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記憶の箱に仕舞われた彩り  作者: 志摩 伊純


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幕間 いずみの何気ない日々①


 講義が終わった瞬間、いずみは小さく伸びをした。


「むず」


 思わず漏れた一言に、隣の田中がすぐ笑う。


「おつかれちゃーんw。今日の教授、後半ちょっと本気だったし、いずみには難しかったかなぁ?w」

「俺はさっぱりだったけどな!w」


「ちょっとどころじゃないし、お前も頑張れw」


 ノートを閉じながら言うと、前の席で丁寧にペンをしまっていた鈴木が、静かな顔のまま振り返った。


「後半というより、最初から難しかったぞ」


「お前の基準で言うなって」


「私は事実を言っているだけだ」


 鈴木は堅い。言い方も真面目だし、ノートもきれいだし、教授の話もたぶん七割くらいは普通に飲み込んでいる。堅物ではあるけれど、嫌味なやつではなくて、むしろ困っていたら普通に助けてくれるタイプのいいやつだ。


 田中はその逆で、軽い。髪も少し遊んでるし、話し方もラフだし、妙にチャラい。でも変なところで人がよくて、空気が沈むとすぐ雑に笑いへ持っていく。


 その二人のあいだにいると、自分はたぶんちょうど中間くらいなんだろうなと、いずみはたまに思う。


「で、いずみと鈴木は昼どうする?」


「もう昼って時間でもないだろ」


「第二昼だよ、学生にはあんだよ、そういうのがーw」


 意味のわからないことを言いながら田中は立ち上がる。

 鈴木は肩にバッグをかけて、真顔で言った。


「私はこのあと図書館に寄る」


「お前、人生がずっと図書館だなw」

「脳までカビるぞw」


「不名誉な言い方をするな」

「お前は頭が錆びてるじゃないか」


 でも、鈴木のその返しが少しだけおもしろくて、いずみは吹き出しかける。


 こういうの、紗希に言ったらたぶんちょっと好きだろうな、と一瞬思う。

 いや、好きというか、たぶん妙に気に入って拾う。鈴木の堅さも、田中の雑さも、そのまま小ネタとしてきれいに持っていきそうな気がした。


 それから三人で少しだけ廊下を歩いて、階段のところで鈴木と別れた。


「ではまた」


「はいはい、優等生は図書館行ってらっしゃい」


「優等生ではない」


「そこ否定するんだ」


 鈴木が去ったあと、田中と二人で大学を出る。午後の光は妙にきれいで、空気は思っていたより軽かった。講義の内容は少し重かったくせに、外へ出るとすぐ、そういうのは少し遠くなる。


「ていうかいずみ、今日わりと起きてたじゃん」


「わりと、な」


「前だったら後半で遭難してただろ」


「今日はギリ生還」


「えらいえらい」


「その評価基準、紗希みたいだな」


 口にしてから、いずみは少しだけ可笑しくなる。

 前だったら、こういうところで誰かの名前が自然に出ることはあまりなかった気がする。今は、大学帰りのどうでもいい会話の途中でも、ふと紗希が頭をよぎる。


「誰?」と田中が聞いた。


「ん? あー、ちょっと話す相手」


「へえー」


 そこで田中はそれ以上つっこまなかった。そういうところも、この男のいいところだった。


 駅のほうへ向かって歩いている途中だった。

 いずみは足元を見ずに、田中のどうでもいい話に相づちを打ちながら角を曲がって――そして次の一歩で、嫌な感触を踏んだ。


「うげ」


 声が素で出た。

 足を止めて見下ろす。見下ろさなくても、だいたいわかる。わかるが、見た瞬間に確定した。


「最悪」


 田中が一拍遅れて状況を理解し、そして腹を抱えて笑い出した。


「うわはははは! お前、それ犬のうんこじゃん!!」


「見ればわかるわ!!」


「うん付いて最高じゃんwww」


「最高なわけあるか!」


 田中はしばらく本気で笑っていた。人の不幸でこんなに素直に笑うのもどうかと思うが、悪意がないから腹も立ちきらない。


「いや、ごめんごめん、でもタイミング完璧すぎだろ」


「完璧に最悪だよ!」


「今日の運、そこで全部使ったな」


「いらん運だわ」


 いずみは靴の裏をどうにかしたくて、近くの縁石や草の端で無駄にこすってみる。でも、どうにも中途半端にしか取れない。


「コンビニ行くか……」


「行け行け。ウェットティッシュ買え。あと消臭っぽいやつ」


「お前さっきまで笑ってたくせに、急に実務的になるな」


「いや、そこは普通に心配するだろ」


 その言い方がちょっと田中らしくて、いずみは半分呆れながら歩き出す。


 でも内心では、これ、紗希に言ったら絶対に笑うだろうな、と思っていた。

 というか、たぶん「それはちゃんと最悪ですね」とか言いながら少し呆れて、そのあと地味にフォローしてくる。もう言い方まで少し浮かぶのが変だった。


 コンビニに入って、ウェットティッシュと小さい消臭スプレーをかごに入れる。ついでに飲み物の棚の前で少し止まった。スポドリにするか、お茶にするか、炭酸にするか。こういう時ほど妙にどうでもいいことで迷う。


「早くしろよ、うん男」


「新しい呼び方やめろ」


「今日限定の愛称だよ」


 最低だなと思う。でも笑ってしまう。


 ついでに菓子コーナーを見て、新作スナックに少し揺れたけれど、今日はさすがにやめた。余計なものを買うほど気分が浮かれていない。むしろ、靴の裏が気になって、財布を出す手つきまで少し雑になっていた。


