第二十一章 女神の甘い罠(第一話)
長い療養生活に終止符を打つ朝が訪れた。
清志郎にとって待ちに待った退院の日である。
しかし、彼を取り巻く人々の心には、昨夜行われた秘密の儀式の影が重くのしかかっていた。
晴れやかな春の陽光とは裏腹に、それぞれが抱える秘密と思惑が、静かに蠢き始めていた。
澄斬姫が秘密裏に「解放の儀式」を行った夜が明けた。
清志郎の退院を祝うかのように、空は晴れ渡り、爽やかな春の空気が漂っていた。
暖かな日差しが差し込む中、清志郎は軽く体を解していた。
昨晩は風間医院で過ごす最後の夜ということもあり、様々な思いが巡り眠れないかと思ったが、意外にも入院中で最も深い眠りを得ることができた。
(これなら、鈍った体でも、千凪村まで歩いて行けそうだな)
そうこうしていると、廊下から新太の呼ぶ声がする。
「清志郎、起きてるか?」
「ああ、起きてるぞ」
清志郎が戸を開けると、いつもの仏頂面が現れた。
「おはよう、新太。薬か?」
この仏頂面を拝めなくなるかと思うと、少し寂しさを覚える。
「いや、その前に最後の診察だ」
「ああ、そうか。呼びに来てくれたのか、ありがとよ。……ん?あれ、お前……」
清志郎の笑みがすっと消え、真顔で新太の顔をのぞき込んだ。
「な、なんだよ、急に」
「隈、できてるぞ。……何かあったのか?ずいぶん疲れた顔だ」
「……うるせぇ。余計な世話だ。お前と違って俺は忙しいんだよ。ほら、さっさと診察室に行け!」
新太は清志郎の背中に手を回し、診察室の方へと押し出す。
「おっとっと。はいはい、わかったよ。夜更かしも程々にな」
清志郎は再び笑顔を浮かべ、新太の頭に手をぽんと置いてから、そのまま診察室へと向かった。
(あいつが一体何をしたと?人を斬ったのだって、初めてだと言っていたし……裏の顔があるようには到底見えない)
清志郎の後ろ姿を、新太は見えなくなるまで、じっと見つめていた。
◇
「うん。問題ないでしょう。予定通り、今日退院できますよ、榊殿」
風間の言葉を聞いて、清志郎の顔にぱっと明るい笑顔が浮かんだ。
「そうですか!お世話になりました。風間先生は命の恩人です。このご恩は一生忘れません」
「いやいや、榊殿の生命力があってこそのことですよ。でも、いきなり無理はしないでくださいね。そういえば、榊殿のお師匠様、道善先生でしたよね?これ、彼の薬です。用意しておきましたよ」
風間は薬の入った包みを清志郎に渡してきた。
「助かります、風間先生」
清志郎は、これが道善の命綱だとばかりに、大事に受け取る。
「先日お伝えした通り、これはあくまで延命のための薬に過ぎません。本気で道善殿を助けたいのであれば、またお越しください。約束通り、澄さんには内緒にしておきますよ。榊殿も同じく、ね?」
「はい、もちろんです。これ以上、彼女に迷惑は掛けられませんから」
このとき、風間が内心でほくそ笑んでいたことに、清志郎は全く気付いていなかった。
「それから、くどいようで申し訳ありませんが、ここの存在はできるだけ知られたくないのですよ。そうですね……榊殿は軽傷を負い、たまたま通りがかった闇医者に助けられた、ということにしていただけますか?村に戻れなかったのは、長引く熱で動けなかったため、ということでお願いします」
「はい、承知致しました」
(そうそう、ここは上流階級御用達だったもんな。金がある奴はいいよなぁ……)
金では買えないものがある。
金が全てではない。
金のやりくりに困ってこそすれ、ここに来るまでは、その価値観に支えられていた。
だが、現実はどうだ。
道善の命も、澄に繋いでもらったこの命も、天秤に乗せれば金の重さでたやすく傾く。
金で命が買えるのだ。
信じていたものが音を立てて崩れ、胸に空虚な風が吹き抜けた。
「仕事に来るときも、お一人で頼みますよ」
「心得ました。ここのことは誰にも話しませんから、ご安心ください」
(紗世さんたちを欺くようで気がひけるが仕方がない。金が貯まるまで、なんとか隠し通すしかないな。できるか?いや、やるしかないんだ)
風間という救いを前に、不安を抱えながらも、清志郎は自分に強く言い聞かせた。
◇
清志郎が診察室を出て自室に戻ると、入れ替わりに新太が入ってきた。
新太は青ざめた顔で風間に尋ねる。
「先生、大丈夫なんですか?姫様には、もう止めるようにと……」
「これまでの研究を無駄にしたくないんだよ。お前だって苦労してきたじゃないか。身体を失ったのは痛いがね」
風間は清志郎のときとは打って変わり、愛想笑いを一切浮かべず、瞳に闇を宿して新太に本音を漏らした。
「も、もし姫様の耳に入ったら、俺たち、ただじゃすみませんよ?」
「まぁ、そうだろうね。そこでだ、新太。お前の力を借りたいんだよ」
風間の口角が上がり、不気味な笑みが浮かび上がる。
「な、なんです?俺にどうしろと?」
新太は風間の真意を図りかねた。
「千凪村の寺から例の札とやらを、くすねてきてもらえないかな?姫様に知られてしまったときのためにね」
「せ、先生……本気ですか?」
「ああ。それがあれば、彼女たちは私たちに手出しできないんだ。心配いらないさ」
新太の心配をよそに、風間はあっさりと「心配ない」と言い切った。
なぜ、そんなに簡単に言い切れるのか、新太には理解できない。
「でも、姫様は清志郎を使って……」
「清志郎くんも手に入れてしまえば問題ないだろう?私は彼の秘密も知りたいんだよ。それに新太。彼に村の人間たちを惨殺させたいかい?」
「そ、それは……」
「姫様は何か訳のわからないことを言っていたが、私が見たところ彼は善人だよ。彼を殺人鬼にするのは忍びない。そう思わないか?あの女神様は『祟り神』だよ」
風間は澄斬姫を『祟り神』と断じ、その言葉で新太を自らの側に引き込もうとする。
確かに、姫は清志郎を刃として村の上層部を一掃しようとしている。
だが、目の前の男の言葉もまた、甘い毒に満ちていた。
瞳の奥に揺らめくのは、同情などではない。
底なしの探求心だ。
知りたい――その欲望だけが、この男を突き動かしている。
(先生は変わってしまった……)
風間に従っても、澄斬姫に従っても、もはや蛇の道しかないではないか。
道の分岐点で、新太の心は激しく掻き乱された。




