第三章 剣友(第一話)
龍之介の突飛な申し出に、清志郎はしばらく固まったままだった。ようやく我に返り、咳払いを一つしてから、口を開く。
「高坂殿、私はあくまで師範代の身です。貴殿のお申し出については、師範・道善に伺いを立てねばなりません」
清志郎は、ぐいっと龍之介の胸を押し、膝でじりと下がって距離を取った。
「ああ……まぁ、そうじゃのう……」
龍之介は、笑いながら頭をかいた。
「紗世さん、着替えたら先生に高坂殿を紹介しに参りますので、先に先生へお話してもらえませんか?」
「う、うん。わかったわ」
二人のやり取りに見入っていた紗世は、慌てて頷いた。
「高坂殿、とりあえず汗を流して着替えましょう」
清志郎は龍之介を伴い、道場の横にある井戸へ向かった。
◇
清志郎は道着の上を脱ぎかけ、袖を抜いて腰で結んだ。肩から胸元にかけて、鍛えられた筋肉が露わになる。龍之介も上着を脱ぎ、井戸水を浴びた。
湧き出る汗を井戸水でざっと洗い流すと、水滴をまとった肌が、陽を受けて光った。その無防備な姿に、紗世は思わず目をそらした――いや、そらしきれなかった。
「あ、あら……先生の肌、初めて見ちゃったわ。見えてしまったものは仕方ないわよね」
紗世の隣で鈴が、きゃっきゃとはしゃぐ。紗世は、ふるふると頭を振ると、少し頬を赤らめた。
「ねぇ、紗世。お昼は買い物にでも行かない?」
「うん。今日は面倒ごとに巻き込んでしまって、本当にごめんね」
「紗世ったら、また謝るんだから。じゃ、後でね!」
鈴が帰っていったので、紗世は真っ直ぐに道善の元へ向かった。
「ふぅ、びしょびしょになってしもうたのう。ようやく春が来たばかりじゃというのに。こんなに汗をかいたのは、久しぶりじゃ」
龍之介の隆々とした筋肉からは、まだ汗が滴り落ちていた。龍之介は、豪快に何度か頭から井戸水をかぶって、ふうっと息を吐いた。
手拭いで、顔を拭いている清志郎に、龍之介は声を掛けた。
「それにしても、この儂を負かすとは……やるのう、榊殿!」
清志郎は表情を崩さず、体を拭き続ける。
「高坂殿は武者修行中だよな。旅先で道場をみつけては、あのように道場破りを?」
「まぁな。いくつかはしたな。しかし、見てきた中で、お主が一番強かった」
「……お世辞でも、有難く受け取っておこう」
「いやいや、本当じゃよ。旅に出てからというもの、負けたのは初めてじゃ」
「……」
龍之介の言葉は、負けた後とは思えないほど、清々しかった。龍之介は、何事もなかったかのように青く晴れ渡った空を見上げていた。
清志郎には何故だか、その光景が、時を止めて切り出したいほどに美しく見えた。つい先ほどまで、憎らしい道場破りにしか見えていなかったというのに。
「たまたまだ。勝負は時の運って言うだろ」
「なんじゃ? 先ほどから、えらく謙遜するのう」
清志郎は、龍之介のくったくのない笑顔が眩しくて、思わず目を逸らした。
「あの状況で、負けるわけにはいかなかったからな。……ったく。まだ、腕が痺れてやがる。木刀を叩き落とされるかと思ったぞ」
手拭いを首に掛け、清志郎は苦い顔で、自分の両手をまじまじと見た。受け流せていたつもりでも、その手はまだ微かに震えていた。
「ははは、力だけが取り柄なものでな」
(力だけで、ここまで追い込まれるものか)
清志郎は、心の中で毒づく。
「故郷は? どこから来たんだ?」
「信濃の方から、流れ流れてってところじゃ。なに、まだ、そこまで長旅はしておらぬ。ぼちぼちじゃよ」
「そうか……いつも、寝泊まりはどうしてるんだ? 毎晩、道場や寺に泊めてもらえるわけではないだろう。宿代だって馬鹿にならないし」
いつも金に縛られている清志郎は、どうしても俗な事が気になってしまう。
「うむ、それはなぁ……道場破りをした際の口止めに、少々いただいたり、用心棒をしたりと……まぁ、なんとかなるもんじゃよ」
大した問題ではないとでも言うように、龍之介は、あっけらかんと答えた。
「用心棒……高坂殿は……その、人を斬ったことがあるのか?」
「用心棒」という言葉を聞いて、清志郎にふと疑問が浮かんだ。疑問というより、興味だったのかもしれない。
「……」
龍之介の表情が、少し固くなったように、清志郎には感じられた。
「……すまなかった。不躾なことを聞いた。答える必要はない」
(俺は……いったい何を聞いているんだ。他人の過去に、ずけずけと踏み込むなんて、どうかしていた)
清志郎は、己の言動を恥じた。だが、龍之介は少しの間の後、はっきりと答えた。
「……ある」
「――!」
龍之介の言葉に、清志郎はたじろいだ。予想はできていたというのに。
「幾人か、この手で斬った」
龍之介は、おもむろに己の手のひらを見つめていた。
剣で生きていくと決めたのなら、そういうこともあるだろう。当然のことだ。
だが、龍之介が過去に人を斬ったという事実に、清志郎はなぜか胸の奥が鈍く痛んだ。
(なんだ、この感覚は……。こういう話を聞くのは、初めてではないというのに)
「そ、そうか……すまない。それで、どうということではないんだ」
「構わぬ。剣に生きる者、いつかは誰かを斬るときが来るやもしれぬ……そう、考えぬ者は、おらぬじゃろうよ」
「……高坂殿は、俺が人を斬ったことがないとわかるのか?」
「うむ。お主の剣は、真っ直ぐじゃからの。いや、迷いがないというべきか……」
「……まっすぐで、迷いがない……そういうふうに見えるか?」
「儂には、そう見えたぞ。なんじゃ? 何か引っかかるのか?」
「……いや、なんでもない」
龍之介は、清志郎の言うことが、少しばかり不思議に思った。他人の評価など、気にするような男には見えなかったからだ。
「のう? 榊殿は、強者と真剣で斬り合いたいと、思うたことはあるか? 自分の腕が、どれほどのものか、試したいと」
清志郎は汗を拭く手を止めた。龍之介は、正直に答えてくれた。ここで誤魔化すなど、あってはならない。
「ああ、ある。人を斬りたくはないが、考えたことがないと言ったら、嘘になる」
「正直者じゃな。剣士ならば、そう思うこともあるじゃろうよ。じゃがな、榊殿。人を斬った儂から言わせてもらえば……お主には、そのままでいて欲しい」
「……」
まるで長く剣を交えてきた友のような言葉に、清志郎の胸は不意に熱くなった。思いがけないほど深く、龍之介の言葉を受け止めていた。
「あ、朝比奈心源流は活人剣だ。もちろん、そのつもりだ」
「うむ。それが何よりじゃ。榊殿は、人など斬らずとも、もっと強うなれるし、その方が剣術を好きでおることができると思うぞ」
(俺は、この男を見誤っていた。よく勝てたものだ)
清志郎は、胸の奥に小さな痛みを覚えながら、その横顔を見つめていた。
《2026/07/24 第一回修正》
文章を整えました。
話の内容は、ほぼ変わっておりません。
清志郎の龍之介に対する気持ちの変化を前より詳細に書きました。
ネタバレになりますが、なぜ龍之介だけが清志郎にとって特別なのか、そして奥に潜む前世をチラ見せしました。|д゜)