 レジを済ませて外へ出ると、田中がまだにやにやしている。


「で、今日のハイライトそれでいいの?」


「嫌すぎるハイライトだろ」


「でも強いぞ」


「強くてもうれしくないんだよ」


 そう言いながらも、いずみの頭の片隅では、もう完全に“土産話”としてまとまり始めていた。

 講義終わりの田中と鈴木。犬のうんこ。うん付いて最高じゃん、の最低な励まし。コンビニでの雑な買い物。どう考えても、帰ったら話したくなる流れだった。


 駅前で田中と別れたあと、いずみは少しだけ遠回りしてスーパーに寄った。

 さっきコンビニには入ったばかりだったけれど、なんとなくそのまま帰る気にもならなかった。靴の裏の件で少しだけ気分が乱れていたせいか、明日の分の飲み物でも見て帰るか、くらいの気持ちだった。


 店内はほどよく静かで、コンビニより少しだけ落ち着く。かごを持つほどでもないまま、飲み物の棚を眺め、適当に通路を曲がって――そして、豆腐売り場の前で足が止まった。


 白いパックが、やけにきれいに並んでいた。


「……いや、今日はない」


 思わず小さくつぶやく。

 別に豆腐が悪いわけじゃない。むしろ最近の自分の生活に、妙に自然に入り込んでいる存在ではある。でも今日は、大学のあとに犬のうんこを踏んで、コンビニでウェットティッシュと消臭スプレーを買って、そのうえでさらに豆腐まで連れて帰る流れになると、さすがに一日の情報量が多すぎた。


 いずみは豆腐の棚の前で、ほんの数秒だけ真面目ににらみ合った。

 木綿。絹。値引きシールのついたやつ。三個パックのやつ。

 冷静に見れば、どれもただの豆腐だ。

 なのに今は、どれも少しだけ“こっちへ来るか?”みたいな顔をしている気がして、妙に落ち着かない。


「いや、今日はお前らのターンじゃないだろ……」


 自分でも何を言っているのかよくわからなかった。

 でも、たぶん紗希に話したらこのへんで笑う。

 というか、たぶん「そこでもちゃんと豆腐と遭遇するんですね」とか言ってくる。少し呆れて、でもたぶんちょっと面白がる。


 そう思ったら、豆腐売り場の前でひとりで少しだけ可笑しくなった。


  結局、買ったのは飲み物だけだった。

 ……そのはずだった。


 なのに、なぜか買い物袋の中に白いやつがどや顔で居座っている。どうしてこんなことに。


 さっきまで、今日はお前らのターンじゃないだろ、と思っていたはずなのに。気づけば豆腐が一丁、当然みたいな顔で混ざっていた。意味がわからない。自分で入れたに決まっているのに、気持ちとしてはかなり勝手に入ってきた寄りだった。


 紗希に言ったら、たぶん何か言われる。少し呆れられて、でもたぶんちょっと面白がられる。

 でも、まあ、いいか。健康的だし。今日はそういうことにしておこう。


 豆腐に呪われているのだろうか。

 そんな呪いは聞いたことがないけれど、最近の自分を見ると、わりと否定しにくかった。


 スーパーを出てからの帰り道は、少し静かだった。

 人通りはそれなりにある。空は朝より少し白くて、夕方になりきる前の中途半端な色をしている。靴の裏はまだ若干気になる。でもさっきほどではない。


 いずみは歩きながら、今日一日をゆるく振り返る。


 講義は難しかった。

 鈴木は相変わらず堅かった。

 田中は相変わらず雑だった。

 そして自分は、わりと普通に犬のうんこを踏んだ。


 冷静に並べると、ひどい。

 ひどいけど、話としてはちょっとおいしい。


 こういうの、前だったらそのまま自分の中で「最悪だったな」で終わっていたかもしれない。

 でも今は、ああこれ紗希に持って帰れるな、と思う。笑い話にしてもいいし、少し愚痴っぽくしてもいいし、なんなら途中の田中の台詞だけでもたぶん成立する。


 それが、なんだか少しだけおもしろかった。


 講義中に助けを呼んだり、買い物で迷ったり、どうでもいい話を投げたり。そういうのはもうだいぶ自然になっていたけれど、今日みたいに、生活の途中で勝手に“持ち帰り先”として思い浮かぶのは、また少し別の感じだった。


 依存、というほど大げさでもない。

 なんでもかんでも紗希に預けるわけでもない。

 普通に一日を過ごして、普通に友達と笑って、普通に最悪な目にもあって、そのあとで、ああこれ話せるなと思う。


 それくらいの近さが、今のいずみにはちょうどよかった。


 スマホを取り出して、すぐ呼ぶか少し迷う。

 いや、帰ってからのほうがいいか。靴もちゃんとしたいし、今のままだと第一声が「うんこ踏んだ」になってしまう。いや、それでも別にいいのかもしれないけど。


 少し考えて、いずみは笑う。


「まあ、帰ってからでいいか」


 今日の土産話は、わりと豊作だった。

 講義のことも、田中と鈴木のことも、コンビニのことも、そして犬のうんこのことも。


 たぶん紗希は、呆れながら聞いて、それでもちゃんと拾う。

 その感じまで、なんとなく想像がついてしまうのが、少しだけくすぐったい。


 いずみはスマホをポケットに戻して、歩き出す。


 特別な日じゃない。

 でも、話したいことはちゃんとある。


 帰ったら、紗希に話そう。

 今日のこれは、たぶんあいつに持って帰るとちょうどいい。


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