嵐の前
屋敷の修復工事を告げる槌音が、遠くから聞こえてくる。
夏の盛りを告げる蝉時雨が、結界の外から押し寄せていた。
俺こと、土御門遥明の生活は、一言で言えば堕落していた。
「……よーし、レベルアップ」
陰陽府から支給された携帯ゲーム機の画面の中で、勇者がファンファーレと共に勝利のポーズを決める。
俺はベッドに寝転がったまま、気だるげに欠伸を噛み殺した。
指先にはポテトチップスの塩気。
サイドテーブルには、キンキンに冷えたコーラ。
「遥明様、おやつの時間でございます」
部屋に入ってきたのは、以前の女中たちとは違う、陰陽府から派遣された世話係だ。
ワゴンには、俺のリクエスト通り、特製プリンと焼きたてのスコーンが載っている。
俺はゲーム機を置き、起き上がる。
快適だ。
文句のつけようがない。
だが、胸の奥に空いた穴のような空虚感だけが、どうしても埋まらない。
『…………』
ぬらりひょん。
神崎天一郎という規格外の怪物を封印するために力を使い果たしたあと、深い眠りについたままだ。
あの時、俺の体を駆け巡っていた万能感、指先一つで世界を書き換えられるような圧倒的な妖力の奔流は、今はもうない。
「……静かすぎるのも、考えものだな」
俺はプリンを掬い、口に運ぶ。
濃厚な卵の風味が広がるが、それを共有して「美味である」と尊大に宣う同居人の声は、今日も聞こえることはなかった。
*
そんな、日々が続くなかで。
俺に、面会が許可された。
場所は屋敷の応接間。
周囲には監視役の陰陽師が四人、壁のように立っている。
物々しい雰囲気の中、襖が開いた。
「遥明……!」
駆け込んできたのは、一人の女性。
母、土御門小夜だった。
最後に見た時は、死相が浮かび、骨と皮ばかりに痩せ細っていた。
だが今の彼女は、まるで別人のように──いや、本来の美しさを完全に取り戻している。
俺の反転術式が、彼女の因果そのものを書き換えた証明だった。
「お母様、お体はもう──」
「そんなことより!」
俺の言葉を遮り、母は俺を強く抱きしめた。
柔らかい感触と、温かい体温。
花の香りが鼻孔をくすぐる。
彼女は俺の肩を掴んで体を離すと、食い入るように俺の全身を点検し始めた。
「怪我はないですか? 痛いところは? ご飯はちゃんと食べていますか? 怖い人たちに苛められていない?」
「大丈夫です、僕はこの通りピンピンしています」
「ピンピンなものですか! あんな、あんな恐ろしい妖魔が……あなたの中に……」
母の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
彼女は知っているのだ。
俺が特級妖魔の器となり、いつ破裂するとも知れない爆弾として扱われていることを。
「遥明。あなたは、何も悪くないのです。全部、私や、大人たちのせいです。あなたに、こんな重荷を背負わせてしまって……本当に、ごめんなさい」
その言葉に、胸の奥が締め付けられるようだった。
この人は、どこまでも俺の味方でいてくれる。
母から貰った碧色の勾玉は、ぬらりひょんの力を引き出す触媒となり、砕け散ってしまった。
母の命そのものだったお守りは、もうない。けれど。
「違います、お母様」
俺は小さく首を振った。
これは俺が選んだ道だ。
転生者として、この理不尽な世界で生き残るために足掻いた結果だ。
「僕は、今の生活を気に入っていますよ。ご飯は美味しいし、今じゃ誰も僕を無能と馬鹿にしない。それに、お母様がこうして元気になってくれた。それだけで、お釣りが来るくらいです」
「遥明……」
「なんてったって、僕は土御門の長男ですから」
俺が笑ってみせると、母はようやく、泣き笑いのような表情を見せた。
それからの一時間は、他愛のない尋問の時間だった。
昨日の夕食は何だったか、ちゃんと夜は眠れているか(ゲームのしすぎで少し眠い)、お風呂に入れているか、など。
世界の命運や、陰陽道の政治的な話など一切ない。
ただの母親としての、ありふれた、けれど俺にはこれまで縁のなかった心配ごとの数々。
監視役の術師たちが退屈そうにあくびを噛み殺す中、俺はその鬱陶しいほどの愛情を、どこかこそばゆい思いで受け止めていた。
別れ際、母は俺の手を握りしめ、言った。
「絶対に、ここから出ましょうね。景明様にも、そう強く言っておきますから」
「……あまりお父様を責めないであげてください。あの人も、立場があるでしょうから」
「いいえ、許しません。あの方は、あなたの父親である前に、組織の長であることを選んだのですから」
母の目には、以前のような儚さはなく、母としての強烈な怒りと覚悟が宿っていた。
今の母なら、父・景明相手でも一歩も引かずに渡り合いそうだ。
