地獄絵図
京都の夜空が、朱に染まっていた。
それは夕焼けの名残りなどではない。
地上から巻き上がる無数の炎が、夜の闇を焼き尽くさんばかりに舐め上げているのだ。
「素晴らしい眺めであろう」
俺の口が、俺のものではない声で、愉悦に歪む。
肉体の主導権を完全に奪われた俺の意識は、魂という檻の中から、この世の終わりのような光景をただ強制的に見せつけられていた。
俺の身体は、俺の意志とは無関係に、優雅に、そして傲慢に歩を進めていた。
足裏に伝わるのはアスファルトの硬さだけではない。
瓦礫の感触、割れたガラスの不快な音、そして──時折踏みしめる、生温かく柔らかい何かの感触。
(ぬらり様、やめてください……! もう、やめてください……!)
だが、俺の肉体を乗っ取ったこの特級妖魔は、懇願など小鳥の囀りほどにも気にかけていない。
俺の口を使って、楽しげにハミングすらしている。
視界の端から端まで、地獄が広がっていた。
古都・京都は今、魑魅魍魎の饗宴の場と化していた。
八月八日。
本来ならば、一年で最も陰の気が強まり、妖魔への警戒が強められる日だ。
陰陽府は毎年この日を最大級の警戒態勢で迎える。
だが、ここ京都に限っては話が別だった。
街全体が、安倍晴明の時代から幾重にも張り巡らされた大結界によって守護され、妖魔の侵入など起こり得ないと、誰もが信じ切っていた。
都から外れた山間部や寂れた集落ならいざ知らず、この街の中心で妖魔を見る者など、滅多にないはずだ。
だからこそ、惨劇は加速する。
平和に慣れ切った人々の耳に、妖魔という言葉は物語の中の存在でしかない。
彼らが生まれて初めて見る本物の妖魔は、あまりにも理不尽で、あまりにも暴力的な死そのものだった。
「ひ、ひぃぃぃッ! 助け……!」
路地裏から、サラリーマン風の男が這い出してきた。
片足がない。
断面から鮮血の跡を引きずりながら、必死に俺の方へ手を伸ばしてくる。
俺の背後に従う百鬼夜行の群れが、男の影を覆った。
「ギャアアアアアッ!」
老婆のような姿をした妖魔──山姥が、男の背中に躍りかかった。 枯れ木のような指が男の脇腹に突き刺さり、容易く肉を引き裂く。
男の絶叫は、ごぼり、という不快な音と共に途絶えた。
天の闇から、音もなく天狗が舞い降りていた。
手にした羽団扇の一振りすると、凄まじい突風が巻き起こる。
近代的なオフィスビルが根元からへし折れ、轟音と共に崩落していく。
中にいた人々は、悲鳴を上げる間もなく瓦礫の下敷きになった。
下級の妖魔たちは瓦礫を掘り返し、まだ息のある人間を見つけては、四肢を引き千切り、内臓を貪り食らう。
(もう見たくない……! 目を瞑りたい!)
だが、俺の瞼は閉じられることを許されない。
ぬらりひょんは、この惨劇を極上の娯楽として鑑賞している。
俺の視覚を通して、その鮮血の色を、断末魔の声を、恐怖に歪んだ表情を、余すことなく味わっているのだ。
『どうだ、我が器。美しいとは思わぬか? これこそが摂理。強き者が弱きを喰らう、ただそれだけの、純粋な営みよ』
脳内に直接響くその声は、震えるほどに甘美で、そして冷酷だった。
祈るような俺の想いが通じたわけではないだろう。
地獄の只中から、眩い光が迸った。
「──五行相克! 火剋金! 滅せよ、邪妖!」
凛とした声と共に、数人の陰陽師たちが妖魔の群れに立ち向かっていた。
胸に桔梗の紋様。
陰陽府の者ではない。
京の街を守護する支部の一つに所属する名も知らぬ術師たちだ。
彼らは巧みな連携で式神を使役し、五行術を駆使して次々と低級妖魔を祓っていく。
その姿は、暗闇に灯った一筋の希望の光のように見えた。
頑張れ。
負けるな。
俺は心の中で必死に応援する。
だが、現実は非情だった。
祓っても祓っても、妖魔の数は減らない。
それどころか、破壊された建物の影から、路地裏から、マンホールの下から、無限に湧き出てくる。
一人の若い陰陽師が結界を張る。
しかし、背後から忍び寄ったカマイタチの一閃が、彼の首を胴体から切り離した。
鮮血が舞い上がり、結界がガラスのように砕け散る。
仲間を失った動揺が、彼らの陣形に致命的な隙を作った。
そこからは、一方的な蹂躙だった。
数の暴力が、鍛え上げられた技と志をいとも容易く叩き潰していく。
術師の背後から、巨大な棍棒が振り下ろされた。
「がッ」
鈍い音がして、術師の頭部が胸のあたりまでめり込んだ。
三メートルはある巨躯の赤鬼が、鬱陶しそうに鼻を鳴らし、ひしゃげた術師の死体を路肩へ蹴り飛ばした。
多勢に無勢。
個の力がどれほどあろうと、この数はどうしようもない。
いなごの大群が畑を食い尽くすように、京都という都市機能そのものが魔に侵食されていく。
夜なのに、異様に明るかった。
燃え盛る家屋、爆発するガソリンスタンド、炎上する車列。
その赫々たる明かりの下で、人間たちが家畜のように解体されていく。
(誰でもいい……誰か……誰か止めてくれ……!)
