共生関係
果てしなく続く畳の回廊。
どこまでも連なる襖絵。
そこは、物理法則が意味を成さない精神の迷宮だった。
俺、土御門遥明は、その非現実的な空間の中で、あろうことか伝説の特級妖魔、ぬらりひょんの太ももを枕にして横たわっていた。
視界を覆うのは、闇を織り込んだような黒髪と、透き通るような白い肌。
そして、桜吹雪の意匠が施された黒い着物から漂う、甘く危険な香り。 彼女――性別などないはずの妖魔がとっている絶世の美女の姿は、あまりにも完成されすぎていて、恐怖よりも先に美への畏敬の念を抱かせる。
しばらくの沈黙が、畳の海に満ちた。
俺は膝枕をされたまま、ぬらりひょんが何を考えているのか、これから何をされるのか、必死に思考を巡らせる。
だが、心を読む相手に策など弄しようもない。
不意に、ぬらりひょんが口を開いた。
「これは儂の仮説だがな。お主、己のその奇妙な術が、なぜ宿ったのか考えたことはあるか?」
「奇妙な術……反転術式のことですか?」
「それ以外に何がある。晴明の記録にもない、この世の理から外れた異端の力。儂も千年生きてきて、あのような術は見たことも聞いたこともない」
ぬらりひょんは楽しげに目を細めると、俺の髪を弄りながら、独り言のように語り始めた。
「お主のその奇妙な力──『反転術式』がなぜ宿ったのか。そして、なぜ儂の封印を解くに至ったのか。その答え合わせをしてやろう」
俺は息を呑んだ。
それは俺自身も、生まれてからずっと問い続けてきた謎だったからだ。
「遥明、お主は別の理がある世界からやってきた転生者であろう? この世界の理において、魂とは世界のルールに従って肉体に定着するものだ。今の世は、あの晴明の死によって『陰』に大きく傾いている。故に、生まれ落ちる魂もまた、その『陰』の理に適合した形で肉に馴染む。だが……お主の魂は違った」
ぬらりひょんの指先が、俺の胸元系─心臓の上あたりをトン、と叩く。
「お主の魂は、『全く異なる世界の理』で構成されていた」
「異なる、理……」
「そうだ。陰が極まったこの世界にとって、異世界の理を持つお主の魂は、言うなれば『異物』じゃ。本来ならば、肉体が魂を拒絶し、お主は生まれる前に霧散して死んでいたはずだ。……事実、お主は死産として扱われたのであろう?」
そこで、俺の脳裏に、生まれてきた瞬間の記憶がフラッシュバックする。
父・景明の苛立ち。
産婆の絶望した声。
息をしていないという死産の宣告。
そうだ。
俺は一度死んで生まれた。
それを無理やり繋ぎ止めたのは、父・景明の強大な妖力だった。
「思い出したか? あの瞬間こそ、お主の『反転術式』が産声を上げた時よ。土御門という強力な『陽』の血脈が、消えかけた異物を無理やり肉体に繋ぎ止めようとしたのだ」
ぬらりひょんの声が、確信に満ちた響きを帯びる。
「考えてみよ。異世界の理を持つ魂が、この世界の極まった『陰』の圧力に押し潰されようとしている。魂は生きようと足掻く。その生存本能が、最後の自己防衛として選択した手段──それが、『降りかかる世界の理を、己が知る理へと裏返す(反転させる)』という性質だったのではないか?」
俺の脳裏に、生まれた瞬間の記憶が蘇る。
父の妖力が流れ込んできた時、焼けるような苦しみの中で感じた、あの裏返る感覚。
死が生へ。
絶望が希望へ。
「お主の記憶にある『死産からの蘇生』の瞬間こそが、その能力発現の最大の引き金だろうの。この世界でお主が生きていくためには、この世界の理を否定し、反転させなければならなかった」
彼女は妖艶に微笑み、結論を口にする。
「つまり、反転術式とは、本来は生きることのできないこの世界で、お主が生きるために働いた生存本能そのもの。……いわば、その副産物というわけじゃな」
俺が必死に磨き、縋ってきたこの力は、俺が異邦人であることの何よりの証明であり、この世界に対する拒絶反応そのものだったのか。
「事実、お主はこうして生きている。その結果こそが、仮説の正しさを証明しておるよ」
ぬらりひょんは納得したように頷くと、天井のない虚空を見上げた。
「そりゃあ、かの安倍晴明もそんな術は使えんわな。奴はこの世界の理の頂点に立つ男だった。世界の理そのものを愛し、愛された男だ。理を否定することなど出来ない。これほどまでに特殊な出自が理由とあっては、再現性などあろうはずもない」
かつての宿敵に対する皮肉と、わずかながら敬意のようなものが言葉には混じっていた。
そして視線を再び俺に戻し、口角を吊り上げる。
ぬらりひょんは嘲るように笑うと、俺の髪を弄びながら続けた。
「そして、その特異な性質が、儂を解放した」
「……どういうことですか」
「晴明の封印は、確かに強力だった。千年の時を経てもなお、儂を完全に縛り付ける絶対の『理』。じゃがな、お主の術の前では、その絶対性こそが命取りとなった」
ぬらりひょんの瞳が、妖しい光を湛える。
「晴明の封印が強固であればあるほど、反転術式は、それを裏返すための強大なバネとして作用した。……皮肉なことよな。最強の盾を砕いたのは、最強の矛ではない。盾の表裏をひっくり返して無価値にする、『反転』という性質だ」
封印が『強固』であればあるほど、それを『脆弱』へと反転させる力が増す。
安倍晴明が残した最強の遺産が、皮肉にも俺というイレギュラーな存在によって、最悪の形で裏返されてしまった。
