第二十一章 女神の甘い罠(第二話)
別れの朝、二人は甘く切ない時間を過ごしていた。
しかし、それは澄が周到に準備した計画の最終幕に過ぎなかった。
清志郎が優しさから口にする言葉が、自らの自由を奪う鎖となる。
迫りくる破滅の足音に、彼はまだ気づいていなかった。
「清志郎様!お着替えはできた?」
燕羽の快活な声が、廊下から響く。
「も、もう少し待ってくれ」
(早すぎるだろ。まだ着替え始めたばかりだぞ)
清志郎は病院着から、澄に贈られた着物へと着替えている最中だった。
この日も燕羽は澄と共にやって来て、「早くその着物姿が見たい」と急かしてきたのだ。
「えぇぇ、まだなの?」
「燕羽ったら、急かしすぎよ」
ひそひそ話しているつもりらしいが、二人の声は清志郎に丸聞こえだ。
「す、すまない、待たせて。まだ入って来ないでくれよ」
(そういえば、澄さんにも当初はかなり急かされたな。もっとも、彼女の場合は心配してくれた結果だから文句は言えないが……)
ふと、澄と出会ったばかりの頃を思い出す。
あの頃の澄は、何を考えているのか掴めず、翻弄されっぱなしだった。
ほんの一週間ほど前のことだというのに、清志郎の心に懐かしさがこみ上げてくる。
「よし、着替え終わったぞ!お待たせ」
清志郎の声を待っていましたと言わんばかりに、燕羽が勢いよく部屋に飛び込んできた。
続いて澄も苦笑いを浮かべながら、静かに入ってくる。
「わぁ!いいじゃない!これをお召しになると、いい男に見えるわ」
(相変わらずだな、この子は……怖いものなしかよ)
清志郎は、まだ燕羽の扱いに慣れず、顔が引き攣る。
「ど、どうかな?澄さん」
清志郎は頭を掻きながら澄に尋ねた。
澄は、ふっと笑みをこぼすと、清志郎と距離を取りつつも正面に立ち、彼のつま先から頭までをじっくりと眺めた。
「素敵よ。煌びやかなだけでは駄目だったのね。こういう『見る人が見れば、その良さがわかる』――そんなものが、あなたにはよく似合うわ」
澄の言葉に、清志郎は照れ臭そうに頬を染めた。
「では、私はこれで失礼しますね。お邪魔虫は消えるわ」
澄と清志郎の顔を意味ありげに交互に見つめると、燕羽はにこやかに微笑み、そそくさと部屋を後にした。
「……」
「……」
燕羽が去ったあとの静寂が、かえって二人を気まずくさせた。
清志郎は、早鐘を打つ自分の心臓の音が澄に聞こえてしまうのではないかと、気が気ではなかった。
頬は先ほどよりも熱を持ち、視線が宙を泳ぐ。
俯いている澄の白い首筋も、心なしか緊張に強張っているように見えた。
やがて、澄がゆっくりと口を開いた。
「清志郎さん、ここに座って」
澄がすっと、椅子を差し出す。
「え? なに?」
「髪、整えてあげるから」
「あ、ああ」
清志郎は、とりあえず澄の言う通りに椅子に腰かける。
澄は、ただ小さく微笑むと、懐から小さな木製の櫛を取り出した。
そして、清志郎の背後に回り込み、そっと彼の髪に手を伸ばす。
「まだ少し乱れているわ。退院の日なんだから、ちゃんとしておかないと」
「そ、そうか……じゃあ、お願いするよ」
澄の柔らかく細い指先が、清志郎の髪と、うなじに触れる。
櫛がゆっくりと髪を梳いていく音だけが、静かな部屋に響いた。
清志郎は緊張で身体を強張らせていたが、澄の優しい手つきに次第に力が抜けていく。
それと同時に、澄にはもう二度と触れないという誓いが、もろくも砕け散りそうになるのを、必死に理性で押し殺していた。
「あなたの髪、とても柔らかくて綺麗ね」
澄が、その手つきと同じ優しさで呟く。
「そ、そうかな……癖毛だろ?束ねづらくないか?」
「そんなことないわ」
髪を整え終えた澄は、今度は懐から小さな袋を取り出した。
中には、深い青色の美しい玉がついた装飾品が入っている。
「これは、私からあなたへの最後の贈り物」
「澄さん……」
「お守りよ。神社で特別にお願いして、髪飾りとして、こしらえてもらったの。あなたが、もうあんな危ない目に遭いませんようにと祈りを込めて」
「か、髪飾り?俺みたいな男がつけてもいいのか?」
「千凪村では見かけないのね。都では、男性でもつけている方はいるわよ」
「そ、そうなんだ。綺麗な白い石が付いてるな。何の石だい?」
髪飾りは革紐で作られており、その先には革の房と、不純物のない乳白色の玉石があしらわれていた。
