第二十三章 再会の涙(第一話)
ようやく帰り着いた家の戸口で、清志郎の足が止まった。
たった十日――けれど、その離れていた日数は思った以上に重かった。
戸の向こうにいるはずの声を思い浮かべただけで、胸が痛む。
再び名を呼ぶその瞬間が、こんなにも怖いとは知らなかった。
「宗真、悪いが出立は明日にしろ」
「もちろんだ。この十日間ほど、一体どこで何してたのか、気になって行けたものではないさ」
再会を喜び、ひしと抱き合った三人だったが、ふと龍之介と宗真が清志郎から距離を取り、顔を寄せ合って何やらひそひそと話し始めた。
「おい、なんだよ二人とも」
一人取り残された清志郎は、頬を膨らませて不満を露わにする。
「いや、何でもないよ。こ、今晩の夕飯の話を……。私も朝比奈家で夕飯を共にしてもいいかな?」
宗真がなんとか誤魔化しにかかる。
「ん?ああ、俺は構わないぞ。紗世さんにも了承をもらわないとだけど」
「め、飯は儂と宗真で作る!紗世さんには迷惑を掛けぬから安心せい。紗世さんはな、お前が居なくなってからというもの、すっかり元気を失してしまって……見ていて辛かったぞ」
龍之介が宗真に続き、話の矛先を変えた。
だが、紗世が酷く落ち込んでいたのは本当の話だ。
龍之介は語りかけるような口調で、清志郎に紗世のことを告げた。
「毎日のように、泣いておったぞ」
薄々そうだとは思っていたが、改めてそう告げられると、清志郎の胸に鋭い痛みが走った。
龍之介がいてくれたとはいえ、彼は家族ではない。
いつまた武者修行に旅立つかわからぬ身だ。
病気の父を抱え、まだ年端もいかぬ女子が、たった一人でどれほど心細かっただろうか。
紗世が一人、肩を震わせて泣いている姿が、ありありと目に浮かんだ。
「そ、そうか……そう、だよな……」
「ほら、帰ろう。紗世さんに無事な姿を見せてやらないと。一体何があったのか、説明もしてくれよ」
「ああ。わかってるよ」
◇
朝比奈家へ向かう道すがら、出会う村人という村人が、まるで幽霊でも見るような顔で清志郎を見つめてくる。
そのたびに清志郎は気まずそうに会釈を返すが、相手はただ呆然と立ち尽くすばかりだった。
龍之介と宗真に聞けば、村中を道場の門下生で探し回り、それでも見つからなかったため、村人たちは皆、清志郎が死んだと思っていたらしい。
「こりゃ、どう説明して回るかな。門下生は俺の方で説明するから、他は寺で適当に話を流しといてくれよ、宗真」
「面倒を押し付けるなよ。そもそも、私がまだ、お前に大した説明を受けてないんだがな」
「だから、詳しくは家でな。紗世さんにも話さなきゃなんないし」
清志郎が道々掻い摘んで話した「浪人風情に襲われ軽傷を負ったところを助けられたが、熱が引かず帰れなかった」という説明に、二人はまったく納得していない顔だった。
「ほう、その軽傷とやらで十日も寝込むとは。見かけによらず虚弱なのじゃな」
龍之介が皮肉のこもった眼差しを向けてくる。
宗真はともかくとして、実際に斬り合いをしたことがある龍之介に嘘が通じるか、清志郎は一抹の不安を抱えていた。
「清志郎、さっきから気になっておったのじゃが、その髪飾りはなんじゃ?」
龍之介の視線は、清志郎が動くたびに髪と共に揺れる、乳白色の玉石に注がれていた。
「あ、ああ、これか?」
指摘され、清志郎は髪飾りにそっと触れる。
その指先は、どこかためらうように玉石を撫でた。
「お守りだとよ。命の恩人がくれたんだ」
二人は瞬時に理解した。
清志郎の言う『命の恩人』とは、おそらく女性だろうということを。
