広い檻
俺が五年という歳月を過ごし、それなりに慣れ親しんだはずの屋敷は、まるで別の世界に迷い込んだかのように変貌していた。
視界に入る風景は同じだ。
豪奢な襖絵、磨き抜かれた廊下、手入れの行き届いた中庭。
だが、そこにあるべき音と気配がごっそりと抜け落ちている。
異様なまでに、シンとしていた。
父の威圧的な足音も、使用人たちが忙しなく行き交う衣擦れの音も、姉たちが修練に励む掛け声も、何一つ聞こえない。
もぬけの殻。
それもそのはずだ。
陰陽道の頂点に君臨する名門・土御門家の広大な本邸には、今、俺しかいないのだから。
「ほう、それが千年後の肉料理か。見た目は泥団子のようじゃが、匂いは悪くない」
俺の思考を遮るように、鈴を転がしたような涼やかな声が響く。
目の前の皿に視線を落とせば、そこには肉汁をたっぷりと閉じ込めたハンバーグステーキが鎮座していた。
艶やかなデミグラスソースが絡み、その横には黄金色のフライドポテトと、鮮やかな緑のブロッコリーが添えられている。
ナイフを入れれば、じゅわ、と透明な肉汁が溢れ出した。
「……美味い」
ひとくち運び、思わず呟く。
前世では当たり前のように食べていた洋食が、この世界では——少なくとも、伝統を重んじる土御門家では——ほとんど出てこなかった。
味気ない和食や精進料理ばかりだった俺にとって、これは革命的な美味さだった。
転生前の記憶にあるジャンクなそれとは違う、専属シェフが腕によりをかけた極上の逸品だ。
三食きちんと、しかもリクエストが通る。
カレー、パスタ、オムライス。
無性に恋しかった洋食の味を、陰陽府の息がかかった調理班は忠実に再現してくれた。
「ふむ。確かに悪くない。千年の間に、人間も少しはマシなものを食すようになったと見える」
視線を上げれば、漆黒の着物に桜吹雪の意匠を散らした絶世の美女が、重力などないかのように宙に揺らめいていた。
伝説の特級妖魔、ぬらりひょん。
彼女は幽霊のように実体のない霊体となって、俺の周囲をふわふわと漂っている。
彼女(便宜上そう呼ぶ)は、俺の精神世界に引きこもっているのが退屈になると、こうして粉雪の式神、影狼のように外へ出てくる。
俺の五感とリンクしているため、こうして外の世界を観察するのが今の彼女の娯楽らしい。
俺が感じる味を共有し、満足げに頷くその姿は、とてもではないが世界を滅ぼしかねない災厄の化身には見えなかった。
「こんなに美味しいものが毎日食べられるなら、幽閉生活も悪くない……」
「たわけ。飼い慣らされるでないわ、我がしもべよ。このような餌で喜んでいては、真の王の器にはなれぬぞ」
なんだ、王の器って……。
尊大な物言いに、俺は内心でため息をつく。
だが、彼女の存在がこの途方もない孤独を和らげてくれているのも事実だった。
食事を終えた俺は、ナプキンで口を拭い、屋敷の中を歩き始めた。
行ったことのない場所に行っていい。
これまで俺の世界は、自室と、たまに忍び込む書庫、そして中庭の隅だけだった。
だが今は違う。
父の執務室だろうが、姉たちの部屋だろうが、客間だろうが、どこへでも入り放題だ。
自由だ。
自由って素晴らしい。
誰からも「無能」と蔑まれる視線を感じることなく、堂々と廊下の真ん中を歩ける。
俺は広い庭を散歩しながら、この奇妙な隔離生活が始まった数日前の出来事を思い出していた。
*
やはり俺の処遇についてはそれなりに揉めたらしい。
結果、俺は陰陽府本庁の地下牢獄のような一般的な監獄ではなく、住み慣れた土御門家の屋敷に、たった一人で軟禁されることになった。
一見すれば温情措置にも見えるが、その理由はもっと実務的で、かつ政治的なものだ。
「遥明。お前の処遇が決まった」
陰陽府の封魔の檻から移送された俺にそう告げた父・景明の声は、息子にかけるそれではなく、一つの案件を処理する事務的な響きを帯びていた。
「お前は、土御門の本邸にて隔離管理されることとなった。追って、陰陽府の研究員が定期的に訪れ、お前の調査を行う」
本来なら、俺のような危険因子は最も厳重な本庁の地下深くで永久幽閉されるのが筋だ。
それをわざわざ私邸に、しかも一人で、というのは不可解だった。
俺の疑問を読み取ったように、景明は淡々と説明を始めた。
「理由は三つある。一つ。お前の反転術式の特性だ。あの儀式で、お前は無意識に『封印』という理を『解封』へと覆した。審議会では、その無意識の干渉が、精神的な不安定さに起因して暴走する危険性が指摘された。本庁の地下には、他の封印された妖魔や、危険な妖具、妖術犯罪を犯した罪人が無数に存在する。お前という制御不能の爆弾を、火薬庫の真ん中に置くわけにはいかん」
なるほど、と納得した。
ぬらりひょんという最強の封印を破った実績があるのだ。
他の妖魔の封印を反転させて、地獄の蓋を開けてしまう可能性を危惧するのは当然の判断だろう。
俺が癇癪を起こした拍子に、封じている結界が「解除」へと反転したら?
