第三十三章 風間医院の奥底(第四話)
これまですんなりと、患者の部屋に入れてくれた風間だが、今回は廊下で立ち止まり、慎重に患者について説明を始めた。
「次の患者は、十代後半の娘さんです。彼女の症状はこれまでの二人とは違い、近づいた者に害を与える可能性があります。部屋に入っても近づかないようにしてください。まぁ、彼女の方から距離を取ってくるとは思いますが」
「どういうことですか?」
「彼女……菫は、皮膚から毒性の体液を分泌するんです」
「ど、毒?」
「ええ。下手に触ると高熱を出して死んでしまうこともある厄介なものでしてね」
「そんな! それじゃあ誰とも触れ合えないじゃないですか」
「ええ、そうです。ですから彼女は心も病んでいます。くれぐれも慎重に対応してください」
風間は念を押すように言った。
清志郎は、これから出会う菫の反応を色々と想像しながら、深く頷いた。
「菫、私だ。入ってもいいかい?」
「はい……」
部屋の中から蚊の鳴くような小さな声が返ってきた。
風間が静かに引き戸を開けると、部屋の奥に小さな人影が見えた。
壁際に座って、布団にくるまっている。
菫は清志郎の姿を目にすると、驚いたように肩を震わせ、顔を青ざめさせた。
「せ、先生、そのお方は? 私のことはちゃんと話してくださったんですか?」
「ああ、もちろんだよ、心配しないで。菫、こちらは知人の榊清志郎殿だ。この医院に、どのような患者がいるか理解していただきたくてね」
菫の視線が、清志郎に向けられる。
目には強い警戒の色があったが、それよりも、何か別のものが滲んでいた。
(怯えている。でも、きっと俺が怖いんじゃない……むしろ逆だな)
清志郎は、努めて平静を装いながら挨拶をした。
「驚かせてすまない。榊清志郎だ。よろしく」
「よ、よろしくお願いいたします。あの……それ以上、近づかないでください」
か細い声だった。
拒絶というより、懇願するような声音だった。
「ああ、わかった。ここにいるよ」
清志郎は戸口に立ったまま、動かないことを示すように、その場にゆっくりと腰を下ろした。
菫はしばらく清志郎を見つめていた。
警戒は解けていない。
ただ、少しだけ、力が抜けたようだった。
「榊殿、少しよろしいですか」
風間が清志郎に向き直り、改まった様子で言った。
「菫の症状を、実際に体験していただきたいのです」
「え? な、何を仰るんですか先生!」
清志郎より先に、悲鳴のような声を上げたのは菫の方だった。
「菫、指一本で少し触れるだけだ。さぁ、この手拭いでしっかり体液を拭って。榊殿、ご安心を。乾いた状態なら触れても痺れる程度で済みますので」
(……痺れる? 確かに、はっきりこの身で確かめておきたいものだな。本当に体から毒を出す人間などいるのかどうか)
「承知しました。構いませんよ」
清志郎は快諾した。
菫は、風間が差し出した手拭いを緩慢な動きで受け取り、清志郎に、念を押すように恐る恐る訊ねた。
「……本当に、よろしいので?」
菫の目は怯えていた。
毒を受けるのは、清志郎の方だというのに。
清志郎は、思わず菫の揺れる瞳に見入った。
一体、彼女はどんな過去を持って、ここに来たのだろう。
「ああ。俺は体は丈夫な方だから、大丈夫。触れてみて」
菫は一瞬、強く唇を結んだ。
それから、小さく頷いた。
「わかりました」
菫は、手拭いで自身の両手を丁寧に何度も拭い、着物に覆われていない顔の体液も気にしたのか、顔にも手拭いをしっかりと押し付けた。
「では……」
菫が清志郎にそっと近づいてくる。
暗い表情に隠されていたが、よく見るとなかなかに整った顔立ちだ。
(紗世と、さほど歳は変わらなそうだな……)
「さ、榊様、手を」
清志郎は左手を菫の前に、ゆっくりと差し出した。
菫の人差し指が、清志郎の左手の甲に微かに触れた。
「――っ!」
一瞬、蜂に刺されたような痛みを感じ、思わず手を引いた。
菫に触れられたところから、痺れがじわりと左手全体へ広がっていく。
「あ! だ、大丈夫ですか?」
痺れは引かず、手のひら全体がじんじんと熱を持っている。
「大丈夫だ。暫くこの状態が続くのかな?」
清志郎が静かに訊ねると、菫は申し訳なさそうにコクリと頷いた。
「これが乾いた状態です。もし体液が滲み出ている状態で触れれば……」
清志郎には、続きの言葉がわかった。
(高熱を出し、死ぬこともある、か)
清志郎は痺れの残る手を見つめた。
そして菫に視線を戻すと、彼女は清志郎の視線を避けるように、そそくさと元いた場所へ戻ってしまった。
触れられた指先を、もう片方の手でぎゅっと握りしめている。
「も、申し訳、ございません」
菫は俯いたまま、消え入りそうな声で謝罪を口にした。
「謝ることなんてないさ。頼んだのはこちらだ」
清志郎はそう言ったが、彼女は首を振る。
そして、畳に手をついて再度、清志郎に謝る。
まるで自分自身の存在に対してのような、そんな響きがあった。
「私、何も、できない……人を傷つけることしか、で、できないっ……い、生きてる意味なんて……うっううっ……」
菫は泣き出してしまった。
「すまないね、私が悪かった。もっと君の気持ちを考慮すべきだったね」
風間が謝罪の言葉を口にするが、菫は泣き続ける。
清志郎は何か――彼女のために何か言わなくてはと思った。
「菫ちゃん、俺も……俺もさ、触れたくても触れられない人がいるんだ」
清志郎の脳裏に、紗世の笑顔がよぎる。
もう、あの笑顔を二度と見ることはできないかもしれない。
菫が毒なら、自分はなんだ?
抜き身の刃か?
「触れ、られ、ない?」
菫は少し顔を上げ、清志郎を見た。
「俺が彼女の傍にいるとさ……彼女、命を落とすことになるかもしれないんだ。だから、もう会わない。会えないんだ。毒がなくても、俺は君と同じだ」
「で、でも、その方、生きていらっしゃるんでしょう?」
(生きてるかって? もちろんだ。紗世はまだ生きている。死なせないために、俺は朝比奈家を出たんだ)
「え、あ、ああ」
「わ、私は……私は……」
(あ……)
清志郎は、菫の次の言葉を予想して固まった。
「死なせてしまったんです! 殺したんです! 人殺しなんです!」
菫は泣き崩れてしまった。
失敗した。
安易に余計なことを言ってしまった。
清志郎は、後悔で胸が張り裂けそうだった。
「菫。それは、お前が悪いんじゃないって何回も言ってるだろ。泣くんじゃねぇよ」
新太が励ますが、菫の涙は止まらない。
風間も優しく声をかける。
「菫、まだ治療を始めて一年も経っていないんだよ。希望を捨てるのは早い。私たちと一緒に解決していこう」
清志郎は、まだ痺れの残る手のひらを、静かに握りしめた。
本日、100話目を投稿することができました。
数ある作品の中から『澄斬姫 ―女神の妖刀―』を読んでくださっている皆さま、本当にありがとうございます。
長い物語ですが、ここまでお付き合いいただけたことをとても嬉しく思っています。
これからも、清志郎たちの物語を少しずつ紡いでいきます。
引き続きよろしくお願いいたします。




