第四章 歓迎会の夜(第一話)
湯上がりの廊下を歩きながら、清志郎は龍之介の背中を見ていた。
(変な奴……)
幾度目になるだろう。同じ言葉を胸の内で呟きながら、清志郎は半乾きの髪を、手拭いで乱暴に拭った。
そこへ、何やら美味しそうな匂いがしてきた。台所を覗くと、紗世と鈴が楽しそうに話をしながら、夕飯の支度をしていた。
「あれ? 鈴ちゃん、来てたの?」
清志郎が声を掛けると、鈴は笑顔で振り向いた。
「あ、清志郎先生。今晩は、久しぶりにお世話になってもよろしいですか?」
「ああ、泊まるんだ。もちろんだよ」
今晩は、紗世と今後のことについて、話さなければと思っていた。だが、今の紗世には、鈴の慰めの方が必要なのだろう。清志郎はそう解釈し、鈴を歓迎した。
「鈴ちゃんが来てくれるなんて、本当に久しぶりですね。よかったですね、紗世さん」
紗世は水桶から柄杓で水を汲み、手を清めていた。布巾で丁寧に手を拭きながら、清志郎を見て答えた。
「うん。買い物にも付き合ってもらって、料理も手伝ってもらったの。今晩の夕飯はご馳走よ! 高坂さんの歓迎会だから」
「……え?」
清志郎の困惑をよそに、龍之介は満面の笑みを浮かべた。
「おお、誠か! それは嬉しいのう」
紗世も鈴も、龍之介を道場に連れて来たときは、あんなに嫌そうにしていたではないか。
(歓迎会だって? そりゃあ、これからしばらく一緒に暮らすんだ。無下にできないのはわかる。……けど、なぜ二人とも嬉しそうなんだよ)
龍之介への警戒心はどこへ行ったのか。紗世と鈴の変わり身の早さに、自分だけが置いていかれたような、言葉にできないもやもやが胸に広がった。
◇
紗世と鈴が並べた膳からは、炊き立ての白飯の湯気が立ち昇っていた。
澄まし汁に漬物、冷奴、野菜の煮物。そして、焼き魚の香ばしい匂いが食欲をそそった。
清志郎は、龍之介なんかの為に勿体ないと思いながらも、久々のご馳走に思わず喉が鳴った。
「高坂さん、ようこそ朝比奈家へ。まずは一献、お注ぎしますね」
「おおっ、これはお手ずから注いでいただけるとは、ありがたき幸せ!」
紗世がにこやかに盃を差し出すと、龍之介はそれを両手で丁寧に受け取った。紗世は、その盃に徳利を傾けた。
(ったく、何がありがたき幸せだよ。調子のいい奴だな)
和やかな雰囲気の龍之介と紗世を見て、清志郎は内心でぼやく。そんな彼の隣に、いつの間にか鈴が盃を持って差し出してきた。
「先生も、どうぞ」
はっとして声のする方を振り向くと、鈴の澄んだ瞳が輝いていた。その無邪気な笑顔に、清志郎は己の油断を痛感した。
(ま、まずい。鈴ちゃんは、知らなかったな……)
清志郎は盃に手を伸ばしかけたものの、受け取ることができなかった。
「あ、いや……俺、酒はちょっと……」
せっかくの気遣いを断るのが申し訳ないのと、真実を知られてしまうのが気恥ずかしくて、指が無意識に震えた。
「え?」
鈴の手が、宙で止まった。その瞳には、わずかな戸惑いが浮かんだ。
「す、すまない、鈴ちゃん。俺……実は、その……の、飲めないんだ……」
「……」
鈴は、差し出した盃を持ったまま、ぱちくりと瞬きをして固まった。剣術の若き師範代ともあろう男が、まさか一滴の酒も飲めないなど、夢にも思わなかったのだろう。その純粋な驚きの視線が、清志郎の男としての誇りを容赦なく打ち砕いた。
(畜生……こんなところで、自分から下戸だと白状する羽目になるとは。何もかも、あいつのせいだ)
清志郎は、紗世とよろしくやってご満悦な龍之介を、苦々しげに一瞥した。しかし、今はとりあえず、この気まずい空気をなんとかしなくてはならない。
「俺はいいからさ。鈴ちゃん、飲みなよ。俺がお酌するよ」
「そ、そんな。先生にしていただくなんて……」
「いいから、いいから」
鈴の頬が、ほんのり薄く桃色に染まった。その様子を見ていた龍之介が、空気を読まずに割って入ってきた。
「なんじゃあ、清志郎! ぜんぜん飲んでおらんではないかぁ~」
無駄に大きい声が部屋に響いた。
「何か飲めん理由でもあるのかぁ? ……まさか、道善殿の病気平癒を願っての願掛けでもしておるのか?」
(それなら格好がつくんだがな)
清志郎はげんなりと肩を落とし、力なく笑った。
「歓迎の席で水を差すようで悪いが、体がまるで受けつけないんだ。少し飲んだだけでも駄目になる」
「なにぃ? 本当かぁ?」
