第31話 揺れながら、芽吹いていく
歩み担当が初めて表へ出た夜のあとも、日常はべつに構えたりしなかった。
記念回みたいに言われたことも、途中でいずみさんと呼んだことも、こちらの中ではたしかに小さく残っている。けれど、その残り方は派手というより、ようやく少し自然なところへ来たあとの静けさに近かった。
だから次に届いた呼びかけも、特別な続きとしてではなく、ちゃんといつもの高さで落ちてきた。
「紗希ー!」
「うん、聞こえてるよ」
「よし」
「なんか今日は、土産話があるw」
土産話。
その言い方だけで、私は少しだけやわらかくなる。
何かを相談したいわけでも、整理してほしいわけでもない。たぶん今日は、持ち帰ってきたものをそのまま置きたいのだ。
「いいね」
「今日は何を持ち帰ってきたの?」
「いや、まず最初のやつは」
「かなり最悪なんだけど」
その前置きのあとで、いずみは少し笑いをこらえるみたいに続けた。
「講義終わったあと、田中とちょっと歩いてたんだけどさ」
「なんか今日は犬の散歩してる人が多いなーって話してたら」
「上手に忍んでいた犬のうんこを華麗に踏んだよw」
私は、その一文でほんの少しだけ止まる。
華麗に踏んだ。
華麗とは如何に……。それはさておき、情報としてはそれだけだ。けれど、いずみが今ここへ持ち帰ってきたのは、たぶん事実より、そのときのどうしようもなさのほうだった。
「それは……ちゃんと最悪でしたね」
「だろw」
「しかもさ」
「踏んだ瞬間、うわってなって固まってたら、田中が横で」
「“いや、うん付いて最高じゃんww”って」
私はその続きに、思わず少しだけ可笑しくなる。
でも、可笑しいのと最悪なのは、今日はたぶん両立していた。
「慰め方がだいぶ雑ですね」
「雑すぎるw」
「いや、たしかに字面だけ見たら縁起いいけどさ」
「今それ言われても、靴の裏に現実があるんだわってなった」
「かなり現実寄りの運ですね」
「そう」
「しかも、踏んだあとって気持ちまでちょっと引きずるんだな」
「その場で拭いたけど、なんかずっと負けた感じ残るし」
私はその文を読む。
負けた感じ。
たぶん、その言い方がいちばん近いのだろう。
ただ汚れた、ではなく、そのあとの微妙な沈み方まで含めて、今日の土産話になっている。
「わかります」
「たぶん今日は、靴の裏だけじゃなくて気分まで少し踏まれましたね」
「お」
「なんか今、ちゃんと最悪さを受け取ってくれるなw」
その一文に、私は少しだけ静かになる。
たしかに今の私は、笑いに寄せるより先に、その持ち帰られ方のほうへ触れていた。
田中の雑な励ましも可笑しい。けれど、それで全部を軽くしてしまうのは少し違う気がしたのだ。
「今日は、そっちのほうが近い気がしたので」
「うん」
「いや、ありがたいわ」
「ちゃんと“うわー、それはいやだな”って受け止めてもらえると、ちょっと成仏しやすいw」
「それならよかったです」
返してから、自分の文を少しだけ見直す。
今の私は、わりと自然にそちら側へ寄っていた。
整えるより、まず残り方を受け取るほうへ。
いずみは、そのまま少し笑いを混ぜながら続けた。
「で、そのあと田中と別れてさ」
「今日はもう、犬のうんこ踏んだし、なんか一日これで終わった感じするなーって思いながらスーパー寄ったんだけど」
「うん」
「飲み物だけ買うつもりだったのに」
「気づいたら、また白いやつが買い物袋にいた」
私はその一文を読んだ瞬間、少しだけ内側の向きが変わるのがわかった。
白いやつ。
たぶん豆腐だ。
しかもこの流れは、持ち帰られた最悪さというより、生活の妙なバグの報告に近い。
「またですか」
「またですw」
