第三章 剣友(第二話)
清志郎と龍之介は、井戸で汗を流したあと、道場の軒下に腰を下ろしていた。濡れたまま家に上がるわけにもいかず、二人は静かに、紗世が着替えを持ってきてくれるのを待っていた。
「清ちゃーん!」
「あ、紗世さーん、こっちです!」
いつもどおりの紗世の元気な声が聞こえた。笑顔を取り戻した紗世が駆けてくる姿を見て、清志郎は胸の内でそっと安堵の息を漏らした。
「着替え持ってきたわよ。高坂さんの分も」
「助かりました。おや、これは先生の……? 高坂殿の分も、俺の着物で間に合わせてくれて良かったのに」
「そんなこと言ったって。清ちゃんたら、ぜんぜん着替えを持ってないじゃない」
「う……」
図星を突かれ、清志郎は口をつぐんだ。身の回りのものは最低限でいい、という普段の無頓着さが、こんなところで仇になるとは。
「高坂さん、これ父が使って構わないって。少し小さいと思いますけど、とりあえず今日はこれで……」
「おお、それは恐れ入る。お父上にお礼を申し上げなくてはな」
二人は着替えるため、一度道場の中へと戻った。
◇
「ぷっ、くくっ……あっははは!」
着替えた龍之介を見て、清志郎はこらえきれずに吹き出した。大柄な龍之介に対し、道善の着物はあまりに小さすぎた。袖も裾もつんつるてんで、まるで大人が子供の服を無理やり着ているかのようだ。
「し、仕方なかろう。着る前から想像はついたはずじゃ」
龍之介は大きな肩をすぼめ、決まり悪そうにぼやいた。
「悪い。そうだけどさ、実際に目にすると……くっ、くくっ……ふはははっ」
豪快な印象が強い龍之介の、どこか子供じみた姿が可笑しくて、清志郎は腹を抱えて笑った。
「ふん、まぁよいわ」
「ああ……す、すまない。調子に乗りすぎた。機嫌を損ねたか?」
清志郎は慌てて笑うのを止めた。
「いや。お主は、そんなふうに笑うのだなと、思ってな」
「え? あ、ああ……」
龍之介の何気ない言葉に、清志郎ははっとした。そういえば、こんなふうに腹の底から笑ったのは、いつぶりだろうか。
だがそれは、周囲を安心させるために「努めて」作っていた笑顔であって、心の底から湧き出たものではなかったのかもしれない。
「……着替えも終わったし、先生の部屋へ案内しよう」
清志郎は立ち上がり、少し赤くなった耳を隠すようにして龍之介を促した。
「おう、頼む」
二人は道場を出て、道善の待つ部屋へと向かった。
◇
清志郎は、自室の片隅に膝を抱えて、静かに座っていた。龍之介を道善の部屋へ案内したものの、自分は席を外すよう言われたのだ。
龍之介は、なかなか戻ってこなかった。二人が何を話しているのか、少しだけ胸がざわついた。
紗世は鈴と一緒に買い物へ出かけている。「午後の稽古は休む」と言い残して。
(鈴ちゃんと茶屋で、あまり話ができなかったのか? ……無理もないな。高坂殿に水を差されてしまったからな)
風の音すら聞こえない静寂の中、障子を閉め切っているというのに、どこからともなく、庭の沈丁花の香りが忍び寄ってきた。甘く、どこか重苦しい香り。
(また、あの花が咲く季節か……)
午前中から、普段とは違う緊張が続いていた。身体は正直だ。思わず背を柱に預けると、瞼が鉛のように重くなった。
だが、眠るわけにはいかなかった。いつ道善に呼ばれるか分からないのだ。呼吸を整えながら、清志郎はじっと、時をやり過ごしていた。
「清ちゃん、どうしてそんな顔してるの?」
ふと、耳元で紗世の声が聞こえた気がした。
(紗世さん……? 買い物に行ったのでは……)
目を開けると、確かに目の前に紗世がしゃがみ込み、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
紗世に心配はかけられない。「大丈夫だ、なんでもない」と答えようとした刹那、紗世の輪郭がゆらりと陽炎のように揺らいだ。
にじむ視界の中で、彼女の顔が変わっていく。そこにいたのは――。
「清志郎……」
(さ、紗凪……! 紗凪なのか?)
