第三章 剣友(第二話)
笑い合ったはずの時間のあと、静けさが残った。
ほんの一瞬でも、心がほぐれたような気がした。
だがそれは、龍之介の笑顔に引き出されたもので、自分の内から生まれたものではない。
笑ったあとに、どこかに置いてきたものを探すような虚しさが胸を掠める。
清志郎はそれを言葉にすることもできず、ただそっと、立ち上がった。
清志郎と龍之介は、井戸で汗を流したあと、道場の軒下に腰を下ろしていた。
井戸水で濡れたまま家に上がるわけにもいかず、二人は静かに、紗世が着替えを持ってくるのを待っていた。
「清ちゃん、着替え持ってきたよ。高坂さんの分もね」
「ありがとう、紗世さん……あっ、これは先生の着物? 俺ので良かったのに」
「清ちゃん、着替えを全然持ってないじゃない」
図星すぎて、清志郎は口をつぐんだ。
彼は、普段から衣服を最低限しか持っていないのだ。
しかも、自分の着物では、あの大柄な龍之介には到底足りない。
「高坂さん、これ父が使って構わないって。小さいと思うけど、とりあえず今日はこれで」
「おお、それは恐れ入る。お父上に礼を述べねば」
ふたりは着替えるため、道場に戻った。
「ぷ、ははは……」
着替えた龍之介を見て、清志郎の口元がぷっと緩む。
道善の着物は袖も裾も足りず、大人が子供の服を着ているようだった――。
「仕方なかろう。着る前から想像はできたじゃろう」
少し肩をすぼめ、龍之介は照れを隠すようにぼやいた。
「悪い……はは」
どこか子供じみた姿が可笑しくて、清志郎は笑いを止められなかった。
「ふん、まぁよいわ」
「ん?」
何が「よい」のか、清志郎にはわからなかった。
「お主も、そんなふうに笑うのだな」
清志郎は、はっと我に返った。
そういえば、こんなふうに無意識に笑ったのは……いつ以来だっただろうか。
紗世や子どもたちには、笑顔で接するように心がけていた。
だがそれは、いつも“努めて”いた笑顔であって――。
「い、いくぞ。先生の部屋へ案内する。失礼のないようにな」
清志郎は立ち上がり、少し耳を赤らめながら龍之介を促した。
「おう、頼む」
ふたりは道場を出て、道善の待つ部屋へと向かった。
清志郎は、自室の片隅に身体を丸めて、静かに座っていた。
龍之介を道善の部屋へ案内したのち、「少し席を外してくれ」とだけ言われた。
何を話しているのかは分からない。
気にするなと言われても、気にならないわけがない。
時間が経っても、龍之介は戻ってこなかった。
障子の向こうに人の気配はなく、風も音を潜めていた。
どこからともなく、庭先の梅の香が忍び寄ってくる。
紗世は鈴と一緒に買い物へ出かけた。
「午後の稽古は今日は休む」と言い残して。
(……茶屋であまり、話ができなかったのだろうか?)
午前中から、普段とは違う緊張が続いていた。
身体は正直だ。
思わず背を柱に預け、瞼の重さを感じる。
だが、眠るわけにはいかなかった。
いつ道善に呼ばれるか分からない。
呼吸を落としながらも、清志郎はじっと、時をやり過ごしていた。
「清ちゃん、どうしてそんな顔してるの?」
ふと、紗世の声が聞こえた気がした。
鈴と一緒に買い物へ行ったのではなかったか?
でも、目の前に確かに紗世がいる。
寝落ちしそうな自分を心配でもしているのだろうか?
なんでもない、そう言おうとしたら、紗世の姿がふわりと揺らいだ。
輪郭が滲んで、顔が変わる。
そこにいたのは――紗那。
「……清志郎」
(紗那……本当に紗那なのか?)
彼女の名前を呼ぼうとしたが、声が出ない。
「清志郎、私のこと、忘れたちゃった?」
懐かしすぎる紗那の声。
胸の奥で、懐かしさと痛みが混ざり合うように軋んだ。
(忘れるわけないじゃないか……俺はお前を……。)
あの日の笑い声が、耳の奥でかすかに揺らめく。
「忘れていいのよ。それよりあの子を大事にしてあげて」
紗那はそう言うと、背を向けて、遠ざかっていく。
呼び止めようとしても、やはり声が出ない。
紗那の姿は、どんどん小さくなっていく。
(待ってくれ! 紗那!)