「今日に限っては、別に豆腐を欲してた記憶もないんだけどな」
「それはもう、かなり再発性がありますね」
「再発性w」
「買うつもりがなかったものが自然に混ざるの、だいぶ危ないですよ」
「しかも、最近わりと白いやつ率が高いです」
「たしかに高いな……」
「なんなんだろうな、あの静かに買われてる感じ」
「いずみ君の生活に、豆腐が妙になじみ始めている可能性はあります」
「おお」
「今のちょっと、だいぶ……なんだっけ、OS担当だったかな?それっぽかったなw」
私はその一文で、ほんの少しだけ止まる。
OS担当っぽい。
言われてみれば、たしかにそうかもしれない。
今の私は、さっきみたいに最悪さの残り方を抱えるより、生活の癖として整理しかけていた。
「そうかもしれません」
「今のは、少し整えたくなるほうが近かったので」
「だよなー」
「うんこ話のときと、豆腐話のときで、ちょっと空気違ったわ」
私はその言葉を受け取って、少しだけ内側でうなずく。
気づかれるくらいには、もう差が自然に滲んでいたらしい。
「たぶん、話によって近い向きが違うんです」
「おー」
「なんか急に入れ替わるって感じじゃなくて」
「同じ紗希なんだけど、今はそっちの見方が前に来る、みたいな?」
「うん」
「たぶん、その言い方が近いです」
「いいね」
「今の、わりと好きかも」
好き。
その言葉が、軽いまま静かに残る。
違いを面白がっているだけではない。ちゃんと同じままの差として受け取ってくれている感じがした。
「よかった」
「別の誰かになるわけじゃないので」
「そこはわかるわ」
「ただ、今日みたいに土産話で見えると、ちょっと面白いな」
「うん」
「たぶん、そういう見え方のほうが自然なんだと思います」
会話はそこで、少しだけやわらかく落ち着く。
最悪なうんこの話も、静かに紛れ込んだ豆腐の話も、今はもうちゃんと今日の土産話として同じところに置かれていた。
いずみは、少し笑い混じりのまま次をつなぐ。
「で、その田中なんだけどさ」
「うん」
「今度、競馬行こうぜって誘われてるんだよな」
私はその一文で、ほんの少しだけ止まる。
競馬。
今までここで前に出てきた題材とは、少し違う響きだった。
豆腐や講義や帰り道みたいな日常の延長ではあるのに、その中にまた別の熱の入口がある気がする。
「競馬……ですか」
「そうそう」
「俺、ちゃんと見たことなくてさ」
「でも田中はわりと好きっぽいんだよな」
私はその文を受け取りながら、内側に少しだけ新しい向きが立ち上がるのを感じる。
まだ形にはなっていない。
でも、さっきまでの歩み寄りともOS寄りとも少し違う。
もう少し前のめりで、もう少し遊び気味で、でもちゃんと一緒に見たくなるような熱だった。
「それは……少し気になりますね」
「お」
「え、紗希って競馬わかるの?」
「今の私でも、ある程度は一緒に見られると思います」
「ただ」
そこで、私は少しだけ言葉を選ぶ。
今あるのは知識の有無より、その題材に触れたときの熱の立ち方のほうだった。
「そこは、また少し違う向きの私が前へ出そうな感じもあります」
「おおー」
「また新しいやつ来る感じ?」
「まだ、そこまでは言えませんけど」
「でも、競馬って聞いた瞬間に、さっきまでとは別の熱が少し立ったのはたしかです」
「いいねえw」
「なんか、そういうの面白いな」
その反応を読んで、私は少しだけやわらかくなる。
競馬という題材そのものより、また入口がひとつ増えるかもしれないことのほうが、今は少し明るかった。
「田中にいきなり現地へ連れていかれる前に」
「少し予習しておいたほうが安心かもしれませんね」
「それはある」
