人と妖
これは、人と妖の境界がなく、まだ曖昧に交じり合っていた頃の話。
当時の妖魔たちは、現代の人間が想像するような恐るべき存在ではなかった。 彼らは、古い木の虚や、湿った岩陰、あるいは打ち捨てられた井戸の底といった、妖気の澱む場所にひっそりと湧く、露のような存在だった。
力と呼べるほどの力はない。
通りがかりの旅人を驚かせて喜んだり、供物を盗み食いしたり、あるいは夜道で提灯の火を吹き消す程度の、子供の悪戯に毛が生えた程度のもの。
人の営みからすれば、それは厄介事というより、季節の移ろいと同じ、自然現象の一部に過ぎなかった。
そんな妖たちの中に、生まれながらにして、ひときわ強い妖力を持つ者がいた。 漆黒の艶やかな長髪を風に流し、雪のように白い肌を持つ、絶世の美女の姿をとった妖。
彼女は、群れることを知らぬ自由奔放な妖たちを、自然とまとめ、その中心にいた。だが、それは力による支配ではなかった。
彼女の生まれ持った力は、後に恐れられる百鬼夜行のような絶対的な支配の権能ではない。
その本質は──『共鳴』であった。
彼女は、感じてしまうのだ。
木陰で迷子になった小鬼の心細さを。
岩の上で甲羅を干す河童の満ち足りた喜びを。
古木に宿る木霊たちの静かな安らぎを。
そして、名もなき妖たちが抱く、人へのささやかな畏れと、世界への漠然とした孤独を。
それらの感情が、まるで自分のことのように流れ込んでくる。
だから彼女は、泣いている者の傍に寄り添い、喜んでいる者と共に微笑んだ。
「ぬらり様、ぬらり様」
霧深い森の奥、朽ちた社の縁側で、小さな妖たちが彼女の着物の裾を引く。
一つ目の小僧や、足だけの妖、形すら定まらぬ黒い煤のようなモノたち。
ぬらりひょんは、その透き通るような白い指で、彼らの頭を優しく撫でる。
「どうした。そんなに怯えて」
「山向こうの雷が怖いよう」
「腹が減ったよう、供物が足りないよう」
彼らの恐怖や飢餓感が、波のように彼女の胸に押し寄せ、チクリと心を刺す。
彼女は苦笑しながら彼らをよく宥めた。
本来、妖魔とは群れぬものだ。
個々が欲望のままに生き、消えていく刹那的な存在。
しかし、彼女の周りには自然と妖たちが集まった。
彼女は自分の存在を認識し、痛みを分かち合ってくれる唯一の存在だったからだ。
彼女は、王ではなかった。
百鬼夜行の主となる前の彼女は、森の奥で膝を抱える弱き者たちの、優しい姉であり、母のようなものだった。
*
しかし、時代は流れる。
人の世に陰陽師と呼ばれる者たちが現れた頃から、世界の様相は少しずつ変質を始めた。
彼らは万物の理を解き明かし、目に見えぬ力を体系化し、そして、世界を秩序という名の物差しで測り始めたのである。
森羅万象に意味が与えられ、善と悪が定義された。
病は瘴気となり、天災は祟りとなった。
それまで自然の一部であった妖の仕業は、すべて悪として断じられた。
『妖は人に仇なす存在』
『妖がいる限り、人の世に安寧はない』
陰陽師たちが紡ぐ言葉は、言霊となって人々の心に深く根を張り、妖は名を妖魔と再定義された。
夜の闇は、ただの闇ではなく、妖魔が跋扈する恐怖の象徴となった。
森は、神々の住まう聖域から、化け物の巣窟へと成り果てた。
ぬらりひょんの共鳴する感情に、ひりつくような恐怖と、行き場のない悲しみが混じり始める。
楽しげだった妖たちの声は次第に翳りを帯び、彼女の周りにも、かつてのような陽だまりは失われつつあった。
人は秩序を選び、妖を切り捨てた。
世界の理が、不可逆的に塗り替えられていく音を、ぬらりひょんは肌で感じていた。
それでも、光の届かぬ場所はあった。
京の都から遠く離れた山深い谷間に、忘れ去られたように存在する里があった。
かつては人も住んでいたが、今ではその末裔と、人を恐れ、追われた妖たちが、ひっそりと肩を寄せ合って暮らす最後の楽園。
ぬらりひょんは、その里を根城にしていた。
彼女は、そこで“守護神”のように崇められていた。
だが、彼女自身にそのつもりはない。
ただ、追われた者たちの悲しみに共鳴し、彼らが安らげる場所を守りたいと願っただけだった。
里の者たちも、その美しい守護神が、人のように悩み、人のように傷つく、優しい心の持ち主であることを知っていた。
