第二十二章 封光揺らぐ帰途(第一話)
うなじに触れる澄の指先の感触と、ふわりと香る彼女の匂い。
清志郎は目を閉じ、この最後の時間を惜しむように味わっていた。
しばらくして、髪紐が結われる感触と共に、「できたわよ」と澄が囁いた。
別れを惜しむ清志郎は、なぜかこの別れに既視感を覚えていた。
「できたわよ」
澄の声に、清志郎は静かに立ち上がった。
「ありがとう、澄さん。お守りまで用意してもらって。着物と同じように大事にするよ」
澄は、まるで陽炎のように、ふっと消えてしまいそうな儚い微笑みを浮かべて頷いた。
「お別れね、清志郎さん……」
その言葉に、清志郎の笑顔がすっと消えた。
「ああ、世話になった。この恩は一生忘れない」
「もう、何度同じことを言うの。いいのよ、そんなこと。あなたに出会うまで、私の毎日はただ平凡でもやもやしていた。でも、あなたと過ごした短い時間は、本当に幸せだったわ。それこそが、私にとって何よりも大切な贈り物だった」
「澄さん……」
二人は、言葉を探すように、ただ柔らかく微笑み見つめ合った。
――しかし、胸の奥に奇妙な棘が刺さったような感覚が残る。
なんなのだろう、この違和感は。
まるで、以前にも寸分違わぬ別れを経験したような……。
いや、あるはずがない。
大切な人との別れは、いつも自分という人間を変えてしまうようで、不安に満ちているものだ。
きっと、そのせいだ。
清志郎は胸のざわめきを振り払うように、一度強く目を閉じた。
「じゃあ、行くよ。……どうか、達者で。澄さんの幸せを、遠くから願ってる」
「ええ。清志郎さんも、お元気で。もう、危ない目に遭わないでね」
「ああ」
清志郎は澄の顔を心に焼き付けると、自分に残された唯一の得物である脇差を腰に差し、部屋を出た。
風間医院の表口へ向かうと、風間と新太が診察室から出てきて、腕を組みながら立っている。見送りのつもりらしい。
「風間先生、新太も、本当にお世話になりました」
清志郎は二人に、深々と頭を下げた。
「道中、お気をつけて。何かあったら遠慮なくお越しください」
風間が、意味あり気な笑顔で言う。
それは体調の心配をする素振りで、例の仕事の件を示唆しているのだろう。
「また襲われて、すぐに泣きついてくんなよ!」
新太が憎まれ口を叩いた。
この憎まれ口を聞けなくなることに、少し寂しさを覚える。
清志郎は「ああ」と笑って応え、風間医院の表口を出た。
だが、前方に刀を差した浪人風の男が立っていることに気づき、反射的に脇差の柄に手を掛けた。
「警戒なさいますな。某、怪しい者ではございません」
「……あ、あなたは?」
「巳山玲牙と申します。澄様の命により、榊殿を千凪村までお送り致します」
清志郎の思考が、一瞬、白紙になった。
(……千凪村まで、俺を、送る?)
「ええぇぇぇっ!ちょ、澄さぁーん!」
せっかく綺麗に決めたはずの別れが、台無しになった瞬間だった。
◇
「ご、ごめんなさいね。どうしても心配で……。それに、先に言ったら、清志郎さん、絶対に断るでしょう?」
それが澄の言い分だった。
巳山玲牙という男は、澄に雇われている護衛役の浪人らしい。
年は二十代後半だろうか。
背格好は清志郎とそう変わらない。
(そりゃ断るよ。これじゃ、籠を断った意味がないだろ。本当に世話焼きだよな、澄さんは……。まぁ、彼女らしいけど)
千凪村への山道を、二人は並んで歩く。
半刻ほどの道のりだと聞いていたから、方向さえわかればすぐに知った道に出られる。
清志郎はそう高を括っていた。
千凪村周辺の山道なら、熟知しているつもりだったからだ。
しかし、巳山は清志郎の知らない獣道のような小径を行く。
(また風間医院に行く用事もできたことだし、道を覚えておかないと)
清志郎はせわしなく周囲に視線を配り、特徴的な木や岩、足裏の感触に意識を集中させる。
だが、無言のままでは気まずい。
清志郎は意を決して、隣を歩く男に口を開いた。
「あの……夜分、澄さんを屋敷まで送っていたのは、巳山殿でしたか?」
「ええ。普段は澄様の護衛が任務ですので」
「そうでしたか。では、風間医院に私を運んでくださったのも?」
「私ともう一人とで」
「それは、かたじけない。危うく命を落とすところでした」
「澄様のご命令に従ったまでです」
「は、はぁ……」
(なんだろう。ことごとく会話を打ち切られてる気がするっ!)