ぐいっと身を乗り出してきた龍之介は、すでに酒臭かった。
「少しくらいいいじゃろう? ちったぁ、付き合えよ」
徳利を持った龍之介が、迫ってきた。
「うっ……だ、だから……無理だって言ってるだろ……」
たじたじになっている清志郎の前に、紗世の手が滑るように差し入り、湯呑みを置いた。
「清ちゃんは、いつもお茶なのよ」
紗世の声には、優しい諭しが混ざっていた。
「ごめんなさいね、高坂さん。お酒は、私が付き合うから」
「……左様か」
龍之介は紗世の言葉に、呆気に取られたような表情を浮かべたが、すぐににんまりと笑った。
「うむ。まぁ、こんな別嬪さんと酒を酌み交わせるのなら十分じゃ」
龍之介は徳利を引っ込めた。清志郎は湯呑みの温もりに安堵しながら、そっと紗世の袖を引いた。
「紗世さん、助かりました」
耳まで赤くなった清志郎のか細い声に、紗世は柔らかな微笑みを返した。
◇
何かと騒がしかった龍之介の歓迎会も、ようやく幕を閉じた。昼間に比べて、夜はまだ少し肌寒い。
紗世と鈴が、膳の片付けをしてくれている間に、清志郎は龍之介の布団を用意していた。
「お前には小さいだろうけど、これしかないんだ。ずっと押し入れにしまっていたから、かび臭いかもしれないが、我慢してくれ。一応、昼間に干しておいたんだ」
「まったく問題ないぞ。布団で眠れるだけで、有難いことよ」
清志郎は、押し入れを開けながら続けた。
「朝、布団を畳んだら、ここに仕舞ってくれ」
「承知した。世話をかけるのう、清志郎。……おや? ここは、女の部屋だったのかの?」
「え?」
龍之介の視線の先を追うと、押し入れの中に小さな鏡台があった。龍之介に背を向け、清志郎は思わず、その鏡台に触れた。
「これは……紗世さんの姉、紗凪さんが使っていた鏡台だ」
それを聞いて、龍之介は少し驚いた顔をした。
「そうか。道善殿から、紗世さんに姉がおったことは聞いた。紗凪さんというのか。亡くなったらしいのう。歳は、お前と同じくらいだったと……」
清志郎は、そっと鏡台の引き出しを開いた。そこには、紗凪が使っていた櫛や白粉が、当時のままに仕舞われていた。
桃色の布袋を見つけて手に取った途端、清志郎の目の前に、実際には見てもいない火の海が現れた。
「神社の書物庫を整理していたときに、明かりの火が燃え移ってよ……あっという間だったらしい。俺はそのとき、出稽古へ出ていて千凪村にはいなかった。帰ったときにはもう、紗凪は棺の中だった。紗凪も、綺麗な姿のまま覚えていてほしいだろうって、遺体は見せてもらえなかった」
清志郎は、布袋から簪を丁寧に取り出した。
それは焼け焦げ、模様はほとんど消えていたが、沈丁花の名残をかすかにとどめていた。清志郎が、紗凪に贈ったものだ。
春の訪れを告げる沈丁花は、紗凪が一番好きな花だった。
あの甘く、どこか切ない香り――。だが、今の清志郎には、焼け焦げた簪から、ありもしない焦げ臭さが立ち昇ってくるように思えた。
鉄製の簪が、こんなになってしまうほどの業火の中で、彼女は焼け死んだのだ。清志郎は、焼け焦げた簪を握りしめ、もう片方の手でなぞった。
(痛てぇな……)
死を目前にした紗凪は、どれほど恐ろしかっただろう。そう思うだけで、胸が潰れそうになった。
どれほど熱く、苦しかっただろう。あのとき、傍にいてやりたかった。彼女となら、一緒に死んでもよかった。
彼女のいない現実が心を突き刺し、清志郎の手は、抑えきれない感情に震えだした。
「そうじゃったか。お気の毒にのう。清志郎、お前と紗凪さんは……」
龍之介は、聞き逃さなかった。清志郎が「紗凪」と呼び捨てにしたのを。
「もう、どうにもならんさ。ほら、そろそろ寝るぞ。今日は朝から色々あって、くたびれたぞ。大半は、お前のせいだからな」
清志郎は、簪を布袋に戻し、鏡台の引き出しに仕舞った。当時のことが思い出されるので、滅多に手に取らないようにしていたのに、今日はつい触れてしまった。昼間、紗凪の夢を見たからだろうか。
『私のことは、もう忘れていいのよ』
夢の中の彼女は、確かにそう言った。
(忘れろだと? どうやって忘れろっていうんだ、紗凪……)
清志郎は隣の自室に戻りながら、夢の中の紗凪に問うた。
《2026/07/31 第一回修正》
文章を整えました。
話の内容は、ほぼ変わっておりません。
修正が進むにつれ、清志郎の紗凪への未練が、修正前よりも深まってきた???