「白玉髄といって、光を透かすと柔らかな輝きを放つの。私の好きな石よ」
(これを付けて帰ったら、村で何か言われそうだ)
そう思ったが、せっかく澄が真心を込めて用意してくれたものだ。
ここは、その好意を素直に受け取るべきだろう。
「つけてあげるわね」
「ますます、澄さんのことが忘れられなくなっちまうな……あ、いや、すまない。頼むよ」
髪を結い終えるにつれて、清志郎は澄の手の感触に名残惜しさを覚えた。
「できたわよ」
澄の声に、清志郎は静かに立ち上がった。
未練はここで、完全に断ち切らなければならない。
清志郎は、これまでで一番の笑顔を作り、澄に礼を述べた。
「ありがとう、澄さん。お守りまで用意してもらって。着物と同じように大事にするよ」
澄は、まるで陽炎のように、ふっと消えてしまいそうな儚い微笑みを浮かべて頷いた。
その瞳の奥に宿る光までは、清志郎には読み取れない。
「お別れね、清志郎さん……」
その言葉に、清志郎の笑顔がすっと消えた。
「ああ、世話になった。この恩は一生忘れない」
「もう、何度同じことを言うの。いいのよ、そんなこと。あなたに出会うまで、私の毎日はただ平凡でもやもやしていた。でも、あなたと過ごした短い時間は、本当に幸せだったわ。それこそが、私にとって何よりも大切な贈り物だった」
「澄さん……」
「最後に、私の我儘をきいて欲しいの」
「なんだい?俺にできることなら喜んで」
「あなたを……あなたの半分を、私にくれない?」
「半……分……?」
意味がわからず、清志郎は不思議そうに澄を見つめる。
「そう。あなたは、私がどんなに手を伸ばしても、朝比奈家のあの子のもの。ちゃんとわかっているわ。でも……でも、私、あなたのこと一生忘れるなんてできない!だから、半分でいいの!あなたの心の半分を私にちょうだい!」
清志郎は、澄も自分と同じように、辛いながらも気持ちを整理してくれているものだと思っていた。
だが、そうではなかったようだ。
別れの直前になって、初めて気づいてしまった。
澄は袖で顔を隠しているが、その肩は小刻みに震えている。
どう見ても泣いていた。
清志郎は、どうしたらよいものかと、ひどく狼狽した。
落ち着いてもらおうと、なるべくゆっくり、優しく声をかける。
「澄さん……気持ちは嬉しいけど、それじゃあ澄さんは幸せになれないと思うんだ。きっと、俺と将来の旦那様との間で苦しむことになる。澄さんを幸せにしてくれる、俺なんかよりずっといい、澄さんに似合う立派な男が、きっと現れるさ」
「現れやしないわ、そんな人!私と結婚したがる男は皆、家の財産目当てよ」
澄はかぶりを振り、声を張り上げた。
その悲痛な眼差しと言葉は、清志郎の胸に真っ直ぐに突き刺さる。
澄は瞳に涙を溢れさせ、清志郎に抱きつき、その胸に顔を埋めた。
「す、澄さん……」
清志郎は、そっと澄の背中に左手を回し、右手でその頭を優しく撫でた。
(恋とは、これほどまでに感情が激しくぶつかり合うものなのかもしれない)
澄は恥も外聞もかなぐり捨て、最後の力を振り絞って想いをぶつけてきた。
恋愛経験の乏しい清志郎には、それがひたすらに純粋なものに感じられた。
そんな彼女の想いに、自分も正直に応えなければならない。
(紗世さん、ごめん。今だけ許してくれ。この人も俺の大切な人なんだ。俺は紗世さんの傍にずっといるから)
心の中で紗世に謝罪しながら、清志郎は澄への想いを吐露した。
「聞いてくれ、澄さん。俺は本来、死んでいたはずの人間なんだ。この残りの人生は……この命は、澄さんにもらったようなものだ。だから、どんなに離れていても、もう会えなくても、俺の中にはずっと澄さんがいるんだよ」
「清志郎さん……」
澄がやっと、涙に濡れた顔を上げた。
「俺は、これまで生きてこられた恩を朝比奈家に返さなければならない。だから、全部を君に渡すことはできない。彼らもまた、俺の命を繋いでくれた大切な人たちだから。でも、澄さんの言う通り、俺の半分は君に捧げるよ。俺は一生、澄さんのことを密かに想い続ける。さぁ、もう泣かないでくれ。最後は笑顔で別れたいんだ」
「本当に?ずっと私を、あなたの中にいさせてくれるの?」
「ああ、約束する」
清志郎は、澄の瞳をまっすぐに見つめ、力強く頷いた。
(かかった!今度こそ捕らえた!)
