封霊の術
神崎が地面を蹴った瞬間、世界から音が消えた。
いや、俺の知覚が、その速度に追いつけなかっただけだ。
衝撃波が空間を叩き、屋敷の残骸を吹き飛ばすよりも速く、黄金色の妖気を纏った〝理不尽の化身〟が眼前に迫っていた。
ぬらりひょんが操る俺の体は、思考よりも先に動く。
かろうじて後方へ跳躍し、その場から離脱した。
コンマ数秒後、先ほどまで俺が立っていた場所の空間が、神崎の拳によって叩き割られ、ガラス細工のように砕け散る。
「ほう、今のを避けるか。さすがは特級、伊達じゃない」
神崎は心底楽しそうに笑うと、その指先が、指揮者のタクトのように虚空を弾いた。
すると、その掌に太陽が顕現したかのような灼熱の光球が生まれる。
「極光──天照・灼滅」
術の名を口にするのと、極小の太陽が放たれるのはほぼ同時。
視界の全てが紅蓮に染まる。
火炎放射などという生易しいものではない。
太陽フレアを地上に引きずり下ろしたかのような、絶対的な熱量の津波。
石畳が一瞬で灰と変わり、空気中の水分が爆ぜる音だけが鼓膜を叩く。
それは熱線となって空間を焼き切り、直線上に存在する全ての物質を蒸発させながら俺へと殺到する。
「児戯」
ぬらりひょんは冷たく呟き、手を振るう。
どす黒い妖力の奔流が渦を巻き、盾となって熱線を真正面から受け止めた。
光と闇が衝突し、互いを喰らい合う。
凄まじいエネルギーの拮抗が屋敷全体を揺るがし、爆風が荒れ狂った。
だが、神崎の攻撃はそれで終わりではない。
「──『水神禍』」
爆炎の中から、今度は大津波の如き質量の奔流が姿を現す。
水分が凝縮され、数千トンの水塊となって頭上から圧し掛かる。
「──『建御雷神ノ裁キ』」
さらに、天を埋め尽くすほどの紫電が生まれ、無数の槍となって降り注ぐ。
一筋一筋が山を砕く威力を秘めた、まさしく神の怒り。
「──八岐大蛇ノ吐息』」
八つの竜巻が同時に発生し、真空の刃を撒き散らしながら俺を八方から包囲する。
火、水、雷、風。
森羅万象を捻じ曲げ、災害そのものを術式として顕現させる。
しかも、その全てが奥義に匹敵する特級の威力。
神崎天一郎は、それを詠唱の隙すら見せず、呼吸をするように、思考する速度で連発しているのだ。
「無駄、無駄、無駄じゃ!」
ぬらりひょんは、その神業の領域にある飽和攻撃に対し、ただ純粋な妖力の放出のみで対抗する。
黒い妖力が津波を蒸発させ、紫電を飲み込み、真空の刃を砕き割る。
しかし、その表情には、先ほどまでの余裕の色が消えていた。
神崎の妖力は、まるで無限。
その底が全く見えない。
一方、ぬらりひょんの力は、この五歳の肉体を器としている以上、無限ではない。
長期戦になれば、ジリ貧になるのは目に見えていた。
「ははっ、すげぇなババア! 俺のフルコースを真正面から受け止めるとか、マジでありえねぇ! 最高だ!」
狂ったように笑いながら、神崎はさらに術を重ねる。
もはや原型を留めない屋敷の残骸が、天変地異の如き術の応酬によって塵芥と化していく。
ぬらりひょんは、神崎の猛攻を捌きながら勝機を探っていた。
だが、見つからない。
純粋なパワー、技術、スタミナ、その全てにおいて、目の前の男はぬらりひょんが知る誰よりも、あの安倍晴明すらも凌駕しているのかもしれない。
その思考の隙を、神崎は見逃さなかった。
「──だが」
ふ、と神崎の笑みが消えた。
彼が軽く右足で地面を踏みしめる。
それだけ。
たったそれだけの動作だった。
「神通力──『重力加増・千倍』」
瞬間、俺の全身に、天が落ちてきたかのような凄まじい圧力がかかった。
ドゴォッ!
