第四章 歓迎会の夜(第一話)
湯上がりの廊下を歩きながら、清志郎は龍之介の背を見つめていた。
どうにも掴みきれない――だが、どう見ても、大らかで根は悪い男じゃないのはわかる。
(変な奴だ……)
そう心の中で呟いたとき、ふわりと夕餉の匂いが鼻をくすぐった。
湯上がりの廊下を歩きながら、清志郎は龍之介の背中を見ていた。
(変な奴……)
清志郎は心の中で、何度目かの同じ言葉を唱え、軽く溜息をついた。
そして、まだ乾ききっていない髪を、手拭いでガシガシと拭いた。
……とそこへ、何やら美味しそうな匂いがしてくる。
台所を覗くと、紗世と鈴が、楽しそうに話をしながら、夕飯の支度をしているところだった。
「あれ?鈴ちゃん、来てたの?」
清志郎が声を掛けると、鈴はニコッと振り向いて答えた。
「あ、清志郎先生、今晩はお世話になります」
どうやら今晩、鈴は、紗世の部屋に泊まるらしい。
今晩は、紗世と今後のことについて、話さなければと思っていた。
でも、今の紗世には、鈴の慰めの方が必要だったのかもしれない。
そう解釈し、鈴を歓迎した。
「鈴ちゃんが、泊まりに来るなんて久しぶりだな。よかったですね、紗世さん」
努めて、明るい声で言う。
「うん、買い物に、お料理も手伝ってもらったの。今晩の夕飯はご馳走よ!高坂さんの歓迎会だから」
紗世は台所の隅に置かれた水桶からひしゃくで水を汲み、手を清めると、布巾で静かに拭きながら言った。
だが、最後の一言が、清志郎を困惑させた。
「……え?」
「おお、それは嬉しいのう!歓迎会とは、まことに光栄じゃ」
龍之介は満面の笑みで喜んでいる。
いつ、そんなに距離が縮まった?
龍之介が道場破りに来た時は、あんなに警戒して嫌そうにしていたではないか。
あの警戒ぶりは、どこへやら。
清志郎には、紗世の切り替えの早さが少しだけ不思議で、モヤモヤした。
紗世と鈴が並べた膳からは、炊き立ての白飯の湯気が立ち昇る。
澄まし汁に漬物、冷奴。
焼き魚の香ばしい匂いが食欲をそそり、野菜の煮物までついている。
清志郎は、龍之介なんかの為に勿体ないと思いながらも、久々の本格的な和食に喉が鳴るのを感じていた。
「高坂さん、ようこそ朝比奈家へ。まずは一献、お注ぎしますね」
紗世がにこやかに盃を差し出すと、龍之介はそれを両手で丁寧に受け取った。
「おおっ、これは手前よりいただくとは、ありがたき幸せ!」
「……ったく、何がありがたき幸せだよ。調子いい奴だな……」
清志郎は誰にも聞こえない声でぼやく。
そんな彼の隣に、いつの間にか鈴が盃を持って差し出してきた。
「先生も一杯、どうですか?」
澄んだ瞳が期待に輝いている。
「せっかくの席ですし♪」
その無邪気な笑顔に、清志郎は自分の油断を痛感した。
(まずい、鈴ちゃんは知らなかったな……)
清志郎は胸が締めつけられる。
せっかくの気遣いを断るのが申し訳ないのと、真実を知られてしまうのが気恥ずかしくて、指が無意識に震えた。
「あ、いや……俺、酒はちょっと……」
「え?」
鈴の手が宙で止まる。
その瞳に、わずかな戸惑いが浮かんだ。
想像もしていなかったのだろう。
まさか、清志郎がとんでもない下戸だなんて――。
「鈴ちゃん、呑みなよ」
気まずい空気を察して、清志郎は慌てて取り繕う。
「もう、そろそろ呑んでもいい年頃でしょ。俺がお酌するよ」
「そ、そんな……先生にしていただくなんて」
鈴の頬が薄く染まる。
その様子を見ていた龍之介が、空気を読まずに割って入ってきた。
「遠慮すんな!」
無駄に大きい声が部屋に響く。
「飲めん理由でもあるのか? ……まさか道善殿の病気の願掛けか?」
(それなら格好がつくんだがな……)
清志郎は苦笑いするしかない。