清志郎はめげずにもう一つ質問を重ねた。
「では、私を襲った浪人たちを調べてくださったのも?」
「ええ、澄様に言付かりましたので」
「何から何まで……かたじけない」
巳山は無視こそしないが、必要最低限の返答しかせず、表情一つ変えない。
清志郎はひどく居心地の悪い思いをした。
千凪村への道は、まだまだだというのに、早くも会話の種が尽きそうだ。
(まぁ、向こうが話したくないなら、無理に話す必要もないか。煙たがられてもな……)
巳山は、きりりと通った鼻筋を持つ、男から見ても涼やかな顔立ちをしている。
ただ、いかんせん愛想がない。
(俺も大概だが、ここまでではないぞ。俺を送り届ける仕事なんざ早く終わらせたいということか?)
会話を諦めかけたとき、清志郎は巳山が時折自分を横目で確認し、歩調を合わせてくれていることに気づいた。
そもそも澄が自分の護衛につけた人物だ。
無口ではあるが、信頼できる人間なのだろう。
清志郎は少し考えを改めた。
「巳山殿は、いつから澄さんの元に?」
「もう、随分と長くなります。澄様がまだ、少女の面影を残しておられた頃からでしょうか」
「そんなに長く?」
巳山は自分と同じ年頃に見えたが、だとすれば一体いくつなのだろう。
清志郎は目の前の男の実年齢が急にわからなくなった。
「巳山殿から見て、澄さんは、どのようなお人ですか?」
そのとき、巳山が初めて足を止め、清志郎の目を射抜くように直視した。
その瞳の奥に宿る静かな熱量に、清志郎は思わず息を呑む。
「澄様は、誰よりも慈悲深く、聡明なお方。そして、誰よりも忍耐強く、ご自身の信念を貫かれる」
淡々とした、しかし一片の揺らぎもない声だった。
「私はあの方のためなら、この命、いつでも差し出せます」
「……」
それは巳山の偽らざる本心なのだろう。
だが、今までで最も長く、そして重い返答に、清志郎は言葉を失った。
それは、もはや金で雇われた浪人の主に対する忠誠心を超えているように思えた。
ふと、疑問が浮かぶ。
澄は、この男の想いを知っているのだろうか。
これほど誠実で、容姿も整った男が、ずっと傍にいたというのに、男として意識したことはないのだろうか。
清志郎は、胸の内に生まれた小さな染みが気になった。
やっとのことで、乾いた喉から言葉を絞り出す。
「巳山殿のような方が澄さんの傍にいてくださるとわかり、安心しました」
「そうですか?」
「ええ。俺が言うのもおこがましいですが、これからも澄さんのことを守ってあげてください。……お願いします。俺には、したくても、できないことですから」
「私も、こう言っては失礼ですが、榊殿にはある意味で感謝しております。仕方のないこととはいえ、澄様のなされようとしていたことに、私は反対でしたので」
「え?どういうことですか?」
「ご理解いただく必要はございません」
巳山はそう言うと、再び前を向いて歩き始めた。
その言葉の真意を、清志郎はそれ以上問うことができなかった。
おそらく、澄が例の縁談を完全に断る決意を固めた、ということなのだろう。
清志郎は、自分に都合の良い解釈を胸に抱き、男の背中を追った。
次回、清志郎の前世を巳山視点でお楽しみいただければと思います。
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