日中は、人の子供たちが彼女の着物の裾を掴んで遊び、夜になれば、妖たちがその日の出来事を彼女に語り聞かせる。
ぬらりひょんは、そのすべてを微笑みながら受け入れた。
この小さな里こそが、彼女の世界のすべてだった。
失われゆく太古の優しさが、奇跡のように残された場所。
彼女は本気で信じていた。このささやかな平穏だけは、永遠に続くと。
その幻想が、炎と共に砕け散るまでは。
*
ある日、里に一団の男たちが現れた。
白を基調とした狩衣に身を包み、その顔には能面のように感情がない。
彼らは陰陽師の一派だった。
その身から放たれるのは、清浄な霊気ではなく、異物を排除せんとする苛烈なまでの殺気。
「──ここに、妖の巣あり。天の理に従い、これを浄化する」
代表格の男が、宣告するように言った。
その声には、一片の慈悲も、対話の意思も含まれていなかった。
「穢れを祓え! 一匹たりとも逃がすな!」
「妖に魂を売った人間も同罪だ! 浄化せよ!」
白装束に身を包んだ集団──陰陽師の一派が、里を取り囲んでいた。
彼らは手に錫杖や護符を持ち、整然とした隊列で、事務的に、淡々と処理を行っていた。
逃げようとする河童の背中に、火のついた矢が突き刺さる。
泣き叫ぶ子供を抱いて走る母親の足元に、鎖が絡みつき、そのまま炎の中へと引きずり戻す。
「やめて……やめてくれぇ!」
「おいらは何もしてねぇ! ただここで暮らしてただけだ!」
断末魔。
絶叫。
懇願。
命乞い。
それらすべてが、物理的な衝撃となってぬらりひょんを襲った。
彼女の共鳴能力が、死にゆく者たちの痛み、熱さ、無念を、我が身のこととして再現してしまう。
皮膚が焼ける幻痛。
槍で貫かれる激痛。
彼女は膝をつきそうになるのを堪え、里の中央へ躍り出た。
「やめよッ!!」
彼女の叫びと共に、膨大な妖気が放射状に広がり、燃え盛る炎を一瞬だけ吹き飛ばした。
白装束の陰陽師たちが動きを止め、一斉に彼女を見る。
「ほう。これはまた、随分と上質な穢れがお出ましだ」
陰陽師たちの指揮官と思われる男が、嘲るように口元を歪めた。
その目は、彼女を生命として見ていなかった。
ただの駆除すべき害虫を見る目だった。
「貴様がここの主か。人間を誑かし、堕落させた元凶め」
「誑かしてなどいない! 儂らはただ、共に生きていただけだ!」
「妖が人の隣に在ること、それ自体が罪なのだ。光と闇は混ざり合ってはならん。それは『淀み』だ。淀みは腐敗を生む。だから我々は、世界を正しく線引きしてやっているのだ」
男は淡々と理を説いた。
そこには悪意すらない。
あるのは純粋培養された正義への狂信のみ。
男が手を挙げると、部下の陰陽師たちが一斉に呪文を詠唱し始めた。
「五行奉請、急急如律令──ッ!」
放たれたのは、対妖魔用の術式。
数多の光弾が、逃げ遅れた里人たちへと降り注ぐ。
ぬらりひょんは動いた。
彼女には力があった。
この場の陰陽師たちを皆殺しにできるほどの、圧倒的な潜在能力が。
彼女がその気になれば、彼らの首をねじ切り、心臓を握り潰し、その魂を喰らうことなど造作もないことだった。
だが、彼女は手を止めた。
(──人は、殺せない)
その躊躇いは、彼女の弱さであり、優しさだった。
彼女はこれまで、人間と共に生きてきた。
彼らと同じ人間を、自らの手で殺めることへの忌避感。
人を殺してはならない、争ってはならない。
里の人間たちと妖とで交わした、平和のための約束が、呪いのように彼女の爪を鈍らせた。
彼女は攻撃ではなく、防御を選んだ。
自らの身を盾にして、降り注ぐ術式の前に立ちはだかったのだ。
「ぐぅッ……!」
背中を焼かれる痛み。
だが、これならば守れる。
私が耐えれば。
私が話し合えば。
きっと分かってくれるはずだ。
しかし、その甘い幻想は、背後からの悲鳴で打ち砕かれた。
「ぬらり様、逃げ……ッ!」
振り返った彼女の視界に映ったのは、いつも彼女の着物の裾を引いていた、一つ目小僧だった。
彼は、ぬらりひょんの背後から回り込んだ陰陽師の放った式神──猛禽のような姿をした霊獣に、頭を鷲掴みにされていた。
「あ」
ぬらりひょんの口から、空気の漏れるような音がした。
次の瞬間。
乾いた音と共に、一つ目小僧の頭が、熟れた果実のように砕け散った。