そして、案じた。
その髪飾りを紗世が見たとき、どんな顔をするかということを。
「村でこんな目立つものを身につけるのはどうかと思ったけど、せっかく用意してくれたからさ」
髪飾りを指摘された清志郎は、村人たちの好奇の視線だけを気にしているようだ。
清志郎の鈍感さに内心で溜息をつきつつ、外せと言い出す機会を計っていたが、無情にも言葉を交わす前に見慣れた朝比奈家の門が見えてしまった。
◇
清志郎は、表口の戸に手をかけた。
ところが、あれだけ帰りたかった朝比奈家だというのに、その手はなかなか戸を開けようとしない。
そんな清志郎の背中に、龍之介がわざと茶化すような声をかけた。
「どうした、久しぶりに恋人に会うから緊張しておるのか?」
その声色には、清志郎の罪悪感や恐怖を見抜き、あえて背中を押そうとする彼なりの思いやりが滲んでいた。
「お、俺と紗世さんは、まだそういうのじゃ……」
踏ん切りがつかない清志郎に、龍之介がとどめを刺す。
「いいから、早く開けんか」
「わ、わかったよ」
龍之介の言葉を受け、ようやく清志郎は戸を開け、土間へと足を進めた。
「ただいま」
清志郎は思い切って言ってみたが、奥から紗世が出てくる気配はない。
「ただいま、紗世さん?」
先程より、一段大きな声を発してみたが、紗世は出て来ない。
「……居ない?買い物にでも行ったのかな」
清志郎は、仕方なく草履を脱ぎ、廊下を通り居間へと進む。
龍之介と宗真は、彼と少しばかり距離を取り、ついていく。
次第に規則正しい音が聞こえてきた。
トン、 トン、 トン……。
包丁の音が一定に続く。
聞き慣れた筈のそれは、遥か遠い日に聞いた音かのように懐かしい。
清志郎はその音をひたすら辿っていく。
(紗世さん……)
台所には、味噌と出汁の匂いがほんのりと満ちていた。
紗世は、いつも通りに小袖の袖をきちんと紐でまとめ、髪も端整に結っている。
――けれど。
その背中は、いつもより、小さく見えた。
(……痩せた?)
清志郎は、何も言えなかった。
紗世の後ろ姿を前に、ただ立ち尽くす。
彼女の背中が語る十日間の重みに、かけるべき言葉が見つからなかった。
一体どれほど、そうしていただろうか。
――!
紗世の手が、ふと止まった。
カラン、と乾いた音を立てて、握っていた包丁がまな板の上に転がる。
まるで錆びついた絡繰り人形のように、身体がぎこちなく、ゆっくりと……酷くゆっくりと振り返る。
その大きく潤んだ瞳に、ぼんやりと想い人の姿が映り込む。
目の前のその姿が、もしも幻であったらと思うと、怖くて声が出ない。
「紗世さん……」
名を呼ばれた途端、膝から力が抜けた。
「――っと!」
崩れ落ちそうになった紗世を、清志郎が慌てて駆け寄り、間一髪で支えると、紗世の顔は清志郎の腕の中に埋まった。
焦がれた体温と臭いに包まれて、幻が現実へと昇華していく。
「清ちゃん……本当に、清ちゃんなの?」
消え入りそうなか細い声が、俯いたまま紡がれる。
「ええ。心配掛けてごめんなさい。今、帰ってきました。紗世さん、顔、見せてくれませんか?俺、ずっと会いたかったんだ」
紗世がゆっくり顔を上げると、そこには彼女を慈しむ笑顔が確かにあった。
「ただいま、紗世さん」
紗世の両目から、大粒の涙が零れ落ちた。
突然、子供に戻ったかのように泣き出した彼女を、清志郎はそのまま腕の中で泣かせてやった。
彼女が泣き止むまで、ずっとそうしていた。
そんな二人の姿を、清志郎の後をついてきた二人の男たちは、遠巻きに微笑ましく見守っていた。




