第十四章 光の雨に抱かれて(第一話)
もう少しで触れてしまいそうだった澄の唇を思い出し、清志郎は込み上げる情を必死にねじ伏せた。
己には恩義を返す道があり、この想いは許されない。
そう言い聞かせるほどに、隣に座る彼女の「お辛かったのでしょう?」という優しい声が、固めたはずの決意を甘く揺さぶった。
「もう……無理しないでって言ったのに。本当は辛かったんでしょう?」
澄が本心から心配するように、少しだけ眉を下げて清志郎の顔を覗き込む。
「ははっ、すまない。少し無理をしないと、鈍った身体への訓練にならないと思って」
長椅子は、手を伸ばせば届くほどの距離にあった。
ふらついた勢いのまま、危うくその角に頭をぶつけるところで、ひやりと肝が冷える。
入院を延ばすわけにはいかない。
三両から足が出てしまう。
「座れそう?」
「ああ、大丈夫だ。よっと……ふぅ」
清志郎が深く腰を下ろすのを見届け、澄もその隣にそっと腰を下ろした。
触れるか触れないかの距離に、先ほどの出来事が鮮やかに蘇る。
もう少しで触れそうだった澄の唇――一度落ち着いたはずの胸の鼓動が、再び早鐘を打ち始めるのを感じた。
(馬鹿っ!何を考えている!)
心の中で自身を叱咤する。
澄に触れられることは何度もあった。
抱きしめ合ったことだってある。
それなのに、今この瞬間ほど心臓が高鳴ったことはなかった。
清志郎は平静を装うのに精一杯だった。
ふと、いつもはよく話す澄が、珍しく口を閉ざしていることに気づく。
気になって横目で窺うと、彼女は俯き加減で、その白い指を固く握りしめているように見えた。
清志郎は慌てて視線を庭へと逸らした。
気まずい沈黙に耐えきれず、最初に口を開いたのは清志郎だった。
「す、澄さん……あの、房になっている黄色い花は?」
「ああ、あれね?ミモザと言うの。寒い冬を越えて、毎年こうして春の訪れを告げるのよ。陽に透けると、空から光の粒が降ってくるようで、とても綺麗でしょう?」
「へ、へぇ……。では、地面に咲いているあの青い粒のような花はなんだ?葡萄のようにも見えるが」
「ふふ、ムスカリよ。西洋では“グレープヒヤシンス”とも呼ばれるの」
「西洋の花か。どうりで、俺の見たこともない草花ばかりだと思った」
「後でゆっくり散歩しながら、近くで色々と見てみましょう。どれも、可憐で美しいものばかりよ」
澄がいつもの調子を取り戻してくれたことで、清志郎はほっと胸をなでおろした。
「そういえば、澄さんのご本家は江戸だったよな?もしや……俺が軽々しく口を聞けないお家柄とか?」
清志郎は、ずっと気になっていたことを思い切って澄に尋ねた。
「嫌だわ清志郎さんたら。私の家は商いをしている町人よ。ごめんなさい。私が不遜な物言いだから、そんな風に思わせてしまったのね」
「いや、自然体な澄さんで構わないんだ。今更堅苦しいのは御免だ」
澄が裕福ではあっても、武家ではなく町人だと知った瞬間、不思議と心が軽くなるのを感じた。
「それで、商いってどんなことしてるんだ?」
「廻船問屋を営んでいるのよ。上方(大阪)と江戸を行き来して、お酒や反物を運んだりしているの」
「へぇ、ご家族は?」
「祖母の他に、両親と姉と弟がいるの。江戸の店は弟が継ぐことになると思うわ。姉は父の言うとおりに嫁いだけれど、あまり幸せそうには見えない……」
「えっ、どうして?」
「あまり素行が良くない人らしいの。夜遊びが過ぎて、姉を大事にしてくれないのよ」
「ああ、それは……」
「実は、私にも父が縁談を持ってきていて……」
その言葉に、軽くなったばかりの心が、瞬時に凍りつく。
「……す、澄さん、その縁談、受けるつもりなのか?」
「酒癖が悪く、方々で噂が飛び交っているような人なの。それでも父は、店を今以上に大きくしたくて私を嫁がせたいのよ」
「駄目だ!そんな奴と一緒になっては!澄さんが不幸になるのは目に見えている!」
