第三章 剣友(第三話)
湯気の立つ風呂場で、心を鎮めたかった。
そんな風に思っていた矢先、無遠慮な男が踏み込んできた。
清志郎は龍之介を伴って、風呂の準備をしていた。
「風呂は、紗世さん、俺、高坂殿の順だからな」
「おう。わかってますよ師範代!……なぁ、紗世さんって、どんな感じの人なんだ?」
龍之介が何故かニタニタしている。
「ん?なんだよ、どんな感じって?」
清志郎は、龍之介が何を聞いているのか分からず、眉間にしわを寄せた。
(湯加減のことか?紗世さんは熱い湯が苦手だったような……)
そんな些細な好みすら、これまで気にかけたことがなかった。
思い返せば、共に暮らしているのに、自分は何も見てこなかったのかもしれない。
清志郎は、そんな自分に少しだけ反省した。
……だが次の瞬間、龍之介の口から出た言葉に、その考えは霧散した。
「あの細さで、意外に……豊かなのか、紗世さん?」
「……。はあぁっ!?」
龍之介の手振りでようやく察し、清志郎は持っていた薪を落としそうになった。
「な、な、何言ってんだ、あんたは!もし覗きなんかしてみろ!風呂に沈めるぞぉっ!!」
清志郎の顔は真っ赤だった。
もはや湯を焚くより火照っている。
声を荒げている姿は、普段の冷静な彼からは想像もつかない。
だが龍之介は飄々としたまま続ける。
「儂の方が力は強いと思うがな。それに、そんなに隠さずとも、誰にも言ったりせんよ」
もはや何をどう取り繕っていいかもわからず、龍之介の無遠慮さに、清志郎は本気でキレた。
「ーーっ!!いい加減にしろよ、お前ぇー!!」
清志郎は、持っていた薪を龍之介に思いっきり投げつけた。
「清ちゃん、お風呂上がったよ。清ちゃんの番よ」
「あ、はーい」
紗世が風呂に入っている間、清志郎はずっと龍之介の動向を監視していた。
龍之介の部屋は清志郎の隣、かつて今は亡き紗世の姉・紗凪が使っていた部屋で、久々に開けたため埃もひどかった。
龍之介に掃除を命じたのは、単に部屋を綺麗にするため……だけではない。
「心配すんなって。紗世さんに変なことしたりしねぇよ。ゆっくり入って来い」
からかうでもなく当然のように言うその口ぶりに、清志郎は返す言葉もなく、手ぬぐいを手にして、黙って風呂場へと向かった。
清志郎は腰掛に座ると、手桶で何度か湯をすくい、肩口から静かにかけた。
湯の熱さが肌を撫でるたびに、緊張がひとつずつ溶けていくようだった。
薄暗い浴室に、木の壁を伝って湯気が立ち上っていく。
時折、天井の梁から一滴、ぽたりと滴の落ちる音が響いた。
床は杉板で、湯気に濡れてつややかに光っている。
竹で編んだ湯桶や、年季の入った手ぬぐいが端に置かれていた。
……かけ湯も済ませ、ようやく湯舟に身体を沈めると、思わず深いため息が洩れた。
せめて今ぐらい、何も考えずに、頭をからっぽにして寛ぎたかった。
深い深呼吸を繰り返す。
意識して目を閉じてみたが、やはり道善の事がちらつく。
(あと、ひと月……。いや、もしかしたら、ひと月もないかもしれない。先生亡き後、俺と紗世さんは、どうしているんだろう?先生が亡くなる前に、ちゃんと答えを出せているだろうか?)
時々、道善の人脈で他道場でも指導させてもらっているが、大した収入にはなっていない。
自分の稽古をしているようなものだ。
「甲斐性ねぇもんな、俺……」
自虐的な独り言を呟いた時だった、人の気配を感じ、すぐさま目を開けた。
「何がねぇって?」
バシャッという音とともに、戸が開いた。
木戸が勢いよく軋み、龍之介が素っ裸で入ってきた。
「……なっ!何、勝手に入って来てんだよ!」
清志郎が身構えたせいで、湯船の湯がぴしゃんと跳ねた。
「別にいいだろ。男同士、裸の付き合いじゃ!」
あろうことか、龍之介はかけ湯もせずに、湯舟に入ってこようとする。
「馬鹿!お前みたいなデカい奴と一緒に入れるわけないだろ!」
風呂が壊れるから止めろと、清志郎は龍之介を両腕で押しやる。
「しょうがねぇなぁ。じゃあ、背中流してやるよ」
「結構だ!」
清志郎は、手ぬぐいを龍之介の顔面目掛けて投げつけた。
しかし、薪と違って今度は易々と受け止められた。
龍之介は清志郎の両手を、がっしり掴んで、湯船から無理矢理引きずり出した。
「うわっ、な、何をする?」
「ほい、座って」
龍之介は清志郎を腰掛に座らせると、清志郎が投げつけてきた手ぬぐいで、背中を流し始めた。
「おいっ、いいって!頼んでない」
余計なお世話だとばかりに、清志郎は言う。
一人でゆっくりしたかったのに、これでは全然くつろげない。
誰かの懐に無理やり押し込まれたように窮屈だった。
何が楽しくて、こんな大男と狭苦しい風呂を共にしなければならないのか。
「いいから。遠慮するなよ、清志郎」
「せ、清志郎!?」
いきなりの呼び捨てに、清志郎は唖然として、龍之介の方を振り返った。
「あぁ、儂のことは、龍之介で構わんぞ」
背中を流し続けながら、何でもないかのように、龍之介は言ってくる。
「そ、そういうのは、友となってから……」
ざばんっ!
突然の湯で言葉を遮られ、清志郎は思わず目を閉じた。
龍之介が手桶で、清志郎の頭に、湯を思いっきりかけてきたのだ。
「ああ。だから、今、友となった。儂とお前は、今日、真剣勝負をし、今裸の付き合いもしている」
「勝手に踏み込んで来といて、よく言うぜ……!」
ぶっかけられた湯を拭いながら、清志郎は指摘する。
「そうかぁ?儂といるとき、割と素のお前、出てないか?」
「え?」
「お前さんは気づいとらんかもしれんがな……気ぃ遣いすぎて、誰の懐にも踏み込めずにおる。だから皆、お前を“先生”としか見られんのじゃ」
(……誰の懐にも……?今日出会ったばかりの奴に何がわかるんだよ……けど……)
清志郎は、恐る恐る龍之介の目を見た。
すると、そこには意外にも、真っ直ぐに見据えてくる龍之介の目が有った。
そのせいで、清志郎の瞳は揺らいだ。
「呼んでみな。儂のこと、龍之介って」
清志郎は、しばし口を開けずにいたが、やがて小さく呟いた。
「……龍之介」
龍之介の顔に、子どものような笑顔がぱっと咲いた。
「よしよし!これで我らは生涯の剣友だ。何処に居てもな。わはははは」
龍之介は、なんとも愉快そうに笑った。
(剣友?そんなの……俺には……)
清志郎は、目の前の男に、完全に調子を狂わされていた。