という轟音と共に、俺の体は抵抗する間もなく地面に叩きつけられる。
視界が赤く染まり、骨が軋む悲鳴を上げる。
内臓が潰れ、肺から空気が強制的に搾り出された。
「ぐっ……あ……!」
ぬらりひょんが操っているはずの肉体から、俺自身の苦悶の声が漏れた。
指一本動かせない。
まるで巨大な神の掌に押し潰されているようだ。
「すげぇな、まだ形を保ってるか」
ぬらりひょんの妖力で強化していなければ、瞬時にミンチになっていただろう。
だが、それも時間の問題だ。
「久しぶりに本気になっちまった。結構楽しめたぜ」
神崎が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
その傍らには、先ほど彼が具現化した、あの禍々しくも神聖な『封霊箱』がふわりと浮遊していた。
神通力による物体操作。
「中身が空っぽになったなら、もう一度詰め直せばいい。簡単な理屈だろ?」
神崎の瞳から、遊びの色が消える。
彼は本気で、ぬらりひょんを──いや、俺ごと、再びあの暗闇へ閉じ込めるつもりだ。
万策尽きた。
千年の時を生きた大妖魔が、生まれて三十年ほどの人間に、完膚なきまでにねじ伏せられている。
──その時、俺の意識が、肉体の底から強く呼びかけられた。
『我が器』
ぬらりひょんの声が、精神の奥底に直接響く。
その声には、いつもの傲慢な響きはなく、切羽詰まった焦りが滲んでいた。
『奴を凌ぐには、お主の力が必要じゃ』
(俺の力……?)
『そうじゃ。だが、いつもの「反転」ではない。奴の攻撃は強大すぎる。真正面から性質を変えようとすれば、お主の未熟な器が耐えきれずに崩壊する』
(じゃあ、どうすれば……!)
『「反射」を覚えろ』
(反射……?)
俺の力は、あくまで事象を裏返す『反転』。
相手の力を跳ね返すなんて芸当とは、また違う……。
『反転ができるのならば、出来ないはずがない。お主の術式は、理への介入じゃ。「熱」を「冷」に、「生」を「死」に変えることができるなら、「方向」を変えることも造作もないはずじゃ』
方向を、変える。
俺に向けられたベクトルを、180度反転させる。
『儂の妖力をすべて使い果たしても良い。この身にある残滓の一滴まで、お主にくれてやる』
ぬらりひょんの声に、凄絶な覚悟が滲む。
無茶苦茶だ。
やったこともないことを、この土壇場でやれというのか。
『タイミングは儂が指示する。奴の術が放たれるその瞬間……全神経を研ぎ澄ませろ。相手の力を、そのまま奴に返すのじゃ。お主はただ、術が飛んでくる方向へ、鏡を置くイメージで力を展開しろ』
失敗すれば、俺も、ぬらりひょんも、この場で封印される。
だが、やらなければ、何も変わらずに封印されるだけ。
ぶっつけ本番で、この現代最強の男を出し抜く。
(……わかりました。やってやる)
『よろしい』
その一言を最後に、ぬらりひょんは俺の意識の底で、莫大な妖力を練り上げ始めた。
俺の小さな体の内側で、宇宙が生まれるかのようなエネルギーが渦巻き始める。
地面に這いつくばる俺を見下ろし、神崎天一郎は勝利を確信した表情で、ゆっくりと両腕を広げた。
「じゃあな、ガキ。そして、ぬらりひょん」
神崎が両手を広げる。
彼を中心に、黄金の光が幾何学模様を描き出し、複雑怪奇な曼荼羅を形成していく。
空気が振動する。
世界そのものが、これから行われる儀式に畏怖しているかのようだ。
神崎の口から、厳かな詠唱が紡がれる。
「──謹請す」
その言葉と共に、浮遊していた封霊箱の蓋が開いた。
中から、あらゆる光を飲み込むような漆黒の闇が覗く。
「天の逆鉾、地に満ちる穢れを祓い、常世の檻へ誘わん」
妖力が練り上げられていく。
その密度は、先ほどの陰陽術とは桁が違う。
かつて安倍晴明が特級妖魔を封じた、人類最高峰の封印術式。
逃げることも、防ぐことも許されない、確定した終焉。
「東に青龍、西に白虎、南に朱雀、北に玄武。四神の聖域を以て外敵を払い、内なる災禍を鎮めたまえ」
俺の体を取り囲むように、光の鎖が出現する。
鎖は俺の手足を縛り上げ、魂そのものを肉体から引き剥がそうと食い込んでくる。
(まだか……っ!)