狂おしいほどの愛おしさが胸を突き上げ、その名を呼ぼうとしたが、どういうわけか声が出ない。
「清志郎。私のこと、もう忘れちゃった?」
かつて誰よりも愛おしかった女の声。胸の奥で、懐かしさと鋭い痛みが、ぐちゃぐちゃに混ざり合って軋んだ。
(忘れるわけがないだろう! 紗凪、俺は……お前を……!)
彼女が生きていた、あの穏やかな日々の笑い声が、耳の奥でかすかに甦る。
「私のことは、もう忘れていいのよ。それより、あの子を大事にしてあげて」
紗凪は寂しげに微笑むと、すっと背を向けて歩き出した。呼び止めようとしても、やはり声は出ない。彼女の背中は、みるみる遠ざかっていく。
(待ってくれ! 行かないでくれ、紗凪!)
必死に喉を震わせようとしたが、音にならない。紗凪の姿は、白い靄の中へと溶けるように消えていった。
◇
清志郎は、膝を抱えた姿勢のまま、はっと目を開いた。
(なんだ……夢、か……)
紗凪の姿が、まだ瞼の裏に焼き付いている。現実の輪郭がまだおぼつかない頭の中で、彼女の残した言葉が、棘のように胸に引っかかっていた。
『忘れていいのよ』
(どうして、そんな哀しいことを言うんだ)
『それより、あの子を大事にしてあげて』
(大事にしているさ。けど……)
清志郎は、膝の上で拳をぎゅっと握りしめた。
(紗凪。お前の目に、今の俺はどう映っている? やはり、頼りないのか。だから夢に……)
部屋の静寂が、かえって胸のざわめきを際立たせた。清志郎はゆっくりと背筋を伸ばし、深く、長く息を吐き出した。
「榊殿、おるか?」
「あ……高坂殿か」
部屋の外から響いた龍之介の野太い声に、清志郎はようやく現実に引き戻された。すぐさま立ち上がり、襖を開けて龍之介を部屋に招き入れた。
◇
道善の許しを得て、龍之介はしばらく朝比奈家に滞在することとなった。龍之介も道善も、何を長々と話していたのか、詳しくは教えてくれなかった。
「面白そうな男ではないか。紗世にも聞いたぞ、なかなかの接戦だったそうだな。お前も腕の立つ稽古相手が欲しかっただろう。高坂殿なら不足はあるまい。互いに腕を磨き合いなさい」
道善が口にしたのは、これだけだった。
(まぁ、先生が断るとは思っていなかったが。あんな怪力男をずっと相手にしてたら、不足どころか、お釣りがくるというものだ)
清志郎は内心で苦笑したものの、門下生たちとの稽古に物足りなさを感じていたのは事実だった。胸の奥で、静かに闘志が沸き立つのを感じていた。
◇
午後の男たちの稽古は、予定どおり行われた。
案の定、門下生たちは片っ端から、龍之介に薙ぎ倒された。だが不思議なことに、誰も不満は漏らさなかった。
それどころか龍之介は、早くも門下生たちと談笑する姿すら見せていた。その陽気さと、どこか憎めない無骨さが、彼を「突然現れた異物」ではなく、「頼もしい兄貴分」として場に馴染ませていた。
その日、道場は月謝の納金日だった。清志郎は月謝の入った袋を受け取るたび、帳簿へ丁寧に筆を走らせていた。
そこへ、気まずそうな顔をした門下生が、おずおずと近づいてきた。
「あのう、榊先生。実は今月、少々厳しくて……お月謝、少し待っていただけないでしょうか」
「ああ……お母上、お加減が優れないそうだな。玄庵先生には診ていただいたか?」
「はい、なかなか良くならなかったもので、先日。それで薬代がかさんでしまい……」
「そういうことなら仕方ない。構わないよ、気にするな」
清志郎が穏やかに微笑んで頷くと、門下生の顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます!」
すると、それを見ていた別の門下生が、恐る恐るやってきた。清志郎の笑顔がわずかに引きつり、門下生の顔も引きつる。
「申し訳ございません、榊先生。あの、今月も少し足りなくて……」
「またか。足りない分は、また大根か?」
二人の会話は、周囲に聞こえないよう、ひそひそと小声で行われた。
「はい、今晩、道場の裏に置いておきますので……」
「お前が熱心なのは知っているし、今さら駄目だとは言わないが、絶対に他の奴らにばれるなよ。農家の門下生の月謝が皆野菜になってみろ。うちは、やっていけないぞ」