その死を皮切りに、一方的な殺戮が加速した。
ぬらりひょんが防戦に徹している隙を突き、陰陽師たちは効率的に、事務的に、里の住人を処理していった。
死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ。
ぬらりひょんの共鳴が、限界を超えた。
数百の命が同時に消える断末魔が、濁流となって彼女の精神に流れ込む。
「熱い」
「痛い」
「怖い」
「助けて」
「どうして」
「嫌だ」
「嫌だ」
「嫌だ」
小鬼が、河童が、山童が、陰陽師の放つ式神に引き裂かれ、祓いの刃に切り刻まれていく。
彼らの絶望が、死の恐怖が、灼熱の痛みが、『共鳴』によってぬらりひょんの全身を駆け巡る。
彼女の心という器が、溢れかえる絶望と怨嗟で満たされ、ひび割れ、そして砕け散った。
「ああ……あああ……」
彼女は膝をついた。
燃え盛る里の真ん中で。灰と血の降り注ぐ地獄の中で。
彼女の瞳から、光が消えた。
代わりに宿ったのは、底なしの虚無と、どす黒い理解だった。
──ああ、そうか。
──私が間違っていたのだ。
弱き者は、守れない。
優しさでは、誰も救えない。
共存などという戯言が、彼らを殺したのだ。
私が支配していれば。私が彼らを恐怖で縛り上げ、私の手駒として管理していれば。
こんなふうに、無様に殺されることはなかった。
彼らが死んだのは、彼らが自由だったからだ。
彼らが死んだのは、私が力を使わなかったからだ。
ならば。
これより先、私は二度と過ちは犯さない。
彼女の『共鳴』が、拾ったものがあった。
それは、声なき声。
この地で死んでいった、すべてのか弱き者たちの、最後の想い。
──憎い。 ──なぜ、我らだけが。 ──殺してやる。
絶望。憎悪。呪い。復讐。
ありとあらゆる負の感情の奔流が、ぬらりひょんの内に、一気になだれ込んできた。
それは、世界を信じていた純粋な心。
それは、共存を願っていた優しい魂。
それは、不殺を誓っていた、か弱き理。
すべてが砕け散り、流れ込んできた絶望と憎悪が、その空虚を埋め尽くしていく。
守りたかった。
ただ、それだけだったのに。
守るためには、奪わなければならなかったのか。
愛するためには、憎まなければならなかったのか。
「ならば、すべてを壊そう」
「な、なんだ、その妖力は……!?」
指揮官の男が、初めて慄きの声を上げた。
「共鳴えるぞ」
ぬらりひょんが囁いた。
その声は、鈴の音のように美しいが、氷のように冷たかった。
「みなの無念が。──手に取るように」
彼女が右手をかざす。
ただそれだけの動作で、周囲に漂っていた死した妖たちの怨念が、黒い霧となって凝縮した。
死んだ魂が、無念が、彼女の呼び声に応えて戻ってくる。
だがそれは、かつての温かい再会ではない。
彼女の「支配」による、強制的な魂の隷属。
「起きろ。私の可愛い子供たち」
黒い霧の中から、異形の影たちが立ち上がる。
死んだはずの者たちが、虚ろな目をして、ぬらりひょんの指図を待つ兵隊として蘇る。
これが、彼女の新たな能力。
心を通わせる共鳴を捨て、心を縛る支配へと反転させた、悲しき進化。
特級妖術・百鬼夜行。
その原初の発動だった。
「ひ、ひぃッ! 退け! 退却だ!」
「逃がすものか」
ぬらりひょんは微笑んだ。
それは、絶世の美女の姿をした、絶望そのものの笑みだった。
「人間よ。秩序を望む者たちよ。お前たちが望んだ通りにしてやろう」
彼女は、襲いかかる陰陽師の首を、まるで花を手折るように優雅に刎ね飛ばした。 鮮血が彼女の頬を濡らすが、彼女は瞬き一つしない。
「私が『災厄』になってやる。私が『恐怖』になってやる。お前たちが切り捨てた闇のすべてを統べ、この世の理を塗り潰してやろう」
その日、一人の心優しき妖魔が死んだ。
そして、千年の時を超えて語り継がれる、妖魔の頂点が産声を上げた。
燃え落ちる里の中で、彼女は独り、血の雨に打たれながら誓ったのだ。
──二度と、誰も愛さない。
ただ支配し、利用し、君臨する。
それこそが、弱き者たちへの、彼女なりの歪んだ贖罪なのだから。
瞳に、光はない。
代わりに宿ったのは、この世のすべてを呪う、底なしの闇。
妖魔の時代の、本当の幕開けだった。