その事実が、重く、重く俺の魂にのしかかった。
俺は、ぬらりひょんの言葉を反芻していた。
転生者であること。その異質さこそが、反転術式の根源であること。
そして、その力が千年の封印を破るきっかけとなったこと。
あまりに突飛で、荒唐無稽な話だ。
だが、不思議と納得できてしまう自分がいた。
なぜなら、俺はずっと感じていたからだ。
この世界における、言いようのない疎外感を。
土御門家での冷遇とはまた違う、もっと根源的なズレを。
「ところで、お主には前世の記憶があるのか?」
思考の海に沈んでいた俺を、ぬらりひょんの声が引き戻す。
「……まあ、一応は」
「ほう。して、お主のいた世界は、どのような世界だった?」
興味津々といった様子で、ぬらりひょんが身を乗り出す。
悪戯を企む子供のような無邪気な顔だった。
俺は少し迷った後、ぽつりぽつりと語り始めた。
「……平和な世界でした。少なくとも、今よりはずっと」
「平和、とな」
「一番の違いは……妖力がない。当然、妖魔も存在しない」
そう、俺がいた元の世界──近代日本には、陰陽師も、妖術も、そして人を喰らう妖魔もいなかった。
闇に潜む何かに怯える必要はなかった。
人々はもっと別のもの──金や、人間関係や、将来のことで悩んでいたが、命そのものが脅かされる理不尽は、この世界に比べれば遥かに少なかった。
俺の言葉を聞き、ぬらりひょんは一瞬、きょとんとした顔をした。
それから、何かを理解したように、ふっと息を吐く。
「……そうか。妖魔がおらぬのか。それはさぞ、平和であろうな」
その言葉は、驚くほど静かで、どこか寂しげな響きを帯びていた。
千年の時を争いと混沌の中で生きてきた大妖魔にとって、敵のいない世界というのは、想像もつかない退屈な地獄なのか、それとも憧憬の対象なのか。
その美しい横顔に浮かんだ微かな憂いは、俺の胸を奇妙に締め付けた。
「平和すぎて、退屈だったかもしれませんけどね」
俺が少しおどけて見せると、彼女はふっと表情を戻し、再び傲慢な笑みを浮かべた。
「フン、平和ボケした魂だからこそ、この殺伐とした世界に馴染めず、反転などというひねくれた力が芽生えたのであろう」
そう軽口を叩きながら、彼女は俺の頭を膝から下ろすことはしなかった。
「……さて、最後に現状の確認といこうか」
感傷的な雰囲気を振り払うように、ぬらりひょんはパンと手を打った。
「封印のことだが、現状、儂はお主のその矮小な肉体に縛り付けられた格好だ。忌々しいことに、お主の父と六部とかいう雑兵どもが、お主自身を新たな『封霊箱』にしおった」
ぬらりひょんは心底不愉快そうに顔をしかめる。
「だがな、あの窮屈な箱の中に押し込められていたことを思えば、何倍もマシよ。こうしてお主と話すこともできるし、お主の五感を通して、うつしよの様子を眺めることもできる」
ぬらりひょんはそう言うと、品定めするように俺の魂を上から下まで眺めやった。
「しかし……改めて見ても、お主の妖力は実にカスいのう。赤子同然、いや、そこらの雑魚妖魔の方がまだマシやもしれん」
散々な言われようだが、事実なので反論もできない。
俺の妖力は、陰陽師の家系としてはありえないほどの最下級だ。
「……仕方がない、家賃代わりだ。儂の力を貸してやる」
彼女は呆れたように肩をすくめ、しかしどこか楽しげに提案した。
「……ぬらり様の力を?」
「ああ。お主の肉体という名の我が城が、そう易々と壊れてはつまらんからな」
それは、魅力的な提案だった。
この特級妖魔の力を借りることができれば、俺を無能と蔑んだ連中を見返すことなど容易いだろう。
だが、同時に、悪魔の囁きでもある。
この妖魔が、何の対価もなしに力を貸すはずがない。
「……見返りは何ですか」
「見返りか……そうさな、とりあえず、しばらくは『自害』するのをやめてやろう」
「なっ……!」
「驚くことでもなかろう。儂は今、お主の肉体を使えばいつでも死ねる。そして輪廻の輪に乗り、完全な肉体を得て復活することも可能だ。それをせぬまま、お主の遊びに付き合ってやろうと言うのだ。感謝せい」
とんでもない爆弾を抱え込んでしまったことを、改めて実感させられる。
しばらく、か。……やろうと思えばいつでもやる、としか聞こえないが。
俺が皮肉を込めて胸中で呟くと、ぬらりひょんは楽しげに喉を鳴らした。
「その通りよ。お主の生殺与奪の権は、実質的に儂が握っている。精々、儂を楽しませてみせよ。……それに儂にはな、このうつしよで成し遂げたい野望がある。お主には、その手駒として働いてもらう」
野望。
その言葉が、ぬらりひょんの瞳に昏い炎を灯す。
それがどんなものなのか、想像もつかない。
だが、ろくでもないことだけは確かだ。
ぬらりひょんは、膝の上の俺の顔を覗き込むように、その絶世の顔を近づけてきた。
吐息がかかるほどの距離で、桜色の唇が弧を描く。
「では、これからよろしくたのもう。……我が半身、我が器、そして……我が最初のしもべよ」
こうして、俺と特級妖魔の、奇妙で歪な共生関係は幕を開けた。
無能の烙印を押された落ちこぼれの少年と、千年の封印から解き放たれた災厄の化身。
この出会いが、陰に傾いた世界を、そして俺自身の運命をどう塗り替えていくのか。
まだ、誰も知る由はなかった。