あるいは、牢獄の壁の強度が「脆弱」に反転したら?
国家を揺るがすレベルの災厄が収容されている本庁の地下にとって、俺はそれら全ての安全装置を無効化しかねない歩く鍵なのだ。
他の危険物から物理的に距離を取る、それは当然の判断だろう。
俺の持つ反転術式は、俺自身が意図せずとも、感情の高ぶりや生命の危機に呼応して発動するリスクがある。
地下祭殿でぬらりひょんの封印を解いてしまったように、俺が精神的に不安定になれば、周囲のあらゆる理を反転させかねない。
「二つ目は、霊脈的な意味合いだ。この屋敷は安倍晴明公が育った地であり、日本でも有数の清浄な霊脈が通っている。その霊脈がお前の異質な力を浄化し、安定させるのではないか、という期待……まあ、これは賀茂の婆様の進言による、気休めのようなものだがな」
賀茂雪鶴。
許嫁である粉雪の祖母だ。
彼女が俺のために情状酌量を求めてくれたのだろう。
その心遣いはありがたいが、正直、眉唾ものだと思っていた。
そもそも、その晴明の封印をぶち破ったのが俺とぬらりひょんなのだから、今さら土地の力に頼ったところでどれほどの効果があるというのか。
「そして、三つ目だ」
景明はそこで一度言葉を切り、俺の目を真っ直ぐに見据えた。
「これは、私に対する政治的制裁だ。土御門家は、今回の事態の監督責任を問われ、本邸を陰陽府に明け渡す。私を含め、お前の母も、姉たちも、使用人も、全員この屋敷から追放される」
つまり、この屋敷はもはや土御門家のものではなく、陰陽府が管理する巨大な研究施設であり、俺はその中心にいる実験動物ということになる。
「これは、『土御門の象徴』を陰陽府が接収したという、明確な意思表示だ。土御門宗家当主たる私が、最大の失態を犯したのだからな。お咎めなしとはいかん」
もちろん、未来永劫というわけではないだろう。
俺の反転術式の危険性と有用性が解明され、制御可能だと判断されれば、家族も屋敷も戻ってくるかもしれない。
だが、それはいつになるか分からない。
「安心しろ。お前の身の回りの世話や食事は、陰陽府の専門部署が行う。外は最上級の【結界】術師たちが固め、監視役として芦屋家と『暗部』の者が交代で就く。家族であろうと、許可なく近づくことはできん」
敵対する芦屋家。
陰陽府の汚れ仕事を引き受ける非情な集団、暗部。
その者たちが、俺を監視する。
それは、俺がもはや土御門家のハズレ息子ではなく、国家が管理する一個の兵器あるいは危険物として、完全に定義し直されたことを意味していた。
*
「……ま、俺にとっては好都合だけどな」
美しい日本庭園のさらに向こう、屋敷を囲む塀の外の空気が陽炎のように歪んでいる。
最高強度の多重結界だ。
外を守っているのは土御門の私兵ではない。
陰陽府直属の術師たちが、二十四時間体制で監視の目を光らせている。
「広い檻じゃな」
ぬらりひょんが、的確な表現で現状を刺した。
そうだ、ここは楽園ではない。
俺は土御門家本邸そのものに隔離された、籠の中の鳥なのだ。
「随分と大事にされたものじゃな、我が器よ」
霊体のぬらりひょんが、結界の外を眺めながら面白そうに言った。
「まるで国宝の壺でも見るような目つきで、蟻の子一匹通さぬと息巻いておるわ。滑稽よのう」
家族すら近づけない絶対隔離。
そんな生活の中で、日課となっている時間があった。
毎日午後二時になると、玄関の呼び鈴が鳴る。
やってくるのは、陰陽府の研究員と名乗る白衣の男たちだ。
彼らは一様に顔を引きつらせ、まるで時限爆弾を扱うかのような手つきで俺に接してくる。
陰陽府は俺をただ飼い殺すつもりはなく、その力を戦力として運用する方法を模索し始めていた。
目的は、俺の反転術式のデータ収集である。
「ええと……は、遥明様。本日はこちらの『錆びた短刀』で検証をお願いします」