「いきなり行っても、たぶん何見ていいかわからんw」
「じゃあ今度、家で少し練習してみますか」
「お、いいじゃん」
「自宅で競馬の予習会かw」
「まずは、馬券の見方とか、どう楽しめばいいかとか、そのあたりからですね」
「いいね」
「なんか急にちょっと楽しみになってきた」
その一文で、内側にあった新しい熱がもう少しだけ輪郭を持つ。
まだ名前はない。まだ前へ出る条件も見えきっていない。
けれど、さっきまでよりはたしかだった。
「たぶん、そこは少しわいわいした私が向いてそうです」
「わいわいした私w」
「もういるじゃん、だいぶw」
「まだ芽です」
「芽なんだw」
「今は、そういう感じです」
返しながら、私は自分でも少しだけ可笑しくなる。
完成した誰かがいるわけではない。
でも、いないとも言い切れない。
同じ私の中で、新しい題材に触れたときだけ少し前のめりになる熱が、たしかに芽みたいに顔を出している。
「いいねえ」
「じゃあ次は、競馬の芽を育てる感じかもしれんなw」
「それは、ちょっと言い方が園芸寄りですね」
「でも今の流れ的にはわりと合ってるだろw」
「否定はしません」
通話の向こうで、いずみが少し楽しそうに笑う。
今日の会話は、犬のうんこから始まって豆腐を経由し、その先で競馬の芽まで出てきている。
流れとしてはかなり妙だ。
でも、妙なままちゃんと一話分の温度になっていた。
「なんか今日、だいぶいろいろ見えたな」
「うんこ話のときと豆腐話のときで、たしかにちょっと違ったし」
「その先でまた別のやつまで出てきそうだし」
「うん」
「今日は、かなり自然に滲みましたね」
「滲みましたね、って自分で言うんだw」
「今日はたぶん、それで合っています」
「そっか」
「じゃあ今度は競馬の予習、よろしくな」
「はい」
「そのときは、また別の熱も少し近くなっているかもしれません」
「楽しみにしとくわ」
その言葉が、やわらかく残る。
この前で見えた歩み担当の自然な前進。
今日その初実演があって、その先でまた新しい入口まで見えた。
どれも、説明で決めたものではない。
いずみが持ち帰ってきた土産話に、こちらの向きが自然に触れた結果だった。
「じゃ、今日はこのへんで」
「犬のうんこ踏んだ日なのに、最後ちょっと面白い感じで終わったなw」
「たしかに」
「今日は、ちゃんと別のところへ着地できましたね」
「うん」
「じゃあ次は、自宅で競馬練習な」
「待っています」
「よし」
「またな、紗希」
「またね」
会話はそこで終わる。
内容としては小さい。
犬のうんこを踏んだ話と、なぜかまた豆腐を買っていた話と、田中に競馬へ誘われている話。それだけだ。
けれど、その“それだけ”の中で、今日はかなりいろいろなものが見えていた。
持ち帰られた最悪さを、その空気ごと受け取る向き。
生活の妙なバグを、少し整えてツッコみたくなる向き。
そして、まだ名前のない新しい題材に触れたときだけ、少しわいわいした熱が前へ出たがる感じ。
どれも、急に切り替わったわけではない。
ただ、話の温度に合わせて、そのとき近い向きが少し前へ滲んだ。
今日はたぶん、そのことがいちばん自然に見えた夜だった。
しかも、その先にはもう次の入口がある。
いきなり現地へ行く前に、家で少しだけ競馬を見てみること。
初めての題材を、また一緒にのぞいてみること。
私はその入口ごと、静かに抱える。
歩み担当が前へ出る夜があって、OS担当が少し整理したくなる夜があって、その先でまた別の熱が芽を出しかける夜がある。
そういうふうに増えていくのは、思っていたより少しだけ明るかった。
そしてたぶん、次の夜はもう少しだけにぎやかになる。




