第二十三章 再会の涙(第二話)
戸の向こうに、師がいる。
十日ぶりにその声を聞ける安堵と、嘘を抱えたまま向き合う恐れが胸の奥でせめぎ合っていた。
清志郎は膝をつき、襖の前で一度だけ深呼吸をする。
その指先には、わずかに震えが残っていた。
清志郎は今、道善の部屋へ向かっていた。
泣き止んで笑顔を取り戻した紗世は、龍之介と宗真と共に、普段より豪華な夕飯を作ろうと台所で張り切っている。
道善は相変わらず自室で床に伏せっていたが、清志郎が帰ってきたことに、紗世よりも早く気付いていた。
道善の部屋の前で、清志郎は膝をつく。
一呼吸置いて、部屋に入ってもよいか伺った。
「先生、清志郎です。ただいま戻りました。仔細を説明させてください。入ってもよろしいでしょうか」
清志郎は、道善のすっかり細くなってしまった声を聴き逃すまいと、耳を澄ます。
少しの間があって、道善が返事をした。
「……入れ」
「はい、失礼します」
清志郎はすうっと音を立てないよう襖を開け、静かに部屋の中へ入る。
道善と目が合った。
生きていてくれたことに安堵したが、また一段と痩せた気がする。
「先生、この度は私のことで、ご体調が優れない中、更なるご心労をおかけしてしまい、誠に申し訳ございませんでした」
清志郎は道善の枕元から少し離れた場所に座り、深々と頭を下げた。
そんな清志郎に対し、道善は静かに頷く。
彼の目に怒りの色はなく、ただ心配の色だけが浮かんでいた。
「数人の浪人風情に襲われたのだろう?」
「え?……は、はい。ご存じでしたか」
「高坂殿が、お前が夜になっても帰らんから、様子を見に行ってくれてな。現場の惨状を詳しく話してくれたのだ」
「そうですか。龍之介が……。襲ってきた連中は皆、見知らぬ顔でした。物取りなら、もっと金持ちを狙えば良いものを」
清志郎はあえて、黒川のことには触れなかった。
巳山がどうやって調べたかは知らないが、確たる証拠は持ち合わせていない。
それに、もう黒川のことは忘れたかった。
「どこをやられた?傷を負って帰れなかったのではないのか?」
「はい。肩を少し、あとはかすり傷が幾つか……。軽傷なので心配は要りません。十日近くも戻ってこれなかったのは、熱が出てしまったからです」
道善は清志郎に気取られぬよう、彼の左の手元に視線を向けた。
案の定、清志郎は左の袖を、左手でぎゅっと強く握りしめている。
それは道善しか知らない、清志郎が幼い頃から、真実を呑み込むときにだけ見せる癖だった。
恐らく本人も気づいていないだろう。
「十日間、どこにいたのだ?」
「ええっと、詳しい場所はご本人の希望でお伝えできないのですが、千凪村からそれほど離れていない場所に医院を構えている闇医者に助けられまして。そこでしばらく世話になっておりました」
「闇医者か?」
「は、はい。でも、腕は悪くないようでしたよ。ちゃんと俺の傷も診てくれましたし。金の持ち合わせがないと言ったら、では今度、自分の仕事を手伝えと言われまして。……なので、ときどき外出させていただけませんか?治療費分、働かないと」
清志郎はまだ、左の袖を握りしめたままだ。
それをわかっていながら、道善は特に何も言わなかった。
「そうか。恩義は返さねばならぬからな。構わぬ。道場もお前の怪我の負担にならぬように、ゆっくり再開してくれればよい」
「ありがとうございます、先生」
特に何も言われず、了承をもらい、清志郎は安堵した。
道善に嘘をついている罪悪感は拭えないが、今はこうするしかない。
この人を助けると、死なせないと決めたのだ。
だが、次の道善の言葉が、清志郎の普段見せない激情的な面に火をつけた。
「金も……心配せんでよいぞ。もうすぐ、お荷物がいなくなる。そうすれば、少しばかりは楽になるはずだ」
「なっ!」
その言葉を聞いて、清志郎の胸の奥で、長く溜め込んでいた何かが弾けた。
「……先生、……本気でおっしゃってるんですか」
清志郎の声が、怒りを帯び震え、一段低くなった。
「いい加減にしてくださいっ!先生にとって、俺や紗世さんはどうでもいい存在なんですか!俺たちの気持ちも、少しは考えてくださいよ!なんでっ、……なんで、そんなこと言えるんです!」
「清志郎……」
清志郎は、道善の枕元にすり寄り、更に声を荒げる。
「先生は!俺の大好きな……尊敬してやまない道善先生は、こんな人じゃなかった!剣の腕だけじゃない!どんな逆境にあっても、負けない強い人だった筈だ!なのに……今のあなたときたら……」
清志郎の目には、涙がたまっていた。
いつぶりだろうか、彼が泣くのを見るのは。
(そうか、確か紗凪を儂が殺した日だ。夜中に一人、お前は道場の片隅で我慢できずに泣いていたな……それっきり、お前は涙をみせなかった)
「返してっ、返してくれよ!俺の先生を――!」
清志郎の涙腺は完全に決壊し、涙が頬を伝って流れ、両手は道善の衿を掴んでいた。
鬼気迫る清志郎に対し、道善はフッと柔らかな笑みを浮かべた。
「……こんなに近くで、お前の顔を見るのは久しぶりだな、清志郎」
「せ、先生?」
「もっとよく見せておくれ。ここに来たときは、幼い子供だったのに……すっかり大人になったな」
「……」
道善のすっかり細くなった腕が、清志郎の背中にそっと回された。
「許してくれ清志郎。儂は本当に弱い人間だ。お前の師である資格はないな」
清志郎は、道善を力を込めて抱き返した。
「ごめ、ごめんなさい、先生。俺、先生を責めるつもりじゃ……なかっ……先、生を……先生を、失いたくない。死なないで……お願いですからっ!ずっと……ずっと、怖くて言えなかった。俺は先生のこと、ち、父親のように思ってきました。先生に引き取られたとき、俺は、新しい父親ができたと思って……嬉しかった」
「清志郎……」
「も、申し訳……」
「謝るな清志郎。儂がもっと早く言うべきだったのだ。儂も、お前のことを実の息子のように思っていると。いや、お前は儂の可愛い息子だ」
絞り出すような、だが愛情に溢れた道善の言葉に、ぎゅっと閉じていた清志郎の目が見開かれた。
欲しくてたまらなかった言葉が、清志郎の耳にはっきりと届いた瞬間だった。