「いや、俺、ほんとに弱いんだ……。すぐ真っ赤になるし……」
「本当かぁ?」
龍之介が身を乗り出してくる。
「少しくらいいいだろう。ちったぁ、付き合えよ!」
盃が迫る瞬間、紗世の手が滑るように差し入った。
湯呑みが、清志郎の前に静かに置かれる。
「清ちゃんはいつもお茶なのよ」
紗世の声には、優しい諭しが混ざっている。
「……ごめんね、高坂さん、お酒は私が付き合うから」
「左様か……」
龍之介は一瞬考え、にやりと笑った。
「まぁ、こんな別嬪さんと酒が飲めるなら、お前はよいわ、清志郎」
清志郎は湯呑みの温もりに安堵しながら、そっと紗世の袖を引いた。
「……助かったよ、紗世さん」
耳まで赤くなった彼の声に、紗世は柔らかな微笑みを返した。
賑やかな龍之介の歓迎会も終わり、空もすっかり暗くなった。
昼間に比べて、夜はまだ少し肌寒い。
紗世と鈴が、膳の片付けをしている。
清志郎は龍之介の部屋にいた。
「お前には小さいだろうけど、これしかないんだ。ずっと押し入れの中で、少しカビ臭いかもしれないが、我慢してくれ。昼間、干したから少しはマシだと思うんだがな」
「まったく問題ないぞ。布団で眠れるだけで、有難いことよ」
清志郎は押し入れを開けながら続けた。
「朝、布団を畳んだら、ここに仕舞ってくれ」
「承知した。世話をかけるのう清志郎。……おや?ここは女の部屋だったのかの?」
「……え?」
龍之介の目線の先を追うと、押し入れの中に小さな鏡台があった。
清志郎は、龍之介に背を向け、思わずそっと鏡台に触れる。
「……ああ、紗世さんの姉、紗凪さんがかつて使っていた鏡台だ」
それを聞いて、龍之介は少し驚いた顔をした。
「そうか、道善殿から紗世さんに姉がいたことは聞いた。紗凪さんというのか。亡くなったらしいな。歳はお前と同じくらいだったと……」
清志郎は、そっと鏡台の引き出しを開いた。
そこには、紗凪が使っていた櫛や白粉が、当時のままに仕舞われていた。
桃色の布袋をみつけて、そっと手に取る。
途端に、彼の目には、実際には見てもいない火の海が現れる。
「……神社の書物庫を整理していたときに、事故で明かりの火が燃え移ってよ……あっという間だったらしい。……俺はその時、隣村に出稽古へ出ていて……帰ったときにはもう、紗凪は棺の中だった。綺麗なままの姿を、紗凪も覚えていて欲しいだろうって、遺体は見せてもらえなかった……」
清志郎は布袋の中から、そっと中身を取り出し、手に取った。
焼け焦げて、模様はほとんど消えていたが、沈丁花の名残がかすかにうかがえる簪。
清志郎が紗凪に贈ったものだ。
春の訪れを告げる沈丁花は紗那が一番好きだった花だ。
鉄製の簪がこんなになってしまう程の業火の中で、彼女は焼け死んだのだ。
焼け焦げた簪を片手で握りしめ、片手でなぞった。
(……痛てぇな)
彼女のいない現実が、今も心を突き刺し、その手は抑えきれない感情に微かに震えていた。
「……そうだったのか。お気の毒にのう……清志郎、お前と紗凪さんは……」
龍之介は、聴き逃さなかった。
お堅い清志郎が「紗凪」と呼び捨てにしたのを。
「もう、どうにもならんさ……。――ほら、さっさと布団敷けよ。そろそろ寝るぞ。龍之介、お前のせいで、もうくたくただ」
清志郎は、簪を布袋に戻し、鏡台の引き出しに仕舞った。
当時の事が思い出されるので、滅多に見ないようにしていたのに、今日は、つい手に取ってしまった。
昼間、紗凪の夢を見たからだろうか。
「忘れていいのよ……」
夢の中の彼女は、確かにそう言った。
(忘れろだって?どうやって忘れろっていうんだ、紗凪……)
清志郎は隣の自室に戻りながら、夢の中の紗凪に問うた。