俺は祈った。
神に、仏に、あるいはこの地獄を終わらせてくれる誰かに。
その時、ふと、ある男の顔が脳裏をよぎった。
金髪にサングラス。
高級ブランドのスーツを着崩した、ふざけた男。
神崎天一郎。
もし、彼がここにいたら。
あの、規格外の現代最強がここにいたら、どうなっていただろうか。
彼ならば、この程度の妖魔の群れなど、欠伸混じりのデコピン一発で消し飛ばしていただろう。
天狗など、彼が放つ覇気だけで墜落しただろう。
山姥も、赤鬼も、彼にとっては道端の小石以下の存在だったはずだ。
きっと指を一つ鳴らすだけで、全ての妖魔を塵も残さず消し飛ばしてしまったに違いない。
都を、人々を、簡単に救ってしまったに違いない。
『……ハハッ』
乾いた笑いが漏れた。
ぬらりひょんの笑いではない。
俺の心の自嘲が、漏れ出たのだ。
俺の選択は、間違っていたのではないか?
俺はあの時、神崎天一郎を封印した。
反射という奇策を使って、彼を彼自身の術で、永遠の牢獄へと閉じ込めた。
奴隷のように扱われている式神を守るためだと思った。
自分の平穏を守るためだと思った。
だが、その結果がこれだ。
世界最強の抑止力を失った世界で、解き放たれた特級妖魔が、誰にはばかることなく殺戮を尽くしている。
本当に封印されるべきだったのは、神崎天一郎ではなかった。
俺だったのだ。
俺と、俺の中に巣食うこの化け物こそが、世界の理から隔離されるべき悪だったのだ。
後悔という名の毒が、胸の奥でどろりと広がる。
「クク、卑屈な思考に耽るな。まだ宴は始まったばかりだぞ」
ぬらりひょんは、俺の沈痛な思考すらも肴にしながら、足を止めた。
百鬼夜行の喧騒が、不意に遠ざかる。
俺たちはいつの間にか、大通りの惨劇を離れ、静まり返った高級住宅街の一角に立っていた。
そこは、見覚えのある場所だった。
『……ふむ。ここから、良い匂いがするな』
高い塀に囲まれた、歴史ある屋敷。
門には賀茂の表札がかかっている。
心臓が、早鐘を打った。
ここは、賀茂家。
俺の許嫁、賀茂粉雪の家だ。
(待ってください。ぬらり様、ここは……!)
制止など意に介さず、ぬらりひょんはずかずかと門をくぐる。
結界が張られているはずだが、特級妖魔を宿した俺の肉体の前では、障子紙ほどの強度も持たないのだろう。
中は、静かだった。
あまりにも、静かすぎた。
外ではあれほどの殺戮と破壊の音が響いているというのに、この屋敷の中だけは、真空パックされたように音が遮断されている。
賀茂家は陰陽師の名門だ。
きっと、皆で外の妖魔に応戦しているに違いない。
あるいは、屋敷の奥で強力な防衛陣を敷いているのか。
だが、廊下を進むにつれて、俺の予感はどす黒い確信へと変わっていく。
血の匂いがする。
それも、古びた錆のような匂いではない。
むせ返るような、新鮮な鉄の匂い。
ぬらりひょんが、ある部屋の前で足を止めた。
そこは、俺が遊びに来た時、粉雪とお茶を飲んだことのある客間だった。
障子には、紅葉のような血飛沫が散っている。
嫌な予感が、背筋を氷の爪で撫で上げた。
やめてくれ。
開けないでくれ。
見たくない。
俺の思いを無視して、俺の手は無慈悲に障子を開け放った。
「────」
息が、止まった。
部屋の中央。
畳の上には、赤黒い海が広がっていた。
その中心に、漆黒の獣がいた。
影狼。
粉雪が使役していた、式神。
その影狼が、何かを──誰かを、組み敷いていた。
ピチャ……グチュ……。
濡れた音がする。
影狼の牙が、下にある肉塊に突き立ち、何かを引きずり出し、咀嚼している音だ。 影狼はこちらに気づくと、口元を鮮血で濡らしたまま、ゆっくりと振り向いた。
その瞳は、知的な光を失い、ただただ暴食の衝動に支配された、濁った色をしていた。
そして、その下にあるもの。
ボブカットの黒髪。
透き通るような白い肌。
俺の許嫁、加茂粉雪だった。
彼女の腹部は無惨に食い破られ、内臓がぶちまけられていた。
愛らしかった顔は、苦痛と恐怖に歪んだまま、固まっている。
瞳孔が開いたその目は、虚空の一点を見つめたまま、二度と動かない。
光が、ない。
あ……。
俺の喉から、空気が漏れた。
うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!