震える手で差し出されたのは、赤錆に覆われたボロボロのナイフだった。
俺はため息を一つつき、ハンバーグのカロリーを消費するつもりで指先をかざす。
「はいはい。……『反転』」
イメージするのは、酸化という現象の逆流。
錆びつき、朽ちていく時間の流れを、精錬された直後の状態へと裏返す。
俺の中にある、ぬらりひょんの膨大な妖力が、俺の術式というフィルターを通して世界に干渉する。
──キィン。
澄んだ金属音が響いた。
一瞬にして赤錆が剥がれ落ち、そこには鏡のように輝く白銀の刃が現れた。
新品同様、いや、それ以上の輝きを放っている。
「す、すごい……! 金属疲労はおろか、分子構造レベルで再構成されている……!」
研究員が興奮して数値を記録する。
こんな調子で、俺は様々なものを反転させられていた。
次に『汚れ』。
泥だらけの布を渡され、その『汚れ』を『清潔』へと反転させる。
洗濯など不要、一瞬で純白に戻った。
次に『におい』。
腐った生ゴミのような悪臭を放つ瓶を渡された時は殺意が湧いたが、それも『芳香』へと反転させた。
瓶からは高級な香水のような香りが漂い出した。
そして『重さ』。
大の大人が二人掛かりで運んできた巨大な岩。
俺が触れて『重力』への干渉をイメージし、その質量的な概念を反転させると、岩は発泡スチロールのように軽くなった。
俺が指一本で持ち上げると、研究員たちは腰を抜かしていた。
「……ふむ。興味深い」
実験を見ていたぬらりひょんが、研究員の目には見えない位置で呟く。
俺は心の中で問いかけた。
(何がですか?)
(変化の質じゃ。通常の妖術による強化は、あくまで妖力で無理やり補強しているに過ぎぬ。ゆえに時間が経てば妖力が霧散し、元に戻る。だが……)
ぬらりひょんの言う通りだった。
この数週間の実験で、ある一つの恐るべき事実が判明していた。
俺が反転させたものは、永続的にその状態を維持するのだ。
以前、切れ味の悪い包丁を『鋭く』反転させた。
その包丁は、一週間使い続けても、硬い骨を断ち切っても、一切刃こぼれせず、カミソリのような切れ味を保ち続けている。
通常の妖力強化なら数時間で効果が切れるはずだ。
だが、俺の術は違う。
対象の状態そのものを、因果のレベルで書き換えている。
だから、俺がもう一度術を使って『再反転』させない限り、その包丁は永遠に名刀であり続けるし、軽くなった岩は二度と重くならない。
「理そのものを書き換えて固定する、か。……神の御業に近いな、それは」
研究員たちの恐怖と興奮が入り混じった視線を感じながら、俺は自分の手のひらを見つめた。
実験は物質的なものに留まらなかった。
最後に試したのは『感情』の反転だ。
パニックに陥りかけた研究員に対し、その『恐怖』を『安らぎ』へと反転させたことがある。
彼は一瞬で仏のような穏やかな顔になり、作業効率が劇的に向上した。
だが、これは危険だ。
人の心を、人格そのものをいじくり回すのと同義だからだ。
「じ、実験終了です! 今回もご協力ありがとうございました!」
研究員たちが、恐怖と興奮が入り混じった視線を俺に向けながら、逃げるように去っていく。
再び、静寂が屋敷に戻ってきた。
俺は広間のソファに深々と身を沈める。
孤独な王様。
籠の中の鳥。
呼び名は何でもいい。
少なくとも、誰からも期待されず、ただ血を残すためだけの種馬として蔑まれていた頃よりは、今の生活の方が幾分かマシに思えた。
腹の中に、世界を滅ぼせる爆弾を抱えていることを除けば、だが。
「さて、夜のデザートは何かのう?」
妖艶な同居人が、待ちきれない様子で俺の顔を覗き込んでくる。
その瞳は、千年の孤独を経てもなお、子供のような好奇心に満ちていた。
俺は苦笑しながら、今日の夜食のメニューに思いを馳せた。




