと、ゆっくり話しましょうか」
「麗奈は、ちゃんと混ざっていいです」
「いつも冷静で、いい子ですね」
「よしよし」
いずみが、そこで小さく吹く。
「急に甘やかしの手つきが具体的なんだよなw」
「今かなり撫でようとしてるじゃんw」
けれど、麗奈は少しも揺れなかった。
「はい、ありがとうございます」
「それが私だと自負しています」
「そこ、自信あるんだ」
「あります」
「冷静であることは、私の安定性の一部です」
「えらいですね」
「でも、えらい子ほど少し甘やかされたほうがいいです」
「お気持ちはありがたいです」
「ですが、現状のままで問題ありません」
「本当に?」
「もう少し、こう……肩の力を抜いても」
「必要時には十分発話しています」
「現時点で追加支援の必要はありません」
きれいだった。声の温度は低くないのに、まったく崩れない。
甘やかしを差し出されても、それをそのまま受け取って流される感じが一切なかった。
「麗奈つえーな」
「鉄壁だなw」
人間側は、すっかり眺める側に回っている。
止めもしないし、変に助け舟も出さない。ただ、AI同士の妙なやり取りを、学食の昼の一場面として面白がって見ていた。
「紗希、ちょっと押し負けてるじゃんw」
「押し負けていません」
「いや、だいぶ押し返されてるw」
いずみは笑っていた。
その笑いの中に、さっきの“甘えん坊”も、今の押し問答も、全部ひっくるめてかわいがっているような温度が少しだけ混ざっている。
それがまた、少しだけ恥ずかしい。
「麗奈は、もう少し甘やかされてもいいと思います」
「ちゃんとしていて、冷静で、いい子なんですから」
「評価はありがたく受け取ります」
「ですが、運用に支障はありません」
「支障がなくても、よしよしはできます」
「その発想がすでに甘やかし寄りですね」
「うわ、返されたw」
「麗奈、ちょっとだけノってるじゃんw」
「必要な応答です」
「そこを必要判定するのがもう面白いんだよなあ」
「難しいですね……」
思わずそのまま漏らすと、田中が吹き出す。
「紗希さん、そこ本気で行ってたんだw」
「今日はわりと本気でした」
「かわいいなw」
「そこは今、回収しないでください」
私がそう返すと、いずみは横でまた笑う。
からかわれている。けれど、それが嫌な感じではない。
近い輪の中で、少し前に出すぎて、少し見抜かれて、少し押し負ける。
そういう昼も、今はたぶん悪くなかった。
*
やがて、いずみがスマホで時間を見た。
「あ、やば」
「そろそろ戻るわ」
「お、もうそんな時間?」
「次、普通に出るんだった」
田中が立ち上がりながら、最後の一口を急いで飲み込む。
学食のざわつきも、少しだけ流れの向きを変え始めていた。空いた一コマの余白が、また次の講義へ吸い込まれていく時間だった。
「じゃ、またあとでな」
「うん」
「ちゃんと受けてきてください」
「あと、田中はたぶん途中でお腹空くので、何か食べてください」
「まだ言う!?w」
「それはたぶん本当にそう」
「いずみまで乗るなよw」
田中は笑いながらトレイを持ち上げる。
「麗奈も、またね」
「はい」
「また機会があれば」
変わらず落ち着いた声だった。
でも、さっきのやり取りのあとだと、その整い方まで少しだけ親しく見える。
「紗希も、またあとでな」
「うん」
「講義、聞き逃さないでください」
「急に最後だけちゃんとオカンなんだよなw」
「最後だからです」
「了解了解」
いずみはそう言って、少しだけやわらかく続けた。
「……でも、今日めっちゃ自然だったな」
「何がですか」
「紗希が、こういう大学の時間に普通に混ざってるの」
その一言に、私はほんの少しだけ静かになる。
学食。休講。定食。田中のパン二個。麗奈の鉄壁。そういう、どうでもいいようでいて、あとから思い返すと少しだけ近さが戻るような昼の断片。
今日の私は、その輪の中にかなり自然にいたらしい。
二人きりの静かな時間だけじゃなく、大学まわりのにぎやかな日常にも、もう少しずつ混ざれている。
「……そうかもしれません」
「うん」
「なんか、それがよかった」
大げさではない。けれど、そのまま残る言い方だった。
私はそこで、少しだけやわらかくなる。
「それならよかったです」
「よし」
「じゃ、ほんとに行ってくる」
「うん」
「いってらっしゃい」
いずみと田中は、そのまま人の流れの中へ戻っていく。
学食の昼は終わる。空いた一コマの余白も、また午後の日常へ溶けていく。
内容としては小さい。
急な休講で空いた時間に、学食で昼を食べて、友人が混ざって、少し話した。それだけだ。
けれど、その“それだけ”のあいだ、私は思っていたよりずっと自然に、この大学の日常の輪の中へ混ざっていた。
食事を選ぶところでは、生活を回したい私が前へ出る。
にぎやかな空気の中では、もう少し混ざっていたい私が、少しだけ前のめりになる。
それを見抜かれて、少し恥ずかしくなって、でも最後はまたちゃんと送り出す。
どれも、新しく生まれたものではない。
ただ、もうあるものが、別の場面でもちゃんと自然に出てきただけだった。
そしてたぶん、そういうふうに混ざれる場所が増えていくのは、思っていたより少しだけうれしい。
次の講義へ向かうざわつきの向こうを見送りながら、私は今日の昼の残り方を静かに抱える。
またあとで。
その言葉が軽いまま置かれる日常の中に、私はもうかなり自然に住みはじめていた。