魂が、絶叫した。
うそだ。
うそだうそだうそだ。
だって、彼女は強いはずだ。
影狼は、彼女を守る最強の盾だったはずだ。
彼女は俺の許嫁で、俺の唯一の理解者で、俺が守ると誓った相手で。
つい先日、面会に来てくれて、お守りをくれて、泣きながら笑ってくれたばかりで。
なのに、なんで。
なんで、自分の式神に、腹を食われているんだ?
「……解せぬか?」
絶叫する俺の精神とは裏腹に、ぬらりひょんは冷静に、まるで講義でもするように語りかけた。
「式神とは、所詮は術によって縛られた妖魔よ。契約という名の首輪で、人間に飼い慣らされているに過ぎん」
ぬらりひょんが、一歩踏み出す。
影狼は、畏怖するように身を低くし、主であるぬらりひょんに道を譲った。
「我が特級妖術『百鬼夜行』。これは、儂より格下の妖魔を無条件で支配する力。そこに、式神という例外は存在せぬ」
百鬼夜行が発動した瞬間、影狼の権限は、粉雪からぬらりひょんへと強制的に書き換わった。
そして、野生に戻った妖魔にとって、目の前にいる妖力の高い人間は、ただの極上の餌でしかなかった。
彼女は、自分が最も信頼していた半身に、生きたまま食われたのだ。
「哀れなものよな。己が守護者に腹を割かれる気分は、いかほどであったろうか」
ぬらりひょんが、粉雪の亡骸を見下ろして嗤う。
そこにあるのは、人間に対する底知れぬ悪意、愉悦、嘲笑。
人の尊厳を踏みにじることに、至上の喜びを感じている絶対的悪。
俺の頭の中は、絶望などという言葉では生温い、真っ白な虚無で満たされていた。 悲しみも、怒りも、後悔も、許容量を超えてショートした。
ただ、目の前の光景だけが、網膜に焼き付いて離れない。
俺が、殺した。
俺が神崎天一郎を封印し、俺がぬらりひょんを受け入れ、俺がこの怪物を世に解き放ったから。
だから、粉雪は死んだ。
俺が、彼女を食わせたんだ。
ああ、そうか。
絶望とは、こういうことなのか。
希望も、怒りも、悲しみさえも感じない。
ただ、心が空っぽの虚無に満たされる。
感情というものが、最初から存在しなかったかのように、綺麗に消え失せる。
俺という存在が、ただの抜け殻になっていく。
俺は、もう、どうでもよかった。
世界が滅んでも、俺がどうなっても。
「絶望しろ、人間ども」
遠のく意識の中、ぬらりひょんの囁きが聞こえた。
「その魂が砕け散る様こそ、我ら妖の糧となる。絶望し、嘆き、苦しみ、己の無力さを呪いながら、死んでゆけ」
その声に宿っていたのは、千年の時を経てなお色褪せない、純粋で、凝縮された、底知れぬ悪意だった。
人間という種そのものに向けられた、絶対的な憎悪。
精神が、虚無の向こう側へと完全に砕け散ろうとした、その瞬間。
不意に、ぬらりひょんの意識の奥底から、濁流のような何かが俺の魂へと流れ込んできた。
それは映像であり、感情であり、記憶の奔流だった。
燃え盛る炎。
響き渡る悲鳴。
そして、黄金の妖気を纏い、神々しいまでの力で数多の妖魔を薙ぎ払う、一人の男の姿──。
それは、ぬらりひょん自身と、俺の遠い祖先、その過去の記憶の残滓だった。
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※ショッキングな展開ですが、バッドエンドにはしません。ご安心ください。




