未知
広間を包み込む柔らかな静寂と、鼻腔をくすぐる濃厚なデミグラスソースの香り。 そこは、陰陽師たちの総本山たる土御門家の本邸でありながら、世界から切り離された檻の中だった。
俺は、スプーンの縁でふわりとした卵の黄色い山を崩した。
とろりと溢れ出す半熟の卵液が、黒褐色のソースと混ざり合う。
それを掬い上げ、口へと運ぶ。
舌の上で解ける卵の甘み、バターライスとケチャップの絶妙な酸味、そして深みのあるデミグラスソース。
味覚という単純な幸福が、俺の脳髄を痺れさせる。
『ほう、これもまた珍妙な味じゃな。鶏の卵を焼いたものか? それにしても、この黒い汁はなんと濃厚な』
脳裏に直接響くのは、粘り気のある老獪な声。
俺の魂の奥底、そこに居候している特級妖魔――ぬらりひょんの感想だ。
五感を共有するこの妖魔は、俺が感じる味覚を我が物として楽しんでいるらしい。
(オムライスと言います。西洋の料理です)
『西洋か。随分とハイカラなものを食うようになったものよ。……しかし、悪くない』
平和な夜だった。
屋敷の外には、陰陽府の精鋭や芦屋家の監視部隊が張り付き、蟻の這い出る隙もない結界が張られていると聞く。
だが、裏を返せば、それらが防壁となって俺の平穏を守っているとも言えた。 誰にも邪魔されず、誰にも罵られず、ただ美味いものを食って寝る。
このまま、この豪華な鳥籠の中で一生を終えるのも悪くない──そんな思考が、不意に頭をもたげる。
その時だった。
──バリイイイイイイイイイイインッ!!
耳をつんざくような破壊音が、世界を割った。
音の発生源は窓でも障子でもない。
もっと根本的な、空間そのものが悲鳴を上げているような音だ。
「……な、なんだ?」
『……来るぞ、我が器よ』
ぬらりひょんの声色が、先程までの享楽的なものから一変していた。
その声音に含まれていたのは、警戒と、そして微かな愉悦。
(……何が、ですか?)
『人間じゃ。だが……ありゃあ、人間という枠に収まる器ではないな』
俺が問い返すのと同時だった。
ドォォォォォォォォンッ!!
広間の入り口、重厚な欅造りの襖が、何の前触れもなく内側へ弾け飛んだ。
爆風が屋内を荒れ狂い、畳が紙切れのようにめくれ上がる。
飾られていた高価な壺が粉砕され、掛け軸が舞い踊る。
「うわっ……!」
俺は咄嗟に身を屈め、とっさにオムライスの皿を抱え込んで庇った。
舞い上がる砂煙と木屑。
破壊の嵐が吹き荒れる中、俺は本能的な恐怖に喉を震わせながら、入り口の方角を見上げる。
月光を背負い、砂煙の向こうに一人の男が立っていた。
派手な金色の髪に、黒いサングラス。
身に纏うのは狩衣でもスーツでもなく、あちこちにジッパーのついたパンクなジャケットと、ダメージ加工の入ったデニム。
陰陽師という厳格な世界において、あまりにも異質で、場違いな風貌。
まるでロックミュージシャンが迷い込んできたかのようだ。
だが、一目見て俺の本能が、警鐘を乱打していた。
ヤバい。
これは、生物としての次元が違う。
男がそこに立っているだけで、大気が歪んでいるように見えた。
彼を中心に重力が狂い、世界が彼にひれ伏しているような錯覚。
圧倒的な「個」の質量。
そこにいるのは人間ではない。
人の形をした、天災そのものだ。
男は土足のまま、めくれ上がった畳を踏みしめ、悠然と歩を進めてくる。
サングラス越しの碧眼が、俺を見下ろした。
いや、俺という肉体を通り越し、その奥底に潜む特級妖魔を正確に射抜いていた。
「よう。君が土御門の坊ちゃんかい?」
男は親しげに言った。
だが、その声には絶対的な王の威圧感が宿っている。
逆らえば死ぬ。
答えを間違えれば死ぬ。
呼吸をするだけでも許可がいる。
そんな理不尽な圧力が、俺の肺を押し潰そうとしていた。
俺は震える喉を抑え、生存本能だけでなんとか言葉を絞り出す。
「……そ、そうですけど……あなたは?」
男はニヤリと笑った。
その笑顔は、あまりにも爽やかで、屈託がなく、そして絶望的に凶悪だった。
「神崎天一郎。通りすがりの天才だ」
神崎天一郎。
現代最強。
安倍晴明の再来。
本来ならば雲の上の存在であるはずの怪物が、なぜか今、俺の目の前に立って、オムライスの残りを眺めている。
「さて、中のババアにご挨拶といこうか」
神崎が右手を、無造作に持ち上げた。
中指と親指が重ねられ、銃の形が作られる。
その銃口が、俺の眉間に向けられた。
たったそれだけの動作。
妖力を練る素振りも、詠唱もない。
だというのに、俺の肌がチリチリと焼けるような感覚を覚えた。
向けられた指先から放たれる殺気が、物理的な熱量を持って俺の皮膚を焦がしているのだ。
「おっと、ガキを殺さないように気をつけないとな」