俺は苦笑しながら、去っていく母の背中を見送った。
*
次に許可された面会人は、さらに情緒が不安定だった。
今度の相手は、賀茂粉雪。
陰陽師御三家が一つ、賀茂家の息女にして、俺の許嫁だ。
「遥明さまっ……!」
「うわっ!?」
応接間の襖が開いた瞬間、そこにいたのは、決壊したダムのような少女だった。
黒いボブカットを揺らし、真っ白な頬を涙でぐしゃぐしゃにして、彼女は俺の名を叫ぶなり、俺の体に勢いよく抱きついてきた。
「うわあああん! よがっだ……よがっだですぅ……! 遥明ざま、ごぶじで……!」
小さな体で、しかし万力のような力で俺に抱きつき、粉雪は文字通り号泣した。
しゃっくりを上げ、時折むせながら、ただただ俺の胸に顔を埋めて泣きじゃくっている。
その背中をどうすればいいのか分からず、俺は戸惑いながら、おそるおそるぽんぽんと軽く叩いた。
「こ、こなちゃん……。俺は、大丈夫だから」
「ひっぐ……ごめんなざい、ごめんなざいぃ……! わだしが、ふがいなぐで……なにも、でぎなぐで……!」
何を言っているのかほとんど聞き取れない。
「大丈夫だよ。泣かないでくれ。君のせいじゃない」
俺がそう言うと、粉雪は少しだけ顔を上げた。
涙と鼻水で大変なことになっているが、その潤んだ大きな瞳は、必死に俺を捉えていた。
「でも……! 遥明さまは、あんな恐ろしい化け物と戦って……わ、私は、それを聞いただけなのに、怖くて、足が震えて……何も……」
俺は彼女の目を見て、はっきりと告げた。
「いいや、こうして俺のために泣いてくれる。それだけで、俺は救われてるよ」
俺の言葉に、粉雪はきょとんとした顔をした。
そして、堰を切ったように泣いていたのが嘘のように、ぴたりと涙が止まった。
「誰かに心配してもらって、その上、泣いてくれる。それがどれだけ嬉しいことか、君には分からないかもしれないけど」
俺は、孤独だった。
ずっと、一人だった。
ぬらりひょんという相棒はできたが、彼女は絶対的な強者であり、災厄の化身だ。
俺の弱さに寄り添ってはくれない。
だが、粉雪は違う。
彼女は、俺と同じ地平に立ち、俺の痛みや孤独を分かち合おうとしてくれる。
俺が無能だろうが生きた爆弾だろうが関係なく、ただ土御門遥明という一人の人間として見てくれる。
その存在が、どれほど救いになるものか。
粉雪の顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「そ、そんな……わ、私は、たいしたことなんて……」
「ううん。君はすごいよ。君のすごいところを、たくさん知ってる」
俺はいつかの彼女の言葉を、そのまま返した。
「俺にとっては、誰よりもすごい」
その後の時間は、穏やかに過ぎていった。
「これ……お見舞い、というわけではありませんが」
包みを開くと、そこには綺麗な箱に入った琥珀糖があった。
宝石のようにキラキラと輝く、色とりどりの砂糖菓子だ。
「綺麗だね。ありがとう」
「……硬いので、ゆっくり食べてくださいね。あと、これは……魔除けの御守りです。私が作りました」
添えられていたのは、少し不格好な刺繍の入った御守りだった。
賀茂家の紋が入っているが、縫い目はガタガタだ。
一生懸命、指に針を刺しながら作った情景が浮かぶ。
「大切にするよ。肌身離さず」
「はい……!」
母の無償の愛と、粉雪の曇りない好意。
二人の訪問は、俺の孤独な軟禁生活に彩りを与えてくれた。
*
だが、季節は待ってはくれない。
屋敷の修復が進み、蝉の声が日増しに強くなるにつれ、空気の中に混じる異質な気配が濃くなっていくのを、俺は肌で感じていた。
陰陽道において、日付や方角は絶対的な意味を持つ。
特に、夏という季節は陽の気が極まると同時に、その影である陰もまた濃くなる時期だ。
俺はカレンダーの日付を見る。
赤い文字で印字されているその日は、もう目の前に迫っていた。
──八月八日。
数字の「八」は、末広がりで縁起が良いとされる一方で、その形は、開く門を意味するとも言われる。
陰陽府が発行している古文書には、こう記されている。
一年のうち、最も陰の気が凝縮し、現世と幽世の境界が曖昧になる日。
通称、鬼門開きの日。
又は、妖魔の日、と。
神崎天一郎という最強の抑止力は、自らの術で封印され、ここにはいない。
俺の中の特級妖魔・ぬらりひょんは、沈黙を守ったまま目覚める気配がない。
屋敷を囲む結界は強固だが、それを維持する術師たちにも疲労の色が見え始めている。
全ての条件が、最悪な形で整いつつあった。
八月七日の夜。
俺はベッドに入り、眠りについた。
八月八日。
その日、俺のかりそめの平穏は、音を立てて砕け散ることになる。