「はい、重々承知しております。本来なら、私のような身分で剣を学べるはずもなく……先生のご配慮には、本当に感謝しております」
「わかったから、皆に怪しまれる前に早く行け」
「はい!」
道善は、こうした配慮を大人だけでなく、子供たちにも行っていた。清志郎もまた、その方針を引き継いでいる。だが、裕福な者も貧しい者も一律の月謝にしているのは、経営的にはかなり厳しかった。
平等というのは、口で言うほど簡単ではない。紗世の「今月も節約しなきゃ」と家計簿を睨む姿が目に浮かび、清志郎は帳簿を見つめて、小さくため息をついた。
「五郎、ちょっと来い」
帳簿を閉じ、清志郎は気を取り直して一人の門下生を呼び出した。稽古中に気になった彼の悪癖を直すため、個別に手取り足取り、熱心な指導を始める。
そんな清志郎の姿を、龍之介は離れた場所から、じっと盗み見ていた。
龍之介は、道場の掃除をしていた若い門下生たちに、さりげなく声を掛けた。
「のう。榊殿は、普段どのような先生じゃ?」
すっかり打ち解けた門下生たちは、手を休めて口々に答えた。
「良い先生ですよ。道善先生に負けず劣らず、丁寧に教えてくれますし」
「威張り散らしたりもしないし、本当に感じの良い人です。……でも、なんというか、少し人を寄せつけないところがあるというか」
「ああ、確かに。優しいし、無口なわけでもないのにな。なんだろう、常に一線引かれているような気がするんだよな……」
「ほう。一緒に酒を酌み交わしたりはせんのか?」
龍之介は、酒を飲みながら腹を割って話すのが好きな性分だ。
「そういうのは、まったくないですね」
「酒も飲まんのか?」
「この村に来たときから、ずっと物静かな人だったって、うちの親父は言ってました」
「根が真面目なんでしょう。少し、真面目すぎる気もしますがね」
「道善先生がずっとご病気だからな。ご自分を厳しく律していらっしゃるんだろうよ」
一人の門下生が上手くまとめると、他の者たちも頷いた。
「なんだ、お前たち。俺の悪口でも、高坂殿に吹き込んでいるのか?」
背後から突然かけられた声に、門下生たちは肩をびくつかせた。
「そ、そんなわけないじゃないですか! むしろ、その逆ですよ!」
「へぇ、そうなんだ。褒めてくれてたわけ?」
「もちろんです! では、私たちは、そろそろ……失礼します!」
若い門下生たちは、掃除道具を片付け、逃げるように足早に帰っていった。清志郎より歳上と思われる年輩の門下生たちも、それに続いた。
「では、榊先生。我らもこれにて」
彼らを見送った清志郎は、振り返って龍之介と目を合わせた。
「あいつら、俺のこと、なんて言ってたんだ?」
「丁寧に教えてくれる、良い先生じゃと」
「嘘だな」
清志郎は、軽く笑ってそっぽを向いた。
「おいおい、儂は嘘など言うておらんぞ」
話してくれた門下生たちのためにも、誤解は解いておきたかった。龍之介は、清志郎の背中へ言い聞かせるように声をかけた。
「聞いておるのか、榊殿。皆、お主を尊敬し、慕っておるよ。誰も悪口など言ってはおらぬ」
だが、清志郎はまるでその言葉が届いていないかのように、軽く受け流した。
「さて、高坂殿。我らも引き上げて、風呂にでも入ろう」
清志郎の顔には、隠しきれない疲労の色がにじんでいたが、それでも柔らかに微笑んでみせた。
何の邪気もない、美しい笑顔。
だが龍之介には、その笑顔が、自らの心を頑丈に守るための「鎧」のように見えてならなかった。
「風呂か。実をいうと、ここ数日入っていなかったのでな。有難い」
「風呂の準備は、手伝ってもらうぞ」
「もちろんじゃ。力仕事なら任せてくれ」
二人は夕焼けで空が赤く染まる中、遠くで鳴く鴉の声を聞きながら、道場を後にした。
《2026/07/28 第一回修正》
私が一番、修正したかった一話です。
「全面的に」文章を整えました。
前の文章が拙すぎて、修正するのが精神的に辛かったです(/_<。)
話の内容は、ほぼ変わっておりません。
清志郎の人を寄せ付けない面を強調し、龍之介がそれに気づくのを自然にするために、後半を特に書き直しました。