『まだじゃ。待て。引きつけろ』
ぬらりひょんの声が、氷のように冷静に響く。
「五芒の星に誓いて、汝、万劫の闇に眠れ」
神崎の手元に、光の球体が収束する。
あれこそが、封印の核だろう。
あれを打ち込まれれば、俺たちはあの箱の中に吸い込まれ、二度と出ることはできない。
「──逆賊、不浄、外道の悪鬼よ。汝の魂、汝の力、汝の存在そのものを、無窮の檻へと還す」
封霊箱が、ゴウ、と音を立てて激しく振動し始めた。
箱の表面に刻まれた無数の護符が黄金色に輝き、鎖が擦れ合う甲高い音を立てる。
まるで獲物を捕らえるのを待ちきれない、飢えた獣のようだ。
神崎の碧眼が、勝利を確信して細められた。
油断ではない。
絶対的な実力差に裏打ちされた、純粋な事実としての勝利の確信。
「此は人の定めに非ず、天の理。此は人の願いに非ず、地の理。万象の流転を止め、永遠の静謐を此処に顕現せしめん」
だからこそ、隙がある。
彼は夢にも思わないだろう。
5歳の子供が、瀕死の状態で、この絶望的な術式を跳ね返そうとしているなどとは。
そして──。
「──特級妖術・封霊の術!!」
神崎が腕を突き出した。
光の奔流が、俺に向かって放たれる。
世界が白く塗りつぶされるほどのエネルギー。
触れた瞬間に魂を凍結させ、因果の彼方へ追放する神の光。
『──今じゃッ!!! 反射しろ!!!』
ぬらりひょんの叫びが弾けた。
同時に、俺の体内から、どす黒く、それでいて底なしに澄んだ莫大な妖力が溢れ出す。
イメージしろ。
恐怖はいらない。
痛みもいらない。
ただ、目の前に迫る理不尽な光を、鏡のように跳ね返すイメージ。
俺に向かうベクトル。
それを掴み、捻じ曲げ、反転させる。
──あっちへ、いけぇええええええッ!!!!
俺は叫びにならない咆哮と共に、ありったけの意思を込めて、見えない鏡を世界に構築した。
カッッッ!!!!!!!
音が、消えた。
衝突音ではない。
物理法則が軋みを上げ、悲鳴を上げる音なき音。
俺の鼻先数センチまで迫っていた光の奔流が、見えない壁に激突したかのように静止した。
そして次の瞬間。
あり得ない角度で、光が折れ曲がった。
「なっ──!?」
その時、初めて。
常に余裕を浮かべていた神崎天一郎の表情が、信じられないものを見るかのように、驚愕に染まった。
封印術式の対象が、俺から神崎へと書き換わった。
俺に向かっていた封印術というベクトルが真逆に反転し、術者である神崎自身を対象として牙を剥いたのだ。
自分の放った最強の封印術。
その引力が、ゼロ距離で神崎を襲う。
「ま、さか──!」
神崎が回避しようと身を捩る。
だが、遅い。
逃れられるはずがない。それは彼自身が練り上げた、回避不能の絶対的な術なのだから。
封霊箱から伸びた闇の鎖が、神崎の体を雁字搦めにしていく。
彼が抵抗しようと放つ莫大な妖力さえもが、封印の力の一部として取り込まれ、さらに拘束を強めていく。
自らが作り出した、完璧な檻。
皮肉なことに、彼の力が強大であればあるほど、その封印はより強固なものとなるのだ。
「……あああぁあぁぁぁッ!?」
最強の陰陽師が、無様に足をばたつかせる。
だが、安倍晴明の術式は無慈悲だ。
一度捕らえた獲物を、決して逃しはしない。
ズズズズズズ……ッ!
