陰陽府
地下祭殿に充満していた濃密な妖気は、嵐が去った後のように不気味な静寂へと変わっていた。
崩壊した石畳、ひび割れた祭壇、そして砕け散った伝説の封霊箱。
その中心で、一人の幼い少年が糸の切れた人形のように崩れ落ちていた。
土御門遥明。
齢五つの、景明の息子。
その小さな体には、かつて安倍晴明が封印した特級妖魔ぬらりひょんの魂が宿っている。
「……ッ」
土御門景明は、焼け付くような喉の痛みと共に、乾いた息を吐き出した。
全身を駆け巡っていた妖力は枯渇し、命を削って召喚した十二天将の代償が、骨の髄まで軋ませる。
誰もが理解していた。
これは勝利ではない。
世界を滅ぼしかねない最悪の事態──ぬらりひょんの完全復活を、紙一重で先送りにしたに過ぎないのだと。
目の前に横たわる我が子を見る。
その胸元には、黒々とした禍々しい梵字が皮膚の下を這うように蠢いている。
六部の術師たちが命を削り、景明が全霊を注いで施した、人道を外れた人柱の封印。
(これで終わりではない。むしろ、ここからが地獄だ)
景明は震える手で懐から護身用の短刀を取り出すと、躊躇なく自身の左手親指の腹を切り裂いた。
鮮血が滴り落ち、石畳に赤い染みを作る。
彼はふらつく足取りで昏睡する遥明のもとへ歩み寄ると、血の滲む指先を、幼い息子の額へと無造作に押し当てた。
これは傷を癒やすための術でも、情愛の証でもない。
「──縛めよ。我が血を以て楔と為す。汝、自らの命を絶つこと罷ならず」
呪言と共に、遥明の額に紅い紋様が浮かび上がり、すぐに肌の奥へと吸い込まれて消えた。
『自害禁呪』。
遥明の意思に関わらず、自ら命を絶つ行動を無意識レベルで阻害し、肉体の機能を強制的に維持させる【呪縛】。
中にいるぬらりひょんは、遥明の死を利用して輪廻の輪へ逃れようとするだろう。
それを防ぐための杭を打った。
「……御当主様」
背後から、恐るおずるといった声がかかる。
振り返れば、生き残った陰陽府の精鋭六部たちが、蒼白な顔で景明を見つめていた。
彼らの視線は、景明と、その足元に倒れる遥明を行き来している。
景明は一瞬、全てを闇に葬る算段を巡らせた。
この場にいる者たちの口を強引に塞ぐか。
記憶を操作するか。
あるいは──全員始末して、事故に見せかけるか。
だが、即座にその考えを捨てた。
無理だ。「六部」は精鋭揃いであり、彼らの精神防壁を瞬時に書き換える余力も、始末する体力も、今の景明にはない。
何より、先ほどの封印崩壊の衝撃は、既に地上の感知結界を激しく揺らしているはずだ。
陰陽府の監視班が、この異常な妖力波を見逃すはずがない。
隠蔽は不可能。
下手を打てば、土御門家は宗主の座を追われるどころか、国家への反逆と見なされ破滅する。
「……総員、聞け」
景明は声を張り上げた。
当主としての威厳を、無理やりにでも取り繕う。
「『ぬらりひょん』の封印は破損した。だが、我が子・遥明の肉体を依代とし、再封印には成功した。……この事実は、直ちに『陰陽府』へ報告する」
報告する。
それはつまり、遥明の身柄を土御門家の管理下から離し、公的機関に引き渡すことを意味する。
もはや息子ではなく、国家が管理すべき特級の危険物として。
「遥明を拘束せよ。最大級の封魔結界を用いた檻へ移送する。……丁重に扱え。彼奴の情緒が乱れれば、中の化け物がどう動くか分からんぞ」
「はッ!」
術師たちが遥明を担架へと乗せる。
非情な宣告に、誰も異を唱えない。
それが最も合理的で、唯一の選択肢であることを理解しているからだ。
景明は、もう一度だけ、地面に転がる遥明に目を落とした。
親としての情は、とうの昔に捨てた。
いや、捨てたつもりでいた。
だが、その胸の奥底で、冷たい鉄の爪が心臓を掻きむしるような、鈍い痛みが確かに存在していた。
しかし、その感傷に浸る時間は、もうない。
*
土御門家の屋敷からわずかに離れた、古都・京都の中心部。
烏丸通りの喧騒の遥か下、地下鉄や古の遺跡群よりもさらに深く、一般人がその存在すら知覚できない大深度地下に、この国を裏側から支配する中枢が存在する。
『陰陽府』。