思わず言葉に力が込もる。
そんな男と一緒になれば、美しい澄の笑顔はきっと消えてしまうだろう。
それに、胸の奥が何かに強く締め付けられるような感覚がする。
「実は……祖母の看病というのは建前で、そんな人と一緒になりたくなくて、逃げてきたの」
「そうだったのか。お父上は、まだその縁談を進める気なのか?」
「まだ、完全に諦めてはいないみたい。でも、祖母と母は、反対してくれているわ。二人とも『あなたは、お店のことは考えないでいいから、本当に好きな人と結婚しなさい』って、言ってくれてるの」
「そうか。俺が口を出すことではないが、絶対にその縁談、受けないでくれよ。その……澄さんの笑顔が消えるのは、どうしても嫌なんだ」
澄の顔をまっすぐに見ることができず、清志郎は庭に視線を向けたまま言った。
だが、それは紛れもない本心だった。
そんな男と澄が結ばれるなんて、絶対に許せない。
「清志郎さん……」
返ってきたのは、驚きを帯びた、か細い声だった。
それが、澄のどういった感情が含まれているのか、清志郎には図りかねた。
「清志郎さんは、千凪村の剣術道場の師範代をしてるって言ってたわよね?」
「ああ。武家だけでなく、百姓や僧侶、それに子供たちまで受け入れている、少し変わった田舎道場だ」
「ふふっ。和気あいあいとして、楽しそうな道場ね」
「まあな。おかげで、ちっとも儲かりはしないが」
「清志郎さんのお父上が、師範をされているの?」
「いや、師範は俺の遠縁にあたる方だ。両親を早くに亡くして、引き取っていただいたんだ。師範には娘が二人いたよ。けど、姉の方は……火事で亡くなってしまって」
「火事で?お気の毒に」
「ねぇ、師範代ってことは、いずれ清志郎さんが、そこの道場を継ぐの?その妹さんと……」
「……」
「……清志郎さん?」
返事が返ってこない清志郎に、澄は首をかしげた。
「……そう、なるのかもしれないな。俺のような者でよければ、の話だが。弟子たちがついてきてくれるかも怪しいものだ」
清志郎は我に返ったように、自嘲気味な笑みを浮かべて答えた。
澄は一瞬、返す言葉を失ったかのように、ただ清志郎を見つめていた。
だが、次に彼女が放った問いは、清志郎の胸の真ん中を、鋭く、そして静かに貫いた。
「好きなの?その、妹さんのこと」
「……だ、大事な人だよ」
「そう、なのね……」
澄の瞳が、どこか悲しげに揺れたように見えた。
その瞳と、紗世を「好きだ」と言い切れなかった自分への罪悪感で、清志郎の胸は激しく痛んだ。
「……少し、歩きましょうか」
彼女はそっと清志郎の手を取り、ゆっくりと立ち上がった。
「ああ、少し休みすぎてしまったな」
清志郎もそれに応じ、手を取られたまま立ち上がった。
二人は、ミモザの木の下まで、まるで時を惜しむかのように歩いていく。
澄の言った通り、ミモザの黄色い花々を透かして降り注ぐ陽光は、まるで光の雨のようだった。
その光に包まれた澄の顔は、一層輝いて清志郎の瞳に映った。
その姿はあまりに神々しく、彼は言葉にせずにはいられなかった。
「綺麗だ、澄さん。まるで……遠い神話に出てくる、“女神”のように」
「……!」
物悲しげな表情を浮かべていた澄が、息を呑むのがわかった。
その顔には、深い驚きが刻まれていた。
「あ、ははっ。な、何を言ってるんだろう俺は。自分でも、恥ずかしいこと言っちまったなって思ってる。でも、本当に、今の澄さんは、俺には眩しすぎて……」
呆れられたか、あるいは気味悪がられたか――そう感じた清志郎は、笑ってその場を取り繕おうとした。
しかし、言葉の終わりは、切なさを帯びて、情けなく震えていた。
そんな清志郎に、澄はふっと目を細め、花が綻ぶように微笑んだ。
「大袈裟ね。褒めすぎよ」
どちらともなく、寄り添い合う。
春の柔らかな風に揺れる、光り輝くミモザの下で、二人は時が止まったかのように、強く切なく抱きしめ合った。