澄の瞳が、別の喜びに爛々と輝いたことに、清志郎は気づかない。
「ありがとう、清志郎。あなたなら、そう言ってくれると思ってたわ。私に本気で惚れていたものね」
「……え?澄……あっ、くっ!」
澄の態度の急変に驚く間もなく、突如襲ってきた激しいめまいと頭痛に、思考が追いつかない。
割れるような痛みに、思わず頭を押さえる。
「神との約束、守ってもらうわよ、清志郎。どうしたの?先日みたいに抵抗しないの?……できないわよねぇ?だって、半分くれると言ったその言葉には、あなたの確かな意思が込められていたのだから」
「な、何を言って……ううっ……ああぁっ!」
清志郎は痛みに耐えきれず膝から崩れ、床に手をついた。
全身から汗が噴き出し、息が荒くなる。
もう意識を保っていられない。
視界が急速に白んでいく。
たまらず、床に崩れ落ちた。
「あなたの半分で十分よ。私の言うこと、何でも聞いてちょうだいね」
澄が倒れた清志郎の顎をくいっと掬い上げると、彼の瞳は虚ろに宙を彷徨っていた。
「返事は?」
「は、はい……お、俺の……半分は、身も心も、あ、なたの、もの……い、如何様にも、お使いくだ、さ、い……っ!」
「ふふっ。よろしい」
澄が満足げに微笑むと、清志郎は完全に意識を失った。
「お見事です、姫様」
廊下に気配を消して控えていた雪音と燕羽が姿を現す。
「でも、半分でよかったの?完全に姫様のお人形にしちゃえばよかったのに」
「これでいいのよ。半分残っているほうが、地獄を見せてあげられるから」
「ああ、そうよね。さすが姫様!」
燕羽が無邪気に笑い、倒れた清志郎の周りをくるくると回る。
「さて、面倒だけど、また記憶を改ざんしておかなくてはね」
「え?このままじゃ駄目なの?」
燕羽は動きを止め、不思議そうに澄の顔を見上げた。
「この男には、まだ私の知らない何かが眠っているわ。少し様子を見たいの。村の儀式ももう少し先だし、急ぐことはないわ」
澄は、以前清志郎を掌握しようとして激しく抵抗されたことを思い出していた。
あのとき、清志郎の神殺しの罪業の紋様が青白い光を帯びて激しく蠢き、彼は「清守ではない!榊清志郎だ!」と言い放った。
自我を手放さなかったのだ。
(ただの人間が、この私の術に抗えるはずがない。あの子が……蒼耀が与えた力なの?もしそうだとしても、神殺しの烙印を刻まれた時点で、その力は剥奪されているはず……)
澄が考え込むのを見て、雪音が心配そうに声をかける。
「姫様、その姫様もご存じない力とは?放っておいても大丈夫なのですか?」
「ええ、問題ないわ。私を凌ぐものとは到底思えなかったし、念のため首輪もつけたのだから」
澄は屈んで、清志郎の髪を束ねた髪飾りにそっと触れた。
白玉髄の玉石が、ゆらりと怪しい光を放っていた。
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次回は澄斬姫の眷属・巳山と清志郎の絡みをお楽しみください。
巳山はイケメン設定です。
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