抵抗する間もなく、神崎の体は光の粒子へと分解されながら、小さな箱の中へと吸い込まれていく。
神崎天一郎の体が、抵抗の術なく箱の中へと引きずり込まれていく。
彼の驚愕に染まった碧眼が、最後に俺を捉えた。
「ふざ、けるなァァァァァァァァァァッ!!!!」
断末魔のような絶叫。
それも、最後の一瞬でプツリと途絶えた。
ガコンッ。
重厚な音が響き、封霊箱の蓋が閉じた。
中空に浮かんでいた箱は、支えを失い、重力に従って落下する。
コト、ン……。
乾いた音が、静寂に満ちた瓦礫の山に響き渡った。
「お、終わった……のか……?」
重力の縛めは消えていた。
焦熱も、水禍も、雷鳴も、全てが嘘のように消え去っていた。
そこにあるのは、破壊され尽くした屋敷の残骸と、月明かりに照らされた一つの小さな箱だけ。
最強の特級陰陽師、神崎天一郎。
人類の守護者であり、天災そのものであった男は、皮肉にも自らが用意した牢獄へと封印されたのだ。
全身から力が抜けた。
指先一つ動かせないほどの疲労感が、どっと押し寄せてくる。
意識を保っているのがやっとだ。
ぬらりひょんの妖力も、底をついていた。
空っぽだ。
約束通り、本当に全てを出し尽くしてくれたのだ。
(ぬらり様……ありがとう。助かりました)
俺は心の中で、相棒に呼びかけた。
返事は、すぐにはなかった。
深淵のような沈黙が、俺の内側を満たしている。
やがて。
消え入りそうな、それでいてどこか楽しげな声が、遠くから聞こえた。
『……本当に愚かじゃのう、お主は』
「……え?」
それが、最後だった。
ぬらりひょんの気配は、霧が晴れるように俺の中から消えていった。
まるで、深い眠りについたかのように。
あるいは、もっと深い、何か別の場所へ潜り込んだかのように。
その言葉の真意を問う力は、もう俺には残っていなかった。
安堵と疲労が、泥のように俺の意識を飲み込んでいく。
俺は、月を見上げながら、瓦礫の上で静かに意識を手放した。
傍らには、最強の男を飲み込んだ箱が、ただ静かに鎮座していた。
(ぬらり様……ありがとう。助かりました)
俺は心の中で、相棒に呼びかけた。
返事は、すぐにはなかった。
深淵のような沈黙が、俺の内側を満たしている。
やがて。
消え入りそうな、それでいてどこか楽しげな声が、遠くから聞こえた。
『……本当に愚かじゃのう、お主は』
「……え?」
それが、最後だった。
ぬらりひょんの気配は、霧が晴れるように俺の中から消えていった。
まるで、深い眠りについたかのように。
あるいは、もっと深い、何か別の場所へ潜り込んだかのように。
その言葉の真意を問う力は、もう俺には残っていなかった。
安堵と疲労が、泥のように俺の意識を飲み込んでいく。
俺は、月を見上げながら、瓦礫の上で静かに意識を手放した。
傍らには、最強の男を飲み込んだ箱が、ただ静かに鎮座していた。




