前哨戦
俺は冷や汗で張り付いたシャツの不快感を無視し、目の前の怪物を睨みつけた。
神崎天一郎。
現代最強の陰陽師。
サングラスの奥、サファイアのような碧眼が、値踏みするように俺を見下ろしている。
「……ガキの方に興味はなかったんだがなぁ」
瞳には、先ほどまでのゴミを見るような無関心さはなく、得体の知れない玩具を見つけた子供のような、無邪気で残酷な光が宿っていた。
「お前も『訳あり』ってことか。そりゃあそうだよな。特級妖魔なんていう劇物を、その貧相な体に封じ込められて生きてるんだ。普通のガキなわけがねぇ」
彼は首をコキリと鳴らすと、ポケットに手を突っ込んだまま、わずかに身を引いた。
様子見、としよう。
神崎天一郎の辞書に「念には念を」や「万が一」という言葉は存在しない。
彼にとって、世界は常に彼の掌の上で転がる予測可能な盤面だ。
ただ、あまりに簡単にこの遊びを終えてしまうのが、少しだけ勿体なくなった。
それだけの、気まぐれだった。
「出てこい、雪那」
神崎は独りごちると、何もない空間に右手を差し入れた。
まるで水面に手を入れるかのように、彼の腕が空間の揺らぎに呑まれていく。
そして引き抜いた時、純白の、氷のように冷たい女の手を握っていた。
ズ……、と影が伸びる。
そこから引きずり出されるようにして、一人の女が姿を現した。
床に届きそうなほど長い、白銀の髪。
血の気のない透き通るような白い肌。
身に纏うのは、死に装束を思わせる純白の着物だ。
まるで平安の絵巻から抜け出してきたかのような、この世のものとは思えぬ美貌。
だが、その瞳には何の感情も宿っておらず、ただ主の命令を待つ精巧な人形のようだった。
(……雪女)
俺は息を呑んだ。
ただの妖魔ではない。全身から放たれる妖気の密度が桁違いだ。
「紹介するよ。最上級の式神・雪那。俺の『道具』だ」
神崎は、雪女の肩に無造作に腕を回した。
彼女──雪那は、抵抗する素振りも見せず、うつろな瞳でただ主人のなすがままになっている。
「なぁ、土御門のぼくちゃん。性交って分かるかなー?」
唐突に投げかけられた言葉に、俺は思考を一瞬停止させた。
神崎は、教育番組のお兄さんのようなハキハキした声で、吐き気を催すような言葉を続ける。
「大人が子供を産むためにする行為のことだよー。気持ちいいんだーこれがー。保健体育で習うにはまだ早いか? ああ、お前学校行ってねぇんだっけ」
神崎の手が、雪那の着物の襟元に乱暴に差し込まれる。
屈辱に染まるわけでもなく、ただ冷たい人形のようにそこにあるだけだった。
「でもね、こいつは式神だから人間の子を孕まないんだ。分かる? つまり──ヤリ放題ってわけ。壊れるまで好きにできる。なあ、雪那?」
グイ、と雪那の美しい水色の髪を強引に鷲掴みにする。
痛みに顔を歪めることさえ許されていないのか、彼女は無表情を貫いていた。
「こいつを抱くのにも飽きたんだよな。反応薄いし」
神崎は、まるで飽きたおもちゃを捨てるかのような口調で言い放ち、俺を見据えた。
「それでさ、提案なんだけど。お前んち、土御門家にも可愛い式神とかいるんだろ? 俺に一体くれないかな? パパに頼んでみてよ。『神崎くんが、新しいオモチャを欲しがってたよ』ってさ。そしたら、この子はいらなくなるから交換しようぜ」
──プツン。
俺の中で、何かが切れる音がした。
恐怖は消えていない。
足は震えている。
だが、それ以上に、頭に一気に血が昇った。
こいつは、畜生だ。
現代最強?
安倍晴明の再来?
ふざけるな。
こんな男が、人類の守護者であってたまるか。
式神にも心はある。
俺の許嫁、粉雪を守ろうとした影狼のように。
それを、こんな……。
『……挑発に乗るな、小僧』
脳裏に、ぬらりひょんの冷静な声が響いた。
『奴はわざとお主を怒らせておる。未熟な精神を揺さぶり、ボロを出させるためじゃ。……まあ、品性下劣なのは素であろうがな』
(でも……っ!)