清志郎は必死に声を絞り出そうとしたが、喉から音が出ない。
紗那の背中が、夢の中へと溶けていった。
………………。
清志郎は、膝を抱えたまま、目をゆっくりと開いた。
夢の輪郭がいまだ瞼の裏にぼんやりと残り、現実の輪郭がまだ定まらない。
障子の隙間から差し込む午後の淡い光が、静かに部屋の隅々を撫でている。
夢だったのだと、頭ではわかっている。
けれど、心の奥底に刺さった言葉だけは、まるで熱を帯びてじんわりと疼いている。
「忘れていいのよ――」
忘れられるはずがない。
拳をぎゅっと握りしめると、ひんやりとした汗が指の間からにじみ出た。
それが夢の熱なのか、紗那の声に呼び覚まされた記憶の残り香なのか、まだ判別はつかない。
部屋の静寂が、かえって胸のざわめきを際立たせる。
遠くで風が木々の葉を揺らし、庭先の梅の香りがふわりと鼻をくすぐった。
清志郎はゆっくりと背筋を伸ばし、深く息を吸い込んだ。
夢の中の紗那の姿が、まるで幻のように浮かび上がる。
その声、その表情、その背中の遠ざかり方までもが、胸の奥で切なく反響していた。
「おい、榊殿、おるか?」
障子の外から龍之介の声が聞こえ、現実の世界に引き戻される。
夢の余韻を胸に抱えながらも、清志郎は静かに立ち上がり、ゆっくりと障子を開けた。
道善の許しを得て、龍之介は暫く朝比奈家に居候することが決まった。
道善は清志郎に、ただ一言だけ言った。
「面白そうな男ではないか。お前の稽古相手としても不足はなかろう。お互い腕を磨き合いなさい」
――あんな怪力男を毎日相手にしていたら、不足どころか、お釣りがくるというものだ。
だが、門下生たちの稽古に物足りなさを感じていた身としては、心が沸き立つ。
午後の稽古は、予定通り行われた。
清志郎は龍之介に「怪我だけはさせるなよ」と念押ししたが、案の定、門下生たちは片っ端から薙ぎ倒された。
だが不思議と、誰も不満は漏らさなかった。
清志郎も久々に中身の濃い稽古ができたと実感していた。
龍之介はその豪快な性格で、すでに門下生たちと談笑する姿すら見せていた。
その陽気さと、どこか憎めない無骨さが、彼を異物ではなく「面白い兄貴」として場に馴染ませていた。
その日、道場は月謝の納金日だった。
清志郎は帳簿を開き、受け取った袋を丁寧に記帳していた。
そこへ、どこか気まずそうな顔をした門下生が、恐る恐る近づいてきた。
「あ、あの……先生……実は、今月ちょっと厳しくて……月謝、待っていただけませんか?」
「……ああ、耳にしてるよ。お母さん、具合悪いんだってな。構わないさ。玄庵先生には診てもらえたか?」
生徒を責める様子は一切なく、むしろ心配そうなまなざしで問いかける。
その一言で、門下生の顔がふっと緩んだ。
その後、また別の門下生を呼び出すと、個別に手取り足取りで指導を始めた。
掃除をする門下生たちが、ちらりと清志郎を盗み見る。
由太:「先生は俺らのこと、ちゃんと見てるよな。声もかけてくれるし、技も丁寧に教えてくれるし……」
文吉:「そうだな。でも、なんとなく距離を感じるんだよな」
沢井:「先生は自分を律しすぎてんじゃねぇかな?今、道善先生があの状態だろ?“師範”として務めなきゃってな」
勝:「それが器ってもんかもしれんが、ちょっと寂しく感じるな。“先生”じゃなくて、ただの兄貴分みたいに笑ってくれてもよいのにな。俺らと歳、そんなに離れてないだろ」
文吉:「だな。けど……俺は、その距離感も悪くないと思うぞ。届かぬ背中ってのは、憧れを呼ぶものではないか?」
沢井:「そうだな。“目指す先”であってくれる方が、俺らには丁度いいのかもな」
勝:「……けどよう、清志郎先生も、誰かに支えられたい時とかないのかねぇ?」
龍之介は、その会話を背中で聞きながら、静かに清志郎の方を見る。
(慕われてはおる。だが、親しまれてはおらぬ。……清志郎自身が、壁を作っておるのじゃ)
清志郎は、今度、一人の少年に構えを教えている。
声は優しく、所作も丁寧だが、そこに感情の起伏は少ない。
龍之介は思う。
(あの指導法は正しい。だが、それは“教本の正しさ”のようなものだ。門下生にとって、あれは“憧れの先生”であって、“近づける存在”ではない……それで、いいのか? 清志郎)
やがて、掃除も終わり、門下生たちは続々と帰って行った。
「さて、高坂殿。我らも引き上げて、風呂にでも入ろう」
清志郎の顔には、若干疲労の色が見えたが、柔らかに微笑む。
「風呂か!実をいうと、ここ数日入っていなかったのでな。有難い」
久々の風呂にありつけると聞き、龍之介も嬉しそうだ。
「風呂の準備は手伝ってもらうぞ」
「おう、力仕事なら任せてくれ」
二人は夕焼けが始まったばかりの中、遠くで鳴くカラスの声を聞きながら、紗世の待つ家へ帰って行った。