第三十三章 風間医院の奥底(第三話)
「玄之助。今、ちょっと入ってもいいかな? 紹介したい人がいるんだ」
「私に……ですか? はい、どうぞ」
玄之助の了承を得て風間が隣の引き戸を開けると、梅の部屋とは対照的に、柔らかな昼の光が差し込んでいた。
(あれ?)
戸口に立った瞬間、清志郎は違和感を覚えた。
匂いがしない。
廊下まで漂ってくる薬草の匂いが、この部屋の前だけ、ぷつりと途切れている。
目を凝らすと、部屋の四隅に、黒々とした炭がいくつか置かれていた。
(炭か。なるほど……)
部屋の中央に、男が座っていた。
三十路を少し過ぎたあたりだろうか。
端正な顔立ちをしているが、どこか影がある。
男の視線が、清志郎のところで止まった。
「風間先生、新太殿。私に紹介したいという方は、そのお武家様でしょうか?」
穏やかな声だった。
特に警戒心も敵意もない。
ごく自然に、客人を迎えるような口ぶりだ。
「ああ、そうだよ。私の知り合いの榊清志郎殿だ。まだ完全に決まった訳ではないが、私の仕事を手伝っていただきたいと思っているんだ」
「左様でございますか。榊様、私は玄之助と申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」
玄之助は丁寧に頭を下げた。
静かに達観したような落ち着きがあった。
一見、どこも通常の人間と変わった様子は見受けられない。
「急に訪れてすまない。榊清志郎だ。こちらこそ、よろしく頼むよ」
「あ、いえいえ。どうぞ、お座りください」
「では、失礼する」
玄之助に促され、清志郎は部屋に上がった。
風間と新太も続いて入ってきて、一同が腰を落ち着けた。
清志郎が顔を上げて玄之助を見ると、なぜか先程の穏やかな表情とは打って変わり、何かを耐えるような顔つきになっていた。
「ど、どうした? 気分が悪いのか?」
「い、いえ……」
玄之助は大丈夫だという素振りを見せるが、明らかに何かに耐えているようで、清志郎は焦った。
「榊殿、申し訳ない。少し玄之助から離れて座っていただけますか? 玄之助は匂いに敏感なのですよ」
「匂いに? えっ、俺、臭います?」
思いがけない事態に、清志郎は慌てて玄之助から少し距離を取りながら、自分の袖の匂いを嗅ぐ。
「榊様、私のために不快な思いをさせて、大変申し訳ございません」
「あ、い、いや……」
(最近風呂には入ったんだが……朝、寺のあの汚ねぇ部屋の掃除をしていたからか?)
清志郎が事態をよく飲み込めないまま生返事をすると、風間が玄之助に言った。
「玄之助、榊殿に理由をお話しして」
「はい。榊様、少し、失礼なことを申し上げるかもしれませんが、よろしいでしょうか?」
「ああ、なんだ?」
玄之助は静かに清志郎の方へ向き直り、そっと目を細めた。
「榊様から……その……血の匂いがいたします」
「――! ち、血の匂い……」
清志郎は苦笑いをしてみせたが、内心では激しく動揺した。
(に、匂いって……俺が奴らを斬ったのは、もう何日も前のことだぞ。わかるっていうのか?)
「はい。それと……ああ、いえ、何でもございません」
余程言いにくいのか、玄之助は途中で言葉を断った。
「いやいや、そこまで言われると気になるんだが。気にしないから言ってくれよ。絶対に怒らないからさ」
清志郎は顔を引きつらせながらも、精一杯の笑顔を玄之助に向けた。
「左様で? では……あの、本当にお気を悪くされないでくださいね」
「ああ、大丈夫だって」
玄之助は一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。
「……死んだ人間と同じ匂いも、しております」
部屋の空気が、しんと静まり返った。
清志郎は返す言葉が見つからず、ただ玄之助を見つめた。
玄之助は静かに頭を下げた。
「そ、そうか」
清志郎の耳の奥で、冷たい水中にいるような、くぐもった音が響き始めた。
段々とその音が大きくなり、意識が暗い水底へと飲まれていく。
――――
「……生きてるつもりか? 榊」
「お前は一度、死んでる……俺にはわかる。死んだ奴の匂いがする」
――――
(また、お前か黒川! うるせぇ! うるせぇよ!)
「おい、清志郎、何呆けてるんだよ」
新太の声で、意識が現実へと引き戻される。
「あ、ああ。悪い。ちょっと、思い出して……」
「何をだよ?」
「いや、大したことじゃないんだ」
新太にはそう返したものの、清志郎の動揺は皆に見抜かれていた。
「やはり、言うべきではございませんでした。お許しください。ただ……嗅ぎ取ってしまうもので……」
「俺が言ってくれって頼んだんだ。謝らなくていいんだよ。……ただ、その……驚いたな。まるで自分の過去を言い当てられているようだ。凄いな……」
風間は、玄之助と清志郎のやり取りを終始興味深そうに見ていた。
「要らぬ力です。これのせいで私は職を失いました」
「玄之助は何をしていたんだ?」
「実家の家業を継いで『匂い袋師』をしておりました。小さい頃は、ちょっと人より鼻が利く程度で、何も問題はなかったのです。父からも、家業を継ぐ才があると喜ばれておりました。ところが、二十代の後半になる頃には次第に匂いに敏感になり、仕事に支障をきたし始めました。三十を過ぎると、匂い袋を手に取るだけで倒れてしまい、全く仕事ができなくなってしまったのです」
「それで風間医院に?」
「はい、新太殿が、ここへ連れて来てくれたのです。それからは風間先生のお薬をいただいて症状はだいぶ良くなりました」
玄之助はそう言って、にこやかに微笑んだ。
だが、その目の奥には、長い年月をかけて積み重なったような、静かな疲労が滲んでいた。
(謎の症状に苦しむ毎日からは解放されたが、家族と職を失ったんだ。無理もねぇよな……『要らぬ力』か)
しばらく話した後、玄之助の部屋を後にした。
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白杜 深月(小説)/ココロの迷宮(YouTube)
@shiramori_lab
和風ダークファンタジー小説『澄斬姫 ―女神の妖刀―』を執筆中。
江戸の闇と人の情、そして神の祟りを描く物語。
カクヨム・なろう・Nolaで連載。
YouTube「ココロの迷宮」では心理と恐怖をテーマにしたショート動画を制作。
静かに語る物語を、静かに愛してくださる方へ。
※画像と動画はAIを使用しています。
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