『お主では、この男と式神を同時に相手にはできん』
ぬらりひょんの言葉は、冷酷な事実だった。
俺の反転術式は確かに強力だが、俺自身の身体能力は5歳児でしかない。
神崎本人が動かずとも、あの雪女の攻撃を受ければ、反応する前に凍りついて終わる。
『儂に体を貸せ』
(……え?)
『ぐずぐずするな。敵は待ってくれないぞ』
雪那の周囲で、氷の礫が無数に生成され始めていた。
殺気などない。
ただ事務的に、主人の命令に従って俺を排除しようとする、無機質な殺意。
体を、明け渡す。
それは、俺という意識が、この肉体の主導権を完全に手放すことを意味する。
一度手綱を離してしまえば、この災厄の化身が何をしでかすか分からない。
最悪の場合、二度と俺の意識は戻ってこないかもしれない。
それは、とてつもなく危険な賭けだ。
だが、目の前で虚ろな目をしている雪那と、それを嘲笑う神崎の顔を見ていると、理屈や損得勘定が思考から消え失せていく。
(……お願い、します)
俺は、震える声でそう念じた。
俺に戦闘経験など、一度もない。
相手は、この世界の頂点に立つ最強の陰陽師。
普通に考えれば、ゲームのチュートリアルでいきなりラスボスと戦うようなものだ。
勝てるはずがない。
俺が主導権を握ったまま死ぬより、この老獪な妖魔に賭ける方が、生存確率は高い。
『──しばしの間、交代じゃ』
その瞬間だった。
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
視界が暗転する。
いや、物理的に目が塞がれたのではない。
俺という意識が、肉体という器の底へ、急速に沈んでいく感覚。
冷たい。
暗い。
そして、酷く甘美で、粘り気のある何かが、俺の全身を内側から塗り替えていく。
それは、世界への冒涜にも似た、おぞましい感覚だった。
俺の手足が、俺のものでなくなる。
俺の肺が、俺の知らない呼吸を始める。
脳髄の奥底に、千年の時を生きた怪物の膨大な妖力が、黒い泥のように流れ込んでくる。
俺の意識は、深い闇の底で、水面を見上げるような視点へと切り替わった。
そこには、俺の体を借りて立ち上がるぬらりひょんがいた。
「……ふぅー……」
俺の口から、艶かしく、そして重厚な吐息が漏れた。
わずか5歳の少年の体。
だが、その立ち姿から滲み出るオーラは、先ほどまでの怯えた子供のものではなかった。
背筋が伸び、顎が上がり、半眼に開かれた瞳には、深淵の闇が渦巻いている。
周囲の空気が、重く澱んだ。
雪那が放つ冷気さえもが、その禍々しい妖気に当てられ、たじろぐように揺らぐ。
「おっ、ぬらりひょんのババアが出てきたか」
神崎が、嬉しそうに口笛を吹いた。
サングラスをずらし、露わになった碧眼で、興味津々に俺ぬらりひょんを見つめている。
「よお、特級さん。七百年ぶり? シャバの空気はどうよ?」
「……カビ臭い陰陽師の臭いが鼻につくわ」
俺の口が、俺の意思とは無関係に動き、嘲るような言葉を紡ぐ。
「生意気言うねぇ。……ま、歓迎してやるよ」
神崎が右手を掲げる。
彼の手のひらに、金色の光が集束する。
「神通力・具現化」
光が形を成す。
それは、正方形の立方体。
表面に無数の護符と鎖が刻まれた、禍々しくも神聖な箱。
俺が地下祭殿で見た、封霊箱そのものだった。
ただし、中身は空っぽ。
神崎がイメージだけで作り出した、高密度の牢獄だ。
「お前が入ってた箱だ。またそこに押し込んでやるよ」
神崎が残酷に笑い、指を鳴らした。
「雪那、やれ」
命令一下、雪女の式神が動いた。
彼女はすっと両手を俺──ぬらりひょんへと向ける。