彼にとっての問題は、相手をどう倒すかではない。
どうすれば殺さずに済むか、だ。
先ほど、屋敷の入り口で邪魔をしてきた上級術師たちのように、単なる妖力の圧を放てば、この貧弱な5歳の肉体は風船のように破裂してしまうだろう。
それでは面白くない。
中のぬらりひょんを引きずり出し、物理的に再封印して遊ぶという目的が果たせない。
神崎の中で、瞬時に術式が構築される。
手加減に手加減を重ね、相手を生かさず殺さず、四肢の自由だけを奪う精密な技。
『来るぞ、我が器!』
ぬらりひょんの叫びが、凍りついた俺の意識を叩き起こした。
『わしの妖力を貸してやる! イメージしろ、理を裏返せ!』
俺の腹の底から、どす黒く、しかし温かい奔流が湧き上がる。
それはぬらりひょんから供給された、莫大な妖力の塊だった。
俺はそれを掴み取る。
自分に向けられた神崎の指先。
そこから放たれようとしている死のイメージ。
それを直視し、解釈し、そして──拒絶はんてんする。
刹那。
「最上級妖術・鎌鼬・乱舞」
神崎が指を弾くと、爆風が生まれた。
たったそれだけの動作が、起爆剤となる。
それはただの風ではない。
高度に圧縮された真空の刃。
屋敷の空気が一瞬にして凶器へと変わり、数百、数千の不可視の刃となって俺へと殺到する。
畳が細切れに刻まれ、天井板が削げ落ち、舞い散る塵さえもが微塵切りにされる。 触れれば最後、皮膚を裂き、肉を抉り、手足の腱だけを正確に断ち切る、コントロールされた暴風。
物理法則を超越した速度で迫るその暴力に対し、俺は動けなかった。
5歳の身体能力で反応できるはずもない。
だが、俺の思考だけは、極限の集中の中で加速していた。
(風だ……全てを切り裂く、鋭利な暴風)
その事象を、掴む。
そして、反転術式を発動させる。
──『反転』。
俺は、迫りくる切り裂く暴風という事象の定義を書き換えた。
「鋭利」を「柔和」に。
「強風」を「微風」に。
ぬらりひょんの膨大な妖力が燃料となり、世界の法則に干渉する。 因果の歯車が、ギチリと音を立てて逆回転した。
ゴォォォォォォ……ッ!
眼前にまで迫っていた真空の刃の嵐が、俺の鼻先数センチで、唐突にその性質を変じた。
物理的な相殺ではない。
壁にぶつかって止まったのでもない。
嵐そのものが、最初から「そよ風」であったかのように、ほどけたのだ。
ふわり。
神崎天一郎の金髪が、優しく揺れた。
頬を撫でる風は、春の野辺を吹き渡るそれのように穏やかだった。
「……あ?」
神崎の口から、間の抜けた声が漏れる。
サングラスの奥の瞳が、わずかに見開かれた。
彼は自分の指先を見つめ、次に無傷の俺を見つめ、そして自分の頬を撫でていった風の行方を目で追った。
周囲の畳はズタズタに切り裂かれている。
天井も壁も、鎌鼬の余波で無惨な姿を晒している。
だというのに、直撃コースにいた俺と、その背後のオムライスだけが、湯気を立てていた。
「……んだそりゃ」
神崎天一郎は、人生で初めての感覚に襲われていた。
術が不発だったのか?
いや、あり得ない。
術式の構築にミスなど万に一つもあり得ない。
手加減を誤ったか?
今の出力は完璧に計算されていた。
本来なら、両腕と両足の腱が切れ、床に転がっているはずだった。
(相殺したのか? ……違う)
神崎の脳が、常人離れした速度で回転を始める。
相殺ならば、妖力同士の衝突による衝撃波が生まれるはずだ。
防御結界ならば、防いだ瞬間の火花や反応があるはずだ。
だが、今起きた現象は、そのどちらでもない。
術が、途中で別の何かにすり替わった。
暴風というエネルギーのベクトルが、消滅したのではなく、質的に変換された。
(ぬらりひょんの力か? いや……)
特級妖魔・ぬらりひょんの能力は百鬼夜行。
自分より格下の妖魔を無条件で支配し、使役する王の能力だ。
風を操るような記録はないし、ましてや敵の術式を無効化するような搦手は奴の領分ではない。
(じゃあ、誰がやった?)
神崎の視線が、再び俺に突き刺さる。
目の前の少年は、恐怖に顔を青ざめさせながらも、どこか冷静な瞳でこちらを見返している。
「……テメェか?」
神崎の声から、軽薄な色が消えた。
代わりに滲み出たのは、純粋な好奇心。
そして、退屈な日常に開いた風穴を覗き込むような、底知れぬ探究心だった。
「何だ今のは? 防御じゃねぇな。無効化でもねぇ」
神崎が一歩、踏み出す。
先ほどまでのゴミ掃除に向けるような無関心さは消え失せていた。
彼はサングラスを指先で少しずらし、露わになった碧眼で俺をねめつける。
「面白い」
その言葉とともに放たれた覇気は、先程までの比ではなかった。
何十年ぶりだろうか。
退屈で、灰色で、分かりきっていた世界に、初めて未知という名の亀裂が入った。




