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第三章 剣友(第一話)

無邪気に笑い、時に真顔で剣を語る。

高坂龍之介という男は、何も隠していないようでいて、どこか掴みどころがない。

そんな彼と並んで井戸に立つ清志郎は、わずかに胸の奥がざわめくのを感じていた。

彼と出会わなければ――彼は、もっと穏やかな未来を歩んでいたのかもしれない。

けれどその記憶すら、自分の中には、やがて残らなくなるのだ。

龍之介の突飛な申し出に、清志郎はしばし口をあんぐりと開けたまま固まっていた。

やがて我に返り、咳払いひとつ。

ようやく口を開く。


「高坂殿、私はあくまで師範代の身。貴殿をここに置く許可は、師範・道善に伺いを立てねばならぬ」


清志郎は、ぐいと龍之介の胸を押し、膝でじりと下がって距離を取った。


「ああ……まぁ、そうじゃのう……」


龍之介は、苦笑いしながら頭をかいた。


「紗世さん、着替えたら先生に高坂殿を紹介しに参りますので、先に先生へお話してもらえませんか?」


「う、うん。わかったわ」


紗世は慌てて頷いた。


「高坂殿、とりあえず汗を流して着替えましょう」


清志郎は龍之介を伴い、道場の横にある井戸へ向かった。



 

清志郎は、道着の上を脱ぎかけ、袖を抜いて腰で結んだ。

肩から胸元にかけて、鍛えられた筋肉が露わになる。

湧き出る汗を井戸水でざっと洗い流すと、肌が一瞬、光った。

その無防備な姿に、紗世は思わず目をそらした――いや、そらしきれなかった。


「あ、あら……先生の肌、初めて見ちゃったわ!見えてしまったものは仕方ないわよね」


隣で鈴が、キャッとはしゃいでいる。

紗世は、ふるふると頭を振ると、少し頬を赤らめた。

紗夜は鈴に別れを告げ、急いで道善の元へ向かった。


「ふぅ、びしょびしょになってしもうたのう。こんなに汗をかいたのは久方ぶりじゃ」


続いて、龍之介も無造作に上を脱いだ。

隆々とした筋肉から、汗が滴り落ちている。

龍之介は.豪快に頭から井戸水をかぶった。

手拭いで、顔を拭いている清志郎に龍之介は、声を掛けた。


「それにしても、この儂を負かすとは……やるのう榊殿」


清志郎は表情を崩さず、体を拭き続ける。


「……高坂殿は、武者修行をしていると言っていたな。旅先で道場をみつけては、あのように道場破りを?」


「うむ……まぁ、いくつかはしたなぁ。しかし、負けたのは初めてじゃ。見てきた中で、お主が一番強かった」


龍之介は青く晴れ渡った空を見上げて、清々しく言った。

その光景が、清志郎には何故だか、時を止めて切り出したいほどに美しく見えた。

龍之介の言葉に、みっともない負け惜しみなどがなかったせいであろうか。


「たまたまだ。勝負は時の運って言うだろ」


「儂は世辞を言う方ではないぞ」


清志郎は、龍之介のニッと笑った顔が眩しくて、思わず目を逸らした。


「あの状況で負けるわけにはいかなかったからな。火事場のクソ力ってヤツだよ。まだ、腕が痺れてやがる。木刀を叩き落とされるかと思ったぞ」


手拭いを首に掛けた清志郎は、自分の両手をまじまじと見た。

受け流せていたつもりでも、その手はまだ微かに震えていた。


「ははは、力だけが取り柄なものでな」


(力だけで、ここまで追い込まれるものか)


清志郎は心の中で毒づく。

力と技を両方兼ね備えているなんて、まさに脅威だ。


「故郷は?どこから来たんだ?」


「信濃の方から、流れ流れてってとこだ」


それが本当なら、山々を越えての長旅だ。

龍之介の武者修行の本気度が伝わってくる。


「そうか……金どうしてるんだ?毎日、野宿とはいかないだろう?飯だって……」


いつも金に縛られている清志郎は、どうしても俗な事が気になってしまう。


「それはまぁ、道場破りをした時の口止めに、少々いただいたり、用心棒をしたりとかな。なんとかなるもんじゃよ」


龍之介は、あっけらかんと何でもない事のように答えた。


「用心棒……高坂殿は……その、人を斬ったことがあるのか?」


用心棒という言葉を聞いて、清志郎にふと疑問が浮かんだ。

疑問というより、興味だったのかもしれない。


「……」


一瞬で龍之介の表情が固くなったように、清志郎には感じられた。


「……すまなかった。不躾なことを聞いた。答える必要はない」


(初対面の相手に何を聞いているんだ。他人の過去にずけずけと踏み込むなんて、どうかしていた俺は……)


清志郎は己の言動を恥じ、急いで付け加えた。

だが、龍之介は少しの間の後、はっきりと答えた。


「……ある」


「……!」


予測できた事だ。

だから気になって聞いたというのに、清志郎はたじろいだ。


「幾人か、この手で斬った」


龍之介は、おもむろに己の手のひらを見つめている。

目の前に、人を斬った男がいる。

しかし、剣で生きていくと決めたなら、当然そういうこともあろう。

自分も剣術を極めたいと思う者なら、理解していなければならないことだ。


「そ、そうか……すまない。それで、どうということではないんだ」


「いや、わかるぞ、榊殿。剣に生きる者、いつかは、誰かを斬るときが来るやもしれぬと、考えない者は居らぬだろうよ」


「俺が、人を斬ったことがないとわかるのか?」


「わかるさ。一切穢れのない剣だった。榊殿は、強者と真剣で斬り合いたいと思うたことはあるか?自分の腕を試したいと」


龍之介は正直に答えてくれた。

ここで誤魔化すなど、あってはならない。


「……全くないと言ったら嘘になる」


「正直者じゃな。剣士ならば、それは当たり前のこと。だかな榊殿、人を斬った儂から言わせてもらえばな……お主には、そのままでいて欲しい」


まるで長く剣を交えた同志のような言葉に、清志郎の胸は不意に熱くなった。

自分でも思いがけないほど深く、その言葉を受け止めていた。


「あ、朝比奈心源流は活人剣だ。もちろん俺だって、そのつもりだ」


「うむ。それが何よりじゃ。榊殿は、人など斬らずとも、もっと強うなれるし、その方が剣術を好きでおることができると思うぞ」


自分はこの男を見誤っていたのかもしれない。

この男に、よく勝てたものだと、清志郎は今さらながらに思った。

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