その瞳に、先程までの虚ろさはなかった。
あるのは、主の命令を遂行する兵器としての冷徹な殺意のみ。
「──氷瀑」
雪那が両手を広げると、屋敷の天井を突き破り、巨大な氷柱が生成された。
それらが大気を凍てつかせながら、ミサイルのような速度でぬらりひょんへと殺到する。
だが、ぬらりひょんは動じない。
俺の小さな手を、優雅に、舞うように振るった。
「無粋」
衝突音。
だが、それは氷が肉体を貫く音ではなかった。
不可視の壁に激突し、氷塊が砕け散る音だ。
ぬらりひょんの体から溢れ出した漆黒の妖力が、ドーム状に展開され、全ての攻撃を受け止めていた。
ぬらりひょんは一歩も動いていない。
ただ、溢れ出る妖力をわずかに操作しただけ。
それだけで、最上級クラスの式神を圧倒している。
「極天凍覇・氷皇ノ吐息」
雪那の唇から、神速で凍てつく吹雪が放たれた。
触れたもの全て絶対零度の世界へと引きずり込む究極の凍結術式。
空気が白く凍りつき、畳が、壁が、天井が、一瞬にして純白の氷の結晶と化していく。
だが、ぬらりひょんは動じなかった。
「児戯よの」
俺の体が、右手をひらりと振るう。
たったそれだけの動作。
莫大な、どす黒い妖力の塊が奔流となって溢れ出し、迫りくる吹雪と衝突した。
ジュウウウウウウウッ!!
極寒と灼熱がぶつかり合うような凄まじい音を立て、吹雪は俺に届く前に蒸発し、霧散した。
雪那は怯むことなく、間髪入れずに次の術を放つ。
「霜天百華・繚乱氷槍!」
周囲の空間から無数の氷の槍が生成され、全方位から弾丸のように俺へと殺到する。
一撃一撃が戦車を貫くほどの威力を持つ、まさしく必殺の弾幕。
「無駄じゃ」
ぬらりひょんは、その無数の槍を、ただ指先で弾き、拳で砕き、あるいは身をひるがえして紙一重で躱していく。
まるで、降りしきる雨の中を、一滴の雨粒にも濡れずに歩くかのように。
全ての攻撃は、膨大な妖力によって物理的に相殺され、あるいはその圧倒的な体捌きによって無力化されていく。
「ふむ」
神崎が、顎をさする。
「やはり違うな」
ぬらりひょんの戦い方は、圧倒的な妖力に物を言わせた、極めて物理的なゴリ押し。小細工など一切ない、王者の戦い方だ。
「あの芸当は、ババアの力じゃねぇ。ガキの固有能力だ。」
神崎の視線が、熱を帯びる。
だが、すぐに冷酷な色に戻り、瓦礫の中で身を起こそうとしている雪那を見やった。
「しかし最上級じゃ、特級には敵わねぇな」
神崎の姿が、ブレた。
次の瞬間、彼は雪那の目の前に立っていた。
「もういいぞ、無能」
「あ、主さま……申し訳ありま……」
ドゴォッ!!
鈍い音が響いた。
神崎の足が、雪那の腹部に深々とめり込んでいた。
雪女の華奢な体が、ボールのように弾き飛ばされ、中庭の石灯籠を粉砕して転がっていく。
ピクリとも動かない。
死んでないないだろうが、戦闘不能は明らかだった。
「…………」
ぬらりひょんが操る俺の目が、すぅ、と細められた。
「荒いご主人じゃなあ。己の道具をなんと心得る」
「道具だから捨てるんだよ。使い物にならなくなったからな」
神崎は靴の汚れを払うように足を振ると、ゆっくりとこちらへ向き直った。
その全身から、黄金色の妖力が立ち上り始める。
先ほどの雪女とは比較にならない。
空間そのものが軋み、悲鳴を上げるほどのプレッシャー。
現代最強。
その称号が伊達ではないことを、肌で感じる。
「さて、前座は終わりだ。俺が直々に相手をしてやる」
神崎がサングラスを外し、放り投げた。
「ババア、俺と踊ってくれ」
神崎が地面を蹴る。
音速を超え、衝撃波を置き去りにして、世界の理不尽が迫る。