かつて律令制の下に置かれた陰陽寮の流れを汲みつつも、より強大に、より隠秘的に進化した組織。
表向きの政府や警察が手出しできない妖魔や妖術犯罪を取り締まるだけでなく、この国の霊的国防を一手に担う最高意思決定機関である。
政治、経済、そして裏社会。
あらゆる場所に根を張り、この国の陽と陰のバランスを調整する彼らの決定は、時として法律すら凌駕する絶対的な強制力を持つ。
その構造は厳格だ。
構成員は、御三家や特級術師たちのみならず、汚れ仕事を請け負う実働部隊「暗部」、禁忌の妖具管理を行う「保管局」、そして罪人を裁く処刑執行機関「粛正課」などが連なる。
土御門景明は、御三家の筆頭としてこの陰陽府においても強大な発言権を持つ一人であった。
議題となるのは、自らの監督不行き届きによって生まれた災厄。
その器となった、実の息子。
父親という立場は、致命的なまでに弱い。
この状況で息子への情を見せれば、それは即座に判断の曇りと見なされ、土御門家の主導権は永久に失われるだろう。
あらゆる発言は、保身や身内贔屓と取られるだろう。
あらゆる発言は、保身や身内贔屓と取られ、揚げ足を取られるだろう。 普段ならば景明にへつらう有象無象も、ここぞとばかりに牙を剥き、糾弾の声を上げてくるに違いない。
特に、土御門家と常に対立している芦屋家の連中が、この好機を逃すはずがなかった。
案内されたのは、本庁の地下にある一室。
がらんとした石造りの部屋の中央に、幾重にも張り巡らされた光の糸で編まれた、鳥籠のような結界が設置されていた。
陰陽府が誇る最高の結界術師たちが、即席で作り上げた『封魔の檻』だ。
冷ややかに管理されたその姿は、もはや人間ではなく、今にも爆発しそうな不発弾そのものだった。
「……しばらくは、これで持ちこたえられるかと。ですが、かの特級妖魔が本気で内から揺さぶれば、長くは……」
術師の一人が、汗を拭いながら報告する。
その言葉が意味するのは、一刻の猶予もないということ。
だからこそ、審議会は異例の速さで執り行われる。
「緊急審議会の召集が完了いたしました。今より三十分後、於て『天円ノ間』にて開かれます」
それは、遥明が特級妖魔の器となってから、わずか二時間後のことである。
この国の頂点に立つ陰陽師たちが、すべての予定を投げ打って集結する。
事態の深刻さが、その事実一つで痛いほどに伝わってきた。
「……あと三十分、か」
午前零時。
景明は腕時計に目を落とし、重苦しい溜息をついた。
遥明の肉体を滅ぼすことは、すなわちぬらりひょんの魂を解放し、輪廻転生の環へと解き放つことを意味する。
封霊箱が魂を封じ、転生すら許さぬ飼い殺しの牢獄であったように、奴を外に出さないことが最優先事項となる。
ならば、下される判断は一つしかない。
『永久幽閉』。
殺せぬのなら、死ぬまで閉じ込めておくしかない。
光の届かない地下の最下層、時間すら凍結させたような石牢の中に、遥明を放り込む。
人間としての尊厳など認められない。
ただ生きた封印箱として、呼吸をするだけの肉塊として、数十年、あるいは寿命が尽きるまで飼い殺しにする。
(……種馬として飼い殺す、と私は言ったか)
景明は、かつて自分が遥明に向けた冷酷な言葉を思い出し、自嘲した。
皮肉なものだ。 種馬ならば、まだ子孫を残すという生物としての役割があった。
屋敷の中とはいえ、空を見ることも、四季の移ろいを感じることも許されただろう。
だが、陰陽府の管理下に置かれれば、それすら奪われる。
無限の闇。
絶対の孤独。
それは死よりも遥かに残酷な、生きたまま落ち続ける地獄だ。
コツ、コツ、と硬質な足音が廊下に響く。
振り返ると、陰陽府の黒服職員が立っていた。
「土御門様。お時間です」
「……ああ」
景明は表情を能面のように凍らせ、立ち上がった。
ここから先は、武力ではなく、政治と舌戦の戦場だ。
審議会は戦場だ。
情に訴えれば侮られ、弱みを見せれば食い物にされる。
必要なのは、揺るぎない覚悟と、相手を圧倒する理論武装、そして、あらゆる非難と罵倒を浴びてなお、決して折れぬ鋼の精神。
「……行ってくる」
景明は眠り続ける息子に背を向け、扉を